池のように見えていた水場は、洞窟の方へと延びていた。いや、逆に洞窟から流れた水が溜まり、水場になったのだろう。
小さな水の流れが石を削り、次第に川と呼ぶのに相応しい幅まで広がったが、それほど量がなかったために、池ほどの水場しか出来なかったのだ。もっと水量が多ければ、崖を越えて滝となっていたに違いない。
その川と平行して、細い道が洞窟の奥まで延びていた。人一人が通れるほどの細い道だ。
当然のようにマーカスが先に行こうとしたので、アンリエッタは急いで腕を掴んだ。
「待って、マーカス」
「パトリシアを待つと言うのか」
「ううん。そう言うんじゃなくて」
アンリエッタは首を横に振って、水場を見た。
『銀竜の乙女』でのマーカスの描写は、たった数行。ザヴェル侯爵家を出ていったことと、パトリシアの回想のみ。けれど、水場を見ただけで、何故マーカスが銀竜に辿り着けたのか、その疑問が分かったような気がした。
生物学的に人間は、空気と水がないと生けていない。持っていた水だって、いつかは底をついてしまう。そんな時に見つけたのが、ここの水場だったのだろう。洞窟に延びる道を入ってみるのは、当然のことだった。
『銀竜の乙女』にも、ここの水場の描写があった。銀竜とて生物なのだから、水辺に近い所を選ぶのだろう、と軽く読んだ場面だった。パトリシアが出てくるシーンでは、ルカが一度ここで休憩することを勧めるが、
『早く行かないと。呼んでいるから』
取り憑かれたように、洞窟に入って行く描写が書かれていた。まるで、今の私のように。
「マーカスが言うように、先に私たちが行くことには賛成なんだけど、私に先頭を歩かせてほしいの」
「! ……それは勘か?」
「うん」
嘘をついた。勘なんかじゃない。私はただ、銀竜と話がしたかったからだ。
パトリシアとルカが着てしまったら、話をすることなく、小説と同じ結末を迎える可能性が高いと思ったのだ。そう、ルカが銀竜を倒してしまうという結末に。
今はまだ困る。
何故私を呼んだのか。生贄ではない私を。自分を呼び出した、アンリエッタ・ヴァリエ・カラリッドかもしれない私を、どうしたいのか。それだけは、聞いておきたかったのだ。
けれど、マーカスが先頭を歩くとなると、小説のルカのように、いきなり切りつけに行ってしまいそうで、心配になった。
「……わかった」
「許可してくれたのはありがたいんだけど、何をしているの?」
マーカスは、自身の腕からアンリエッタの手を放すと、荷物の中からロープを取り出した。そして、何故かアンリエッタの腰に巻き始めたのだ。
「いざとなったら、これで引っ張ろうかと――……」
「やめて」
「いきなり襲ってきたら、逃げられるのか」
「それでも、やめて」
ロープを結ぼうとするマーカスの手を、アンリエッタは必死に止めた。
「マーカス。一応、私たちもいるのだから、外してあげなさい」
口ではそういうものの、ポーラはロープを氷漬けにしてしまった。これでは、マーカスもどうすることもできない。
「魔法なら、こんな風に瞬時に対応できるんだから、アンリエッタを困らせないでちょうだい。そして、やり過ぎよ」
最後の一言で、氷漬けにしたロープを砕いた。
「ありがとうございます、ポーラさん」
「言ったでしょう。何かあったら、言いなさいって。こんな風に助けてあげるから」
「はい!」
思わず、ポーラさんに抱き着きたくなった。
***
「うっ」
洞窟に入った途端、風に煽られた。冷気を含んだ向かい風。まだ冬ではないというのに、頬が少し痛かった。
「やっぱり俺が先を歩いた方が――……」
手袋をした手で頬を撫でていると、後ろからマーカスに声をかけられた。
「ダメ」
振り向くことなく、アンリエッタは足を動かした。
心配性なんだから、と思わず下を向いた。それでも、マーカスを邪険に出来なかったのは、逆の立場なら同じことをしていたと思ったからだ。
行かせたくない。危険な目に合ってほしくない。
それは当然の気持ちだった。だから早く銀竜に会って、この気持ちを鎮めたい。
嫌なことは、先に済ませておきたいという性格が、足を動かす原動力になっていた。
奥へと続く道は、アンリエッタの気持ちとは裏腹に、冷気を纏っているように感じた。それは錯覚ではない。山頂に雪が積もり、横を流れる川に暖かみもなく、吹き抜ける風は先程体験した通りなのだから。
そんな所に五百年近く住むというのは、どういう気分なんだろう。竜というものを実際、見たこともないから分からないが、集団で群れているイメージはなかった。だから、一匹でいても平気なのだろう。
時折、マーカスのように生贄ではない者も訪れるのだろうか。村人は……訪れるとは思えない。銀髪というだけで、あんな反応をしていたくらいだったから。
顔の前に腕を出して、何度目かの風をやり過ごした。辛うじて、体が持っていかれることはなかったが。
それを繰り返している内に、ようやく視線の先に光が見えた。向こう側が吹き抜けているかのような、差し込んだ光が。
思わず振り返って、マーカスを見た。
「あぁ、その先にいる」
一直線に伸びた先に向けて、マーカスは指を指した。一つ息を吐き、再び歩き始めた。あともう少しだ。
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