TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
シェアするシェアする
報告する

 朝から降っていた雪は降ることに飽きたらしく、この季節には有り難いと思わず感謝したくなるような日差しが降り注いでいる午後も早く、臙脂色のクーペが市街地の中央に近い一つの建物の駐車場へと進もうとしていた。

 警備員が慌ててブースから飛び出し、静かに下がったウィンドウからサングラスを僅かに下げた女性が何度か確認をするように口を開くと、警備員も何かに気付いた様に微かに笑みを浮かべ、今空きがあるスペースに止めて下さいとゲートを上げる。

 「どうもありがとう」

 丁寧な礼と誰もが見惚れるような笑みを見せた彼女はクーペを静かに発進させると、奥に見慣れたキャレラホワイトのスパイダーが停まっている事を確認し、その横に見事な操縦で愛車を停め、運転用のサンダルから踵の高いヒールに履き替えて車から降り立つ。

 全身頭の天辺から足の先までブランド品で覆っている訳ではないが、見る人が見ればファッションにも所持品にもお金が掛けられている事が分かるような出で立ちだった。

 だがそれが奇妙に浮いている訳ではなく、しっかりと彼女に溶け込んで馴染んでいる為、嫌味な印象を与えることはなかった。

 地下駐車場にヒールの音を響かせてエレベーターに乗り込んだ彼女は、サングラスを外してハンドバッグにしまうと辿り着いたフロアに一歩を踏み出し、最奥にある重厚な木の両開きの扉の前まで静かに進んでそっとドアを開ける。

 「よくお越し下さいました。今日はご予約は・・・!?」

 「お久しぶりね、リア」

 「・・・アリーセ?急にどうしたの?」

 受付のデスクから腰を浮かせ、旧知の仲である彼女を困惑気味に出迎えたオルガは、突然押しかけて迷惑だったわねと謝罪をされて緩く首を左右に振る。

 「今診察中なの。今日は予約の方が多いのよ」

 「そう・・・じゃあフェルも忙しいと言うことね」

 「ええ」

 デスクの前で立ち話をするのも何だからと、オルガが本棚の前にあるカウチソファに彼女を案内し、予約の患者とは少し違う顔-つまりは顔に表情を浮かべて-お茶の用意をし、彼女の前の椅子に腰掛ける。

 「今日はどうしたの?」

 ここの主であり彼女の弟であるウーヴェと約束をしていない事を、彼のスケジュールを管理しているオルガは把握していた為、何か問題でも起きたのかと問い掛けて返事を待つ。

 「・・・ねえ、リア。この紅茶、何処で買ったものなの?」

 美味しいわとうっとりとした顔で囁いて彼女の言葉に直接答えなかったアリーセ・エリザベスは、様々な心配を目に浮かべて彼女を見つめてくる学生時代の友人の目を見つめ返す。

 「久しぶりにね、フェルの顔を見たいと思ったの」

 今シーズンは調子の良かった夫に付き合って世界各国を飛び回っていたが、年も明けてシーズンオフにもなったことだし弟の顔を拝んでこようと思ったのと、事実の半分だけを伝えた彼女にオルガがあからさまに安堵の溜息を零すが、それを見逃すようなアリーセではなかった為、カウチソファから身を乗り出すようにオルガに近寄ると、聞きたい事があるのだけれどと目を細める。

 その目に浮かぶ光に内心息を呑んだオルガは、目の前の綺麗な顔に笑みを浮かべた女性が問い掛けようとしている事を想定し、どのように返事をしたとしても彼の不利にならないようにと身構えるが、問われた事に咄嗟に返事が出来ずに大きな目を瞬きで何度も覆い隠してしまう。

 「ね、弟に何か変わった事は無かったかしら?」

 「変わった事・・・?」

 「そう。昨日家に帰ったら一年近くもAMGが置きっぱなしになっていて、そろそろ売ってしまおうかと話していたって母さんが言っていたの」

 あの子が自分の持ち物-特に車-を手放すなんて珍しいと、弟が愛着のあるものは例え壊れても中々捨てることが出来ない性格である事をしっかりと見抜いている姉が苦笑しつつ肩を竦め、おかしな事もあるでしょうと笑った為、彼女もそれは珍しいわねと首を傾げる。

 「ね?そんな事があれば何かあったのかと思ってしまうでしょう?」

 だから心配になって顔を見に来たのと、己の過保護振りをあからさまに披露しつつも全く悪びれる様子のないアリーセに苦笑したオルガは、診察室のドアが開けられる気配に気付いて一瞬にして表情を掻き消すと、デスクの横に立っていつもの様に深く頭を下げる。

 「お疲れ様でした、ヘル・ホーヘンブロイ」

 「ありがとうございました、先生」

 「次回は来週の同じ時間にお越し下さい。・・・フラウ・オルガ、予約の確認をお願いする」

 「はい。────どうぞ、こちらへおかけ下さい」

 ドアを開けて穏やかな表情で患者の背中をそっと押して勇気づける彼の言葉に、暗い面持ちの患者の目に僅かに光が差したようになるが、オルガがその光を消してしまわないように気をつけつつ椅子に案内をし、彼から受け取ったカルテを前に膝を着いて予約の確認を行い出す。

 その様を静かに邪魔にならない様に見守っていた彼女だが、診察室のドアノブを握ったまま石像のようになった青年に苦笑し、忙しい所をごめんなさいと表情でのみ謝罪をする。

 「・・・・・・久しぶり」

 「お邪魔するわ」

 弟に招かれて診察室に入った彼女の背後、オルガに目で合図を送ったらしい彼が程なくしてドアを閉めて驚きの声を挙げる。

 「どうしたんだ?何かあったのか?」

 クリニックに突然やって来る事は今まであまり無かったが、一体どうしたと口早に質問をし、窓際のデザイナーズチェアを指し示した彼、ウーヴェは、姉が穏やかな表情を浮かべつつも青に近い緑の目に意志の強い色を浮かべている事に気付いて眼鏡の下の目を細める。

 学生の頃や結婚するまでの間、男性の友人や姉と付き合いたいと願っていた男性達から氷の女王と呼ばれていた姉は、黙って笑っていれば優しく穏やかなのだが、何か気にくわない事があれば流れ出すのは氷のように冷たい言葉だった。

 その姉の性格を理解している弟は、表情に出さないように気をつけつつ内心で身構え、姉の綺麗な唇からどんな言葉が流れ出すのかを待ち構える。

 だが、聞こえてきた言葉は彼の予想を裏切るようなものだった。

 「来週末にお友達同士で集まってお食事をしようって事になったの」

 「食事?」

 「ええ、そう。ゲートルートでお食事をしたいと思っているのだけど、私が電話をすれば何か気を遣われそうなのよ」

 「まあ・・・そうだな・・・」

 幼馴染みの性格を思えば、きっと彼女の為にと張り切って単価計算なども無視した料理を出しそうだった。

 そんな気遣いをして欲しくないと自分が幾ら伝えたとしても聞き入れてくれない可能性があるから、出来ればあなたから電話をして欲しいのと伝えれば、意味の分からない溜息を一つ零したウーヴェがそんな事ならばと苦笑しつつ頷く。

 「時間と人数を教えてくれないか、エリー」

 「時間は7時から。人数はそうね・・・5人かしら」

 「料理はどうする?」

 「あの子に任せるわ。お任せしても良いかしら、フェル?」

 テーブルに置いてあるメモにさらさらと日付と時間、人数と料理に対する希望を書き付けたウーヴェは、この事だけならばわざわざ来なくても電話の一本で済ませられるだろうと、ミカの所にいなくても良いのかと問えば、見る見るうちに彼女の顔に不満が満ちていったかと思うと、ぽろりと口から零れ出す。

 「今はシーズンオフだしこのシーズンは調子が良かったのよ。だから大丈夫よ」

 どうして母さんと同じ事を言うのかしらと、端正な顔を不満に歪めてそっぽを向いて足を組んだ彼女に、悪かったと素直に謝罪をすればちらりと横目で見つめられる。

 「エリー?」

 「ねぇ、フェル。お願いがあるの」

 「・・・・・・聞ける願い、か?」

 「安心しなさい。あなたにだからお願いすることよ」

 学生の頃姉の我が侭に付き合って大変な目に遭った事もあるウーヴェが思わず身構えるように問い掛けると、それこそ心外だという顔で彼女が口を尖らせるが、憤懣を何とか抑え込んだ後、にっこりとウーヴェが浮かべる笑みにも似通った綺麗な表情で宣ってくれる。

 「そのお食事会までの間、あなたの家に泊めてちょうだい」

 「!?」

 「だってあなたの家、空き部屋いくつもあるでしょう?だからお願い、今日からあなたの家に泊めてちょうだいね」

 「・・・ウソだろう・・・?」

 うふふと綺麗な顔で笑う姉の前、聞かされた言葉が俄には信じられない顔で弟が椅子の背もたれに深くもたれかかり、どうするべきか思案するように天井を睨み付ける。

 「ベッドなど何も準備が出来ない。屋敷に帰ればどうだ?」

 「いやよ。今日も屋敷から此処に来たけど、雪が酷いのよ!買って貰ったばかりの車が汚れるわ」

 「それは仕方がないだろう?」

 「・・・・・・もしかして、私が泊まると都合が悪いことでもあるのかしら、フェリクス?」

 「いや、都合が悪いことはないが・・・・・・あ」

 さすがに勘の良い姉の言葉に戸惑いながら否定をするウーヴェの脳裏、不意に子供のような笑みを浮かべる恋人の顔が浮かび上がる。

 家に泊まると言う事は当然ながらバスルームやクローゼットに立ち入る可能性があった。

 メインで使うバスルームはベッドルームにある為にさすがに入っては来ないだろうが、スキンシップを深めたい時に入るバスルームは使うだろう。

 あのバスルームには二人がそれぞれ愛用しているシャンプーがあったり、一目で自分以外の存在がいる事を見抜ける品々が並んでいた筈だった。

 バスルーム一つでそれだが、よくよく考えればキッチンで使うカトラリー類もマグカップも、ソファに何時の頃からか置かれるようになった、クラブチームが優勝した記念に発売されたマイスターシャーレを象った円形クッションなどもあった。

 一つのものが次のものを連想させ、気がつけばあの家の彼方こちらに決して隠し果せない恋人の気配が漂っている事に今更ながらに気付かされるが、そうと気付いた瞬間に血の気が引いていく音が聞こえたウーヴェは、椅子から立ち上がる勢いで姉へと身を寄せると、今夜は都合が悪い、だから今日一日はガマンして明日から来てくれと捲し立てる。

 心の準備が出来ていないうちに家族、特に姉には己の恋人の存在に気付いて欲しくなかった。

 もし教えるのならば、自らが思い描く時期と場面に彼のことを紹介したかった。

 その一心から何とかせめて明日から来てくれと懇願するが、返ってくる答えはにべもないものだった。

 「いやよ」

 「・・・エリー、俺にも都合が・・・」

 あるんだと言いかけた時、診察室のドアが有り得ない勢いでノックされ、二人同時に顔を上げた時には蝶番が外れる勢いで開け放たれていた。

 「聞いてくれよ、オーヴェっ!!」

 「リ・・・っ!!」

 どうしてこのタイミングで飛び込んでくるんだと、更に血の気を失った顔で叫びそうになったウーヴェは、飛び込んできた金色の嵐の後ろでオルガが真っ白な顔で十字を切って祈るように手を組んだ事に気付いて絶望的な溜息を零して椅子に座り直す。

 「あれ、お客さんだったか?」

 「私のことなら気にしないでちょうだい。そろそろ失礼するわ」

 弟が額を押さえて頭痛を堪えるような顔になったことに気付き、アリーセがウーヴェと己の顔を交互に見つめるリオンをちらりと見つめた後、会釈しつつもその瞳に力を込める。

 その目の力に気付いたリオンが何かを問い掛けようと口を開くが、言葉が流れ出すよりも先に脳内で一つの写真がぽんと浮かび上がり、その写真で笑っている女性の顔が目の前で理由も分からずに睨んでくる様な端正な顔と重なり合って一致する。

 「あー、ウーヴェのお姉さんだ」

 「あら、私を知っているの?」

 「ウーヴェに写真を見せて貰ったりご主人のレースを一緒に観戦したりしてたから。なぁ、ウーヴェ」

 「・・・ああ」

 リオンが彼なりの精一杯の気遣いをしている事を示す様に誰の前でも憚ることなく呼ぶ名前ではなくウーヴェと呼びかけて返事を貰うが、その遣り取りを見ていたアリーセの目が零れ落ちそうなほど見開かれる。

 「フェリクスが写真を見せた・・・?」

 「えーと、何処だっけかな・・・何処かの・・・」

 「仕事のことで来たんだろう?何かあったのか?」

 アリーセの言葉にリオンが少し前の事を思い出す表情で宙を睨むが、思い出したと言わんばかりに拳を掌に叩き付けるが、その言葉尻にウーヴェが慌てるように声を挙げて本来の目的を思い出させる。

 「あ、そうだった。この間お願いしていた鑑定のことなんだけどな・・・」

 「お仕事のお話のようね。じゃあフェリクス、また後で連絡をするわ」

 「・・・ああ」

 失礼と、丁寧ながらも何故かリオンが無表情になるような顔で別れを告げた彼女が診察室を出て行くと、やっと顔色を取り戻したらしいオルガが慌てて彼女を送り出す。

 「・・・鑑定のことで何かあったのか?」

 「うん、ボスがもう少し詳しく聞いてこいって。それよりもさぁ・・・」

 俺がお前の家族写真を見たことを姉に告げる事で何か拙いことにでもなるのか。

 ウーヴェの声がリオンに写真についてそれ以上話させないようにする為のものだった事をしっかりと見抜いているリオンがぽつりと問い掛け、ウーヴェが小さく肩を揺らした後溜息を一つ床に向けて零す。

 「そうじゃない・・・」

 「ふぅん・・・そっか。俺は平気だけど、お前は違うんだよなぁ・・・」

 「リオン?」

 何が違うんだと、頭半分高い位置にある青い眼を見上げたウーヴェは、無表情に見下ろす瞳の中に隠しようのない寂寥感を見出して息を呑む。

 「オーヴェはまだ家族や友達にも俺のことを話してねぇよなって、思い出しただけだ」

 俺は付き合い出した次の日から皆に話しているが、お前にとって俺は人に話せないような存在なのかなぁと声にもその寂寥感を滲ませて囁いたリオンは、この鑑定をもう少しだけ詳しく書いて欲しい事をもう一度告げて踵を返す。

 リオンが立ち去る背中を呆然と見送ったウーヴェは、隠しきれない淋しさを滲ませて告げられた言葉の意味が咄嗟には把握出来なかったが、パタンと静かに診察室のドアが閉まった瞬間にそれを把握し、呆然と立ち尽くそうとする足を叱咤して大股に診察室を出て行くが、ちょうどドアを開けようとしているオルガとぶつかりそうになって慌てて身を引いてしまう。

 「ご予約のヘル・ベルクマンがお見えです」

 「あ、ああ、ありがとう────どうぞ、こちらへ」

 表情を消した彼女がすっと身を引いた後に姿を見せた患者の顔を見たウーヴェは、全開の診察時に比べれば顔色が悪い事に心配そうに眉を寄せ、一人掛けのソファを掌で指し示すと、大きなデスクに腰掛けて手を組んで患者の顔を真正面から見つめる。

 「ヘル・ベルクマン。今日は少し顔色が悪いようですね。どうしましたか?」

 先程の恋人の不可解な言葉の訳も、突然訪れた姉の真意も仕事の上では必要がない為に総てを心の裡に封印し、今は少しでも患者の苦しみが和らぐようにと最大限の注意を払ったウーヴェがその患者の言葉に誠心誠意を持って耳を傾け続けた結果、暗い表情で出向いてきた時とは比べられない明るい顔で診察室を後にする。

 そんな診察を続けながらも、彼の心の片隅では恋人の嘲りと姉の意味ありげな表情が時折顔を覗かせるのだった。



 今日の予約の患者を何とか時間通りに総ての診察を終え、明日の患者の一覧をオルガから受け取ったウーヴェは、リストを確認した後に彼女にそれを差し出し、今日は本当に疲れたと独り言のように呟いてしまう。

 その呟きに彼女が意を決したように顔を上げ、申し訳ありませんでしたと深々と頭を下げた為、何の事かが理解出来ずにウーヴェが目を瞠って椅子の背もたれから背中を剥がす。

 「フラウ・オルガ?」

 「今日は私の不手際であのような事になってしまい、申し訳ありませんでした」

 オルガが何に対して謝罪をしているのかに気付き、ただ苦笑する事で総てを受け入れた彼は、ゆっくりと首を振って苦笑を深くする。

 「リアは気にすることはない」

 「でも・・・」

 「ああ、分かってる。エリーが突然来た事もあいつが来た事も偶然だったんだ」

 だから自分を責める必要は無いとも告げ、それよりもこちらこそ申し訳ないと逆に謝罪をすると、同じようにゆっくりと首を振って受け入れてくれる。

 「どうしてアリーセは突然来たのかしら・・・?」

 「何でも友達同士で食事をする事になったそうだ」

 「そうなの?」

 「ああ。ゲートルートに予約の電話をして欲しいと言っていたが・・・」

 「ウーヴェ?」

 姉の表情と言葉を思い出しながら顎に手を宛がったウーヴェは、脳裏に思い浮かんだ疑問を纏める為に口を閉ざすと、脳裏に描き出される光景から回答を得ようとする。

 「来週の食事会まで日があるから家に泊めて欲しい・・・おかしくないか?」

 拳を口元に宛がいながら一人呟くウーヴェの邪魔をしないようにとオルガが控え目にソファに腰掛けているが、あなたに何か変わった事は無かったかと聞かれたと告げてウーヴェの視線を向けさせる。

 「ごめんなさい。アリーセに聞かれたの」

 「俺に変わった事は無いか、か?」

 「ええ。あなたがAMGを売ろうとしていると聞いたと言っていたわ」

 確かに一年程前に実家にもう一台の愛車を預けたきり取りに行くこともせずに放置していたが、どうするのだと母から連絡を受け、もしかすると売却するかも知れないと答えた事を思い出し、その事から異変を察したのかと苦笑する。

 「あなたが自分の車を手放すなんて珍しいって。だからそれが気になったって」

 「確かに最近はスパイダーばかりだったからな」

 「ええ。年も変わったことだし、久しぶりに顔を見に来たのだとは思うけれど、それにしても・・・」

 突然の来訪にただ驚いたと苦笑して肩を竦めた彼女に同じく肩を竦めたウーヴェだが、頭の中では姉の言葉と顔と母の顔が入り混じって混乱を与えていた。

 「あまり考えない方が良いのかも知れないわね」

 「そうだな・・・一度言い出せば聞かないからな」

 仕方がないと己の姉の性格を溜息一つで受け入れた彼は、デスクの電話の外線ランプが点滅したことに気付いて手を伸ばそうとするが、その一歩先に伸ばされた白くて華奢な手がそっと受話器を取り上げる。

 「はい、バルツァーです・・・はい・・・、少々お待ち下さい」

 受話器を掌で覆うのではなく、保留にした後受話器を下ろし、少しだけ上目遣いでウーヴェを見つめたオルガは、軽く目を瞠る彼に一つ頷くと一礼する。

 「リア?」

 「・・・リオンです。今日はお疲れ様でした。明日もよろしくおねがいします、ドクター・ウーヴェ」

 「こちらこそよろしく頼む、フラウ・オルガ」

 いつものやりとりをいつもとは少し違う空気の中で交わし、保留中の受話器を取り上げたウーヴェは、溜息を一つだけ落として耳に宛がう。

 「リオン?どうした?」

 『診察はもう終わったか、オーヴェ?』

 「ああ」

 『そっか。・・・・・・あのさ・・・』

 何やら言い出しにくい事を言うつもりなのか、少しの間口籠もったかと思うと、こちらに顔を出した時につまらない事を言ってしまったが、忘れてくれと告げられて眼鏡の下で目を細める。

 患者の診察中にも脳裏を掠めていたあの言葉を忘れろと言うのかと問い返すよりも、あの言葉の真意は一体何だと問いたかった彼は、どういう事だと低く問い掛けて返事を待つ。

 『うん。だからさ・・・』

 「お前が言うあの言葉というのはどれだ?今日は仕事は早く終わりそうか?」

 『ああ、そうだな・・・うん、早く終わると思う』

 「分かった。────遅くなっても良いから帰って来い」

 胸の中で渦を巻く名付けられない感情も雑多な思いも総てをひっくるめた声で帰って来いと告げるがすぐに返事はなく、眉間に深い皺を刻んだ顔で軽くデスクを手の甲で叩く。

 「良いな、リオン。仕事が終われば家に来い」

 『・・・分かった』

 仕方がない、そう言いたげな気配を感じ取るが、とにかく顔を合わせて話し合わないととんでも無い方向へと進みかねない。

 その危惧から内心で冷や汗を流していたが、一先ずは了承してくれたことに安堵の溜息を零し、今日も一日お疲れ様と労えばそれに対しては素直にうんという言葉と、オーヴェもお疲れ様という声が返ってくる。

 じゃあまた後でと言葉を交わして受話器を置き、今日一日を思い返した彼の顔にはくっきりと隠しきれない疲労の色が浮かび上がっていて、眼鏡を外した手で目頭を軽く押さえる。

 姉の突然の来訪がもたらすものは自分にとって決して吉報や朗報ではなく、どちらかと言えば凶報の類だろう。

 血の繋がった姉に対してこのような事を思う、そんな己に向けて唾を吐きかけたくなるが、そんな事をした所で凶報が吉報に転じる筈など無く、肺の中が空になるような溜息を吐いた後、気分を切り替えるように頬を軽く叩くと、再度受話器を取り上げて肩と頬で挟んで携帯から登録してある番号を引っ張り出して電話を掛ける。

 『はい』

 「エリー?俺だ」

 『フェリクス?もう今日の診察は終わったの?』

 姉のにこやかな表情を思い起こさせる声に目を細めた彼は、椅子から立ち上がりデスクに軽く尻を載せると、今夜は外せない用事が入った事を伝える。

 『そうなの?でも・・・』

 家で待っているから開けてくれと言われ、溜息を吐いて瞬間的に感じた怒りを霧散させた後、家に泊まるのは構わないが寝る所すら用意できないのはさすがに自分が許せないので明日以降にしてくれと告げると、盛大な不満を伝える冷えた声音が流れ出す。

 凍り付いた灰色の世界でこの声を何度となく聞いていたが、あの頃に比べればかなりの耐性が付いている事を聞かされた言葉に全く動じない己から気付き、内心で苦笑した後、何を言われても今夜だけは無理だからと言い切ると、返事も聞かずに受話器を下ろす。

 この後家に戻ってリオンの帰りを待ち、ここを出て行く前に言い残した言葉の真意を確かめなければならないのだ。

 正直な話、姉に構っている余裕など無かった。

 己が家族に対して冷淡なことは誰に言われるまでもなく理解しているが、改めて気付いたそれにやるせない溜息を零して仕方がないと呟いたウーヴェは、窓の外に目をやって瞬きをする。

 朝から降っていた雪は止んでいたが、今窓の外は降りだした雨に煙っていた。

 ただでなくとも憂鬱な気分が雨によってより一層重さを増すが、何とかそれを押し殺して帰り支度を始め、戸締まりの確認を済ませてクリニックを後にするのだった。

 いつからか降りだした雨は、その夜リオンが重い足を引きずりながら帰って来るまで降り続けているのだった。



loading

この作品はいかがでしたか?

45

コメント

0

👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚