テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「……あー、つら」
ぽつりと溢れた独り言は、自分の部屋の静寂に吸い込まれて消えた。
ここ数日、スケジュールは信じられないほどの過密を極めていた。新曲のプロモーション、バラエティの収録、連日のダンスレッスン。20代前半特有の若さと勢いで乗り切れると過信していたが、どうやら身体のバッテリーは自分が思っている以上に限界を迎えていたらしい。
今朝からどうにも身体が重い。熱を測ったら負けな気がして体温計には触れていないが、視界がときおりぐにゃりと歪むのを感じていた。
「水……飲も……」
カラカラに乾いた喉が、水分を求めて悲鳴を上げている。
重い腰を上げ、ふらつく足取りでリビングを通り抜け、キッチンへと向かった。
いつもならなんてことのない数歩の距離が、まるで底なし沼を歩いているかのように遠く感じられる。
どうにかシンクの前にたどり着き、お気に入りのマグカップを手にした。蛇口をひねり、透明な水が注がれ始める。
だが、そのわずか数十秒の時間が、今の身体には耐え難いほど長かった。
(……あ、無理。立ってらんない……)
手元が微かに震え、水の入ったマグカップを保持していることすら億劫になる。諦めたようにマグカップをシンクの中にカツンと置き、そのまま、蛇口から流れ続ける水の音を聞きながら、床へとしなだれ込んだ。
背中をシンクの収納棚に預け、ずるずると滑り落ちるようにして座り込む。
ひんやりとしたフローリングの感触が、火照った身体に心地いい。
マグカップから水が溢れ、シンクの排水口へと流れ落ちる規則正しい音が、遠くの方で聞こえていた。
「……ハル? 何してんの、そんなとこで」
突然、頭上から降ってきた声に、肩が小さく跳ねた。
声の主はアロハだった。
今日は午前のダンスレッスンの後オフが重なり、なんとなく様子がおかしいと察して「様子見にいくわ」と家に押しかけてきてくれていたのだ。リビングのソファでスマホをいじっていたはずのアロハが、いつの間にかキッチンの入り口に立っていた。
「……ッ、あ、アロハくん」
咄嗟に、自分が置かれた状況の格好悪さに気づいて焦った。
キッチンシンクの前に体育座りのように丸まって座り込んでいる姿なんて、どう見ても異常だ。
「水、出しっぱなしじゃん。危ねぇな」
アロハが足早に近づいてきて、まずは蛇口をキュッと締める。そして、床に座り込んだままの目の前に、片膝をついて視線を合わせた。
覗き込んできたアロハの瞳には、明らかな心配の色が浮かんでいる。
持ち前の負けず嫌いと、年上のメンバーに余計な心配をかけたくないという意地から、精一杯の作り笑いを浮かべた。
「あはは……ちょっと、きゅーけーしてた」
「休憩って、キッチンの床で?」
「そう。ここ、なんかひんやりしてて気持ちいーなーって思って」
へらへらと締まりのない笑みを浮かべ、何でもない風を装う。
みかん
38
アロハを安心させるために、さっさと立ち上がって部屋に戻ろう。そう思って、床に手をつき、お尻を持ち上げようとした。
──だが、身体が言うことを聞かない。
「……あれ?」
手足にまったく力が入らなかった。
脳からの命令が途中で遮断されているかのように、指先ひとつ、膝ひとつが鉛のように重い。立ち上がるどころか、少し身体を浮かせただけで、またずるずると元の位置へ崩れ落ちてしまった。
アロハが、じっと様子を見つめている。その真剣な眼差しに、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「はいはい、嘘言わないの」
アロハの低く、だけどどこか優しい声が室内に響く。
アロハはそっと、自分の手の甲をおでこに当ててきた。ひんやりとしたアロハの手が触れた瞬間、自分がどれだけ熱を持っているかを自覚させられる。
「まだ顔真っ白だよ? 唇の色もないし。何が休憩だ。完全にバテてんじゃん」
「……っ、そんなこと、ない……ちょっと立ちくらみしただけで、もう治まってきた、つもり……」
言い訳を口にしながらも、アロハの「顔真っ白」という指摘の通り、視界の端がチカチカと明滅し始めていた。さっきまでは耐えられると思っていたのに、アロハに見つかって緊張の糸が切れたのか、急激に強い目眩に襲われる。
「あ……だめだ、これ……」
完全に降伏したように、すとんと首を落とした。
視界がぐるぐると回り、自分の意志では上体を支えていることすら難しくなる。
「ほら、無理すんなって」
アロハの大きな手が、華奢な肩をがっしりと支えた。そのまま、床に倒れ込まないように、自分の胸元へと優しく引き寄せる。
アロハの体温と、柔軟剤の落ち着く香りが鼻腔をくすぐった。その安心感に、目からじわりと涙が滲む。
「立てそう?」
「……むり……。あし、が……ふにゃふにゃする」
「分かった。じゃあ大人しくしてて」
アロハは深くため息をつきながらも、その手つきは驚くほど丁寧だった。
座り込んだままの膝裏と背中に腕を回し、少しのタイムラグも置かずに、ひょいと軽々と抱き上げる。
「わっ……!」
「暴れるなよ、落とすから」
「落とさないで……」
大人しくアロハの首に腕を回し、その肩に額を預けた。
リビングを通り抜け、自室へと運ばれていく。視界が揺れるたびに少し気持ち悪さが込み上げたが、アロハがなるべく振動を与えないように慎重に歩いてくれているのが分かった。
ベッドの前に到着すると、アロハはゆっくりと布団の上に横たえてくれた。
ふかふかの枕に頭が沈み、掛け布団がふわりと身体を包み込む。それだけで、張り詰めていた身体の強張りが少しだけ解けた気がした。
アロハはすぐには離れず、ベッドの脇に腰掛けて、前髪を優しくかき上げた。
「で? ハルさん」
「……なに」
「キッチンの床で遭難する前、何するつもりだったの?」
少しからかうような、だけど過保護な兄のようなトーンでアロハが訊ねる。
布団を鼻先まで引き上げ、上目遣いでアロハを見つめた。
「……お水、飲みたかった」
「水ね。オッケー、今持ってきてやるから」
「あと……」
「ん?」
少し気まずそうに、もごもごと口を動かした。
「……トイレ、も、行きたかった……んだけど、途中で、なんか、無理だった……」
それを聞いたアロハは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにクツクツと優しく笑った。
「そっか。じゃあ、まずはトイレな。漏れたら大変だし」
「漏らさないよ!」
「はいはい。じゃあ、それだけ済ませたら、ちゃんとお布団に連れ戻してやるから」
アロハは再び身体を軽々と抱き上げると、今度は廊下の先にあるトイレへと向かった。
「……ちょっと、そこで待ってて」
トイレのドアの前で降ろされると、壁にペタっと背中を預けながら、蚊の鳴くような声で言った。
いくら体調が悪くてふらふらだとはいえ、年上のメンバーにトイレの中までついてこられるのは、ちっぽけなプライドが許さなかった。
アロハはそんな頑なな様子に苦笑しつつも、「分かったよ」と両手を挙げて一歩下がる。
「鍵は閉めんなよ? 中で倒れられたらドア壊さなきゃいけなくなるから」
「閉めない……っ」
壁を伝いながら、どうにかトイレの中へと滑り込み、ドアをそっと閉めた。
狭い空間に入ると、途端にどっと重力が何倍にもなったような感覚に襲われる。便座に座るのすら一苦労で、用を足す間も頭がぐわんぐわんと激しく揺れていた。冷や汗がこめかみを伝ってポタポタと落ちる。
(やば……思ったより、限界かも……)
どうにか用を済ませ、衣服を整えて立ち上がろうとした瞬間だった。
急激に視界が暗転する。
「あ──」
声にならない悲鳴とともに、膝から崩れ落ちた。
立ち眩みなんてレベルではない。視界が真っ黒になり、自分の身体がどこを向いているのかも分からなくなる。トイレの壁に肩を強くぶつけながら、ずるずると床に座り込んでしまった。
「──ハル!? 大丈夫か!?」
外で待機していたアロハが、物音を察知して勢いよくドアを開けた。
そこには、狭いトイレの床で壁に頭を預け、呼吸を荒くしている姿があった。顔色は白を通り越して土気色になっている。
「わり……アロハくん、なんか……まじで立てない……」
力なく笑おうとしたが、今度はへらへらとした笑顔すら作れなかった。ただ弱々しく視線を彷徨わせる様子を見て、アロハの表情から余裕が消える。
「笑うな、バカ。ほら、掴まれ」
アロハは迷わず狭いスペースに身体を滑り込ませると、脇の下に手を差し入れ、一気に抱き上げた。
今度は強がる気力すら残っておらず、アロハの胸板にシーツのようにくしゃくしゃになって寄りかかる。
「ごめん……重い、よね……」
「お前なんか軽すぎて心配になるわ。最近ちゃんと食ってんのかよ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、アロハの腕は落とさないよう信じられないほど強固に、そして優しくホールドしていた。
再び自室のベッドへと連れ戻され、今度は頭までしっかりと掛け布団をかけられる。
「動くなよ。水持ってきてやるから」
アロハはそう言い残すと、足早に部屋を出て行った。
静かになった部屋で、小さく息を吐き出す。熱のせいか、アロハに触れられていた場所が妙に熱く、それでいて離れてしまうと急に心細さが押し寄せてくるのが分かった。
数分後なのか、数十分後なのか、やたら長く感じたがアロハが部屋に戻ってきた。片手にはストローを挿したマグカップ、もう片手には冷えピタと、買ってきたばかりらしきポカリスエットやゼリー飲料が入ったコンビニの袋がある。
「ほら、水。起き上がれる?」
「……ん」
もぞもぞと上半身を起こそうとするのを、アロハが背中に手を添えてアシストする。
差し出されたストローをくわえ、一口、二口と水を飲み進めると、カラカラだった喉がようやく人心地ついた。
「ぷは……ありがと……」
「いいえ。で、熱測るぞ」
アロハがポケットから取り出したのは、いつの間にかリビングから持ってきたらしい体温計だった。嫌そうな顔をする間もなく、アロハはパジャマの襟元を少し引っ張り、脇に体温計を差し込んだ。
「はい、挟んで。ピピって鳴るまでじっとしてること」
「子ども扱いすんなし……」
「子どもみたいな真似して床に遭難してたのはどこのどいつだよ」
アロハはベッドの横に椅子を持ってきて腰掛け、意地悪く笑う。
数十秒後、電子音が鳴った。アロハが体温計を抜き取り、液晶画面を覗き込む。その瞬間、アロハの眉間が一気に寄った。
「……38度5分」
「……あー、やっぱり?」
「やっぱり、じゃねぇよ。お前、いつからしんどかったんだよ」
アロハの少し怒ったような、だけどそれ以上に心配そうな声に、きゅっと唇を結んだ。
「……今朝から。でも、ダンスレッスン中はアドレナリン出てたから、いけるかなって……」
「いけるわけねぇだろ。超特急のハルは無敵かもしれないけど、柏木悠はただの人間なんだよ」
アロハは大きな手で頭をぐしゃぐしゃと撫でた。叱られているのに、その手の温かさが心地よくて、思わず目を細める。
「冷えピタ貼るぞ。おでこ出して」
アロハが冷えピタのフィルムを剥がす。大人しく前髪を分けると、おでこにひんやりとした感触がピタッと貼り付いた。熱を帯びた脳裏に、その冷たさがじんわりと染み渡っていく。
「っ……つめて」
「これくらいが丁度いいの。ほら、もう寝ろ。なんか胃に入れられそうなもの、下で探して温めてきてやるから」
アロハが立ち上がろうとした、その時だった。
無意識にアロハの服の裾をぎゅっと掴んでいた。
自分でも驚くほど子供っぽい行動に固まるが、掴んだ指先に込めた力は緩めることができなかった。
「……ハル?」
アロハが不思議そうに振り返る。
熱のせいだけでなく赤くなった顔を布団に半分埋めながら、消え入りそうな声で呟いた。
「……どこも、行かないで……」
布団に顔を半分うずめたまま、消え入りそうな声でそう呟いた。掴んだアロハのシャツの裾は、指先が白くなるほど強く握りしめられている。
普段の生意気な様子からは想像もつかない甘えた声に、アロハは一瞬だけ息を呑んだようだった。
いつもなら「子供かよ!」と生意気に笑うはずなのに、熱のせいで完全に心の防衛線を失っていた。
アロハは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにその端正な顔立ちを、これ以上ないほど優しいものへと緩めた。
「行かないよ。どこにも行かない」
アロハは再びベッドの脇に腰掛け、手を包み込むように握った。ゴツゴツとした、男らしくて大きな温かい手。その安心感に包まれた瞬間、身体からすっと余計な強張りが抜けていく。
「何か温めてこようと思ったけど、お前が寝るまでここにいる。だから安心して寝ていいよ」
「……ん。アロハくん、手、あったかい……」
「お前のが熱いけどね」
アロハは空いている方の手で、冷えピタの上からそっとおでこを撫でた。規則正しく、優しく髪を撫でるストローク。その心地よさに誘われるように、重たい瞼がゆっくりと閉じていく。
数分もしないうちに、深い眠りへと落ちていった。
アロハは完全に眠ったのを確認すると、起こさないように細心の注意を払いながら、そっと掴まれていた手を解いた。そして、冷え切らないように毛布を肩までかけ直す。
「……本当、無理しすぎなんだよ、バカ」
小さく、だけど愛おしそうに呟く声が、微睡みの中でかすかに聞こえた気がした。
次に目を覚ましたとき、部屋の中はすっかり夕方のオレンジ色の光に包まれていた。
頭の芯にあったあの激しいパニックのような目眩は、数時間の睡眠のおかげで少しだけ落ち着いている。
「あ……」
寝返りを打とうとすると、廊下の方からパタパタと足音がして、すぐにレンジの電子音が聞こえてきた。
(アロハくん、本当にまだいてくれたんだ……)
それだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。ゆっくりと身体を起こした。まだ少しふわふわとするものの、今度は床に遭難することなく、ベッドの上に座っていることができた。
「あ、起きた?」
ひょっこりとアロハが部屋を覗き込んだ。手には、買ってきたパウチのお粥を器に移してレンジで温めたものが握られている。
「タイミングバッチリ。お粥温めたから、食えそうな分だけ食えよ。俺これ温めるくらいしか出来ねぇからさ」
「……食べる」
素直に頷くと、アロハはベッドの上にトレイを置いた。湯気が立つお粥は、それだけでお腹に優しそうだった。
「はい、あーん……って、自分で食えるか」
「食えるし!」
アロハのおふざけに、いつもの調子で少しだけ口を尖らせた。スプーンを手に取り、ふーふーと息を吹きかけて口に運ぶ。優しい塩味が、疲弊した身体にじんわりと染み渡っていく。
「……美味しい」
「だろ? 温め加減だけは天才だから」
アロハはドヤ顔で自分の胸を叩く。その大袈裟な仕草がおかしくて、「へらへら」ではなく、今度は「心の底から」小さく笑った。
半分ほど食べたところで、手が止まる。胃が小さくなっているのか、それ以上は受け付けそうになかった。
「もう無理? 残りは俺が片付けるからいいよ」
アロハはトレイを片付けると、枕元にある経口補水液を手に取った。
「薬飲むぞ。これ飲んだら、今日はもうノンストップで朝まで就寝な」
「……ねぇ、アロハくん」
薬を水で流し込んだあと、シーツをいじりながらぽつりと言った。
「今日……ありがと。キッチンの床で動けなくなったとき、まじでどうしようかと思った」
「おう。次あんなことあったら、速攻でメンバー全員のグループチャットに写真晒すからな」
「最悪! 絶対やめて!」
顔を真っ赤にして抗議すると、アロハは「冗談だよ」と笑って、頭をぽんぽんと叩いた。
「でもさ、ハル。頼るの、悪いことじゃないから。超特急の最年少として頑張ってるの、みんな分かってるし。しんどい時は『しんどい』って言っていいんだよ。特に、俺にはさ」
アロハの真っ直ぐな言葉が、頑なだった心にストンと落ちていく。
少し照れくさそうに視線を外しながらも、小さく「うん……」と頷いた。
「よし。じゃあ、おやすみ、ハル」
アロハが部屋の電気を消し、間接照明の薄明かりだけにする。再び布団に潜り込み、今度は完全に安心しきった表情で目を閉じた。
コメント
1件
みぅです🥀読んだよ......! アロハくんの優しさが、ほんとに刺さった。「行かないで」って掴むシーン、熱で心の壁が溶けた瞬間なんだろうね。普段は絶対に見せないハルの弱さに、アロハくんも優しさ全開で応えてて。 お粥の「温め加減だけは天才」ってドヤるところとか、ギャップがやばいし、最後の「頼っていいんだよ。特に、俺にはさ」がもう......ずるいよこのコンビ😭 めっちゃ良かった。続きも絶対読むね!