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それは、ほとんど夢のような生活だった。朝は決まった時間に音楽が流れ、温かい紅茶が運ばれてくる。 昼は読書と、ルネのためだけに選ばれた画集や詩集。 夜は絹のシーツの上でセルジュの優しい指が髪を撫でる。
痛みはなかった。 傷も、血も、メスの冷たい感触も、もうない。
けれど――ルネの胸の奥では、 何かが、どろりと腐り始めていた。
(……綺麗な部屋。綺麗な言葉。 でも、ここには、“僕”はいない。 ただの聖像として、飾られているだけだ……)
窓の外には出られず、鏡はなく、爪切りすら与えられなかった。 微かな不自由さが、日々をじわじわと蝕んでいく。
*
ある夜。 ルネは食事を運んできたセルジュに、ぽつりと尋ねた。
「……“壊さずに殺す方法”、見つかりそうですか?」
セルジュは、銀のスプーンを静かにテーブルに置いた。
「……あと少しだ。もうすぐ完成する」
その瞳は、静かな熱に燃えていた。
「君を壊さない。血も流させない。 でも、君は僕のものとして、永遠に在る。そんな方法が……必ずあるはずなんだ」
「それって、僕は“死ぬ”ってことですか?」
「……違う。 死とは違う、“永遠の美”だ。君が、生きたまま、壊れないまま、 永久にそこにいてくれるような……」
セルジュの言葉は、詩のように美しかった。 けれど、ルネの心は冷えていった。
(“生きたまま壊さない”って、つまり……閉じ込めることじゃないか)
(僕は、また“作品”に戻るのか。……それも、“完成品”として――)
*
数日後。 ルネは夢を見た。 手足を石膏で固められ、ガラスの棺に横たわる自分。 白い薔薇が敷き詰められ、 セルジュが静かに言う。
『ありがとう。これでようやく、君は本物になった』
(――僕は……死んだ?)
目を覚ますと、シーツが冷たく濡れていた。 泣いていたのか、汗か、それとも何か別のものか、わからなかった。
*
その翌日、ルネはこっそりと髪を引きちぎった。
「……これで、少しは“汚れる”……かな」
その毛先を、ティーカップに沈めた。 濁った液体の底に沈む、自分の一部。
**
その日の夜、セルジュはルネを抱きしめながら、こう囁いた。
「……最終段階に入ったよ。 あと三日後。君のための“永遠の式”を、始める」
「“式”……?」
「そう。 美しく、痛くなく、君をこの世界で一番美しいままに閉じ込める、祝福の儀式」
(それは――愛じゃない。きっと……呪いだ)
けれど、ルネは何も言わなかった。 拒絶も、同意も。
ただ、セルジュの手の中で、静かにまぶたを閉じた。
(せめて、最後にほんの少しだけ、痛くなればいいのに……)
*
遠くで、鐘の音が鳴っていた。 それは現実のものか、幻だったのか。
けれどルネにはわかっていた。 この世界の終わりが、ゆっくりと近づいているということだけは。
ある晩、セルジュの実験室に、純白の衣装が届いた。
縫製は美術館級。絹とレースがふんだんに使われており、首元まで覆う高い襟と、胸元をかすかに透かす繊細な刺繍が印象的だった。
ルネはそれを、まるで宝石でも触るように指で撫でた。
「これ……僕に?」
セルジュは、少しだけ目を細めて頷いた。
「明日の展示に使う。
君の身体に合わせて仕立てさせた」
試着のため、ルネはひとり部屋で衣装に袖を通した。
肌に触れる絹は冷たく、だがその重さがどこか心地よかった。
鏡に映った自分の姿――
腰までの長い布、肩の丸みを強調するライン。
繊細なベールが髪を包み、かすかな金糸が光を返していた。
ルネは、はっとした。
「……まるで、花嫁みたいだ」
翌朝、ルネは白い衣装のまま、ゆっくりと実験室へ現れた。
セルジュは振り返り、しばし沈黙したあと、低く言った。
「似合ってる」
それは一切の戯れを排した、事実だけの言葉だった。
だがルネには、それが誓いの言葉のように聞こえた。
「ありがとうございます、セルジュ様……
これで、僕はあなたのものになれた気がします」
その日、実験は行われなかった。
代わりに、セルジュはルネに“座るように”指示を出し、
静かにスケッチブックを開いた。
「動かないで」
ルネは命じられるまま、白い衣装のままソファに座る。
その姿はまるで、**婚礼の前に彫像として封印された“花嫁”**のようだった。
「こうして絵に残せば、永遠になる」
「それって……結婚写真、みたいですね」
ふと漏らしたルネの言葉に、セルジュの手が止まった。
「……君は、そう思うのか?」
「はい。僕、思うんです。
あなたの元に来たときから、
これは“契約”じゃなくて“誓い”なんだって。
壊されても、切られても、
あなたの手でなら……最後まで愛されて死ねるって」
スケッチブックの中で、
ルネは花嫁のように静かに微笑んでいた。
白い衣装に、血の跡も、涙の痕も、まだなかった。
けれどセルジュは知っていた。
この純白の布が、
いずれ紅で染まる運命であることを。
「これは、君の婚礼衣装じゃない。
君の殉教衣だ」
そう告げることはなかった。
代わりにセルジュは、スケッチを仕上げながら――
そっと心の中で、ただ一度、呟いた。
(僕もまた、君という名の聖骸布に包まれていく)
その夜、ルネは白い衣装を脱がずに眠った。
絹の下に残る無数の傷は、
祝福の刺繍のように、彼の皮膚を飾っていた。