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 夕刻から降り出した雨は驟雨とならずに本格的な雨となり、重い足取りで歩くリオンの溜息を吸い込んでは足下で跳ね上がっていた。

 昼にクリニックで告げた言葉を忘れてくれと頼んだが、返ってきたのは何の言葉だという冷たさすら感じる声と、必ず家に帰って来いと言うじわりと暖めてくれる言葉だった。

 帰って来いという言葉が持つ重みを、己の恋人は理解しているのだろうか。

 いつの頃からか言われるようになった言葉だったが、初めて聞かされた時には舞い上がりそうなほど嬉しかった。

 自分にも還る場所が出来たのだと、地に足が着かないような歓喜を覚えるその言葉だが、そんな言葉を告げてくれる恋人なのに、学生時代の仲の良い友人達や家族に対し、自分のことを何一つ紹介していないのだ。

 リオンにとっては特別な意味を持つ言葉である帰ってこいと言いながら、他者に向けては自分の存在を秘密にしている。

 彼にとってその行動は正しいもので、また彼にだけ理解できる理由からそうしているのかも知れないが、リオンにとってみれば到底理解できるものではなかった。

 その思いからつい口走ってしまった、恋人にとっての己の存在はその程度のものなのかと言う言葉だが、今から思えば何故あんな事を言ってしまったと悔やまれるものだった。

 それを忘れてくれと頼んでみたが、家に帰ってこいと言われてしまい、逆らうことが出来なくて重い足取りのまま恋人の部屋がある高級アパートの前に立ち、警備員にも適当に挨拶をして家に向かった。

 フロアの中央に一つだけ存在するシンプルなデザインのドアの前に立ち、ベルに指を押しつけようとしたその瞬間、まるで見ていたのかと訝るようなタイミングでドアが内側へと開き、リオンの足下を光が矩形に浮かび上がる。

 「・・・・・・ハロ、オーヴェ」

 「・・・・・・お疲れさま」

 お帰り、リオンと、いつもならばリオンから手を伸ばしてその身体を抱き締めるが、今夜はそれをするよりも先に、顔中に安堵の色を浮かべた恋人が暖かそうなセーターに包まれた腕を伸ばして冷え切っているリオンの頭を抱き寄せる。

 「オーヴェ、苦しいって」

 「・・・・・・うん」

 息苦しさを訴えたリオンの耳に飛び込んできた微かな短い言葉。それに瞬間的に胸の奥深くが掻き混ぜられ、抱え込まれていた腕を振り解いて逆に痩躯を抱き締めると、苦痛を訴えそうな気配を感じながらも腕の力を緩めることは出来なかった。

 「どうしたんだよ、オーヴェ?」

 「何が・・・だ?」

 何故いつものように冷静な、だけどその目にだけは熱を感じさせる顔で出迎えずに、不安に駆られたように抱き締めるんだと問いかける代わりに短く聞けば、更に短い言葉が返ってくるが、お互いの背中を抱く手の力はどちらも緩めることが出来なかった。

 玄関のドアを閉めることもせず、胸に渦巻く思いを言葉にすることも出来ずにただ抱き締めあっていた二人だったが、さすがに息苦しさと寒さを感じるようになった為、僅かに身を離して苦笑しつつ互いの頬に口付けると、一方は照れたように笑い、もう一方も目元をうっすらと赤くし、二人の一瞬の飢餓感にも似た思いに呆れたような笑みを浮かべるが、どちらからともなく互いの腰に腕を回し、長い廊下をことさらゆっくりと歩いていくと、背後でドアが静かに閉まる。

 「今日は・・・客がいる時にごめん」

 「ノックをすればいいって事じゃないといつも言っているだろう?」

 「うん。ごめん」

 ノックをした後返事を聞いてからドアを開けろと、言葉だけではなく態度でも示しているだろうと碧の目が苦笑すれば、蒼い目も似たような色を浮かべてごめんと謝罪をする。

 「でもさ・・・オーヴェのお姉さんって本当にキレイだよなぁ」

 最初はモデルか何かかと思ったと、嘘偽りのない顔で呟くリオンにウーヴェが苦笑し、本人が聞けば喜ぶと告げた後、その姉が明日から来週末までこの家に泊まりに来るそうだと伝えると隣でやっぱりそうかという納得の声が上がる。

 その声を聞きながらリビングへと向かうが、リオンが疲れた顔でソファに座った時にはウーヴェの顔に苦笑の片鱗など伺えなかった。

 「オーヴェ?」

 「・・・リオン、お前が電話で言っていたつまらない事とは何のことだ?」

 リオンと正対するようにソファに浅く腰掛け、己の患者に対するように、だが決定的に違う貌を見せ真正面から見つめながら問いかけたウーヴェは、目の前で青い瞳が左右に泳いだ事にただ目を細め、恋人の心の動きを読み取ろうと目まぐるしく脳味噌を働かせる。

 今彼の中で渦巻いている思いを言葉にすればどんなものになるのだろうか。

 電話でつまらない事と言った、あの一言になるのだろうか。それとも別の言葉が用意されているのだろうか。

 どんな言葉が出てくるのかとの不安と恐怖にも似た思いが胸の中に突如生まれて息苦しさを与えてくるが、それを何とかねじ伏せつつも全く表情に出すことはなく黙ったまま見つめていると、盛大な溜息を吐いた後、前髪を掻き上げたリオンが目を閉じて肩を竦める。

 「・・・・・・俺は、お前にとって・・・」

 人には言えないような存在なのかなぁ。

 診察室で聞かされた時よりももっと重く深く沈み込んだ声が膝の上にこぼれ落ちるが、リオンを見れば数多くの患者を診察してきたウーヴェにも心の裡が見抜けない笑みを浮かべていた。

 「どうしてそんなことを思うんだ・・・?」

 「んー。家族にも言えねぇって言うより、俺が昔のことを知ってるって知られるの、イヤみたいだったし」

 昼に姉とリオンの会話を無理矢理終わらせた事を言っているのだと気付き、そうじゃないと微かに震える声で否定をしたウーヴェだが、じっと見つめてくる蒼い目を見た瞬間、昏い闇に引きずり込まれるような錯覚を抱き、条件反射のように奥歯を噛み締めてその場に踏みとどまる。

 恋人を前に逃げ出すなど到底出来るはずもなかったし、またこんな暗い目をした彼を独りにするなど、考えることすら出来なかった。

 だから何とか踏みとどまったウーヴェだが、その前ではリオンが誰を笑っているのかすら分からない声で微かに笑い出した後、何もかもが面倒くさい、そんな顔でもう一度前髪を掻き上げてソファの背もたれに腕を回して懐くように上体を伏せる。

 「な、オーヴェ。俺と付き合ってるって事を誰かに言うの、恥ずかしいんじゃねぇの?」

 恋人が男でロクな稼ぎのない割に忙しい刑事で、しかも昔は人に言えない事を散々やってきたスラムの孤児院出身の悪ガキだという事が恥ずかしいのだろうと自嘲したその瞬間、青を通り越して頭髪の色と似たり寄ったりの顔色になっていたウーヴェの目元に赤みがさし、膝を掴んでいた手が拳となって腿に宛われたことに気付いてリオンが目を細める。

 「誰が・・・いつ、そんな事を言った・・・?」

 「・・・言わなくても・・・」

 「分かるのか?────さすがは優秀な刑事だな!考えたことなど無いものが分かるんだからな!」

 さすがだと手を打ち冷たい貌で笑い飛ばすウーヴェの顔をまじまじと見つめたリオンは、己の言葉が招いた冷静な怒りを目の当たりにして戸惑ってしまうが、さすがにそれを顔に出す事はせずに次に来る言葉をじっと待つ。

 「では優秀な刑事さん、ぜひお聞かせ願いたい。────私は今、何を考えている?」

 どうなんだ、考えている事を当てるなど朝飯前だろうと嗾けられて目を細め、お前が怒っていることだけは分かると告げると、もう一度手が打ち付けられる。

 「確かに君の言うとおり、今、私は怒っている」

 「オーヴェ・・・」

 「腸が煮えくり返るというのはきっとこの状態を言うんだろうな。新たな経験をさせて貰えて感謝する」

 どうもありがとう。言葉では言い尽くせないが、感謝しているよ。

 痛烈な皮肉を叩き付けるウーヴェに何かを言いかけたリオンだが、ただ黙って拳を握りしめると、総てを嘲笑うような顔でウーヴェが白い前髪を掻き上げる。

 「お前が手の付けようのない悪ガキだった?刑事が安月給?─────それがどうした?」

 お前は一体誰と何とを比べて自ら蔑むようなことを言っていると、瞬時に表情を切り替えたターコイズに初めて見るような苛烈な光を湛えて睨まれてしまい、眼光の強さについ視線を逸らしてしまったリオンの耳に次いで飛び込んできたのは、喉の奥から振り絞ったような苦痛の滲んだ掠れた声だった。

 「そんな事を・・・言うな・・・っ!」

 「オーヴェ?」

 俯いてしまった顔を上げさせようと名を呼んだリオンだったが、勢いよく伸ばされた両手が胸ぐらを掴んだ為に喉元を締め付けられてしまい、息苦しさに顔を歪めて白い頭を見つめていると、ゆっくりと上げられたウーヴェと視線がぶつかり、その顔に浮かぶ表情に息苦しさすら忘れて見入ってしまう。

 いつかの夜にウーヴェが流した赤い涙をリオンは見せられたことがあったが、その直前と全く同じ表情をしていたのだ。

 それが危険な兆候である事を思い出したリオンが手を伸ばすと、ウーヴェがシャツから手を離すと同時に伸ばされたリオンの手を胸元に引き寄せて背中を丸める。

 「ごめん・・・」

 自分を卑下しすぎた事にやっと気付いたリオンが謝罪の言葉を告げると、それが切っ掛けになったらしく、ウーヴェの喉から掠れている声が途切れ途切れに流れ出す。

 「俺の後ろを・・・見ないでくれ・・・っ!」

 「オーヴェの後ろ・・・?─────!!」

 その言葉の意味を理解したリオンが驚きに蒼い目を瞠り、己の後ろに否が応でも付き纏うものに目を奪われないでくれと、生身の俺だけを見てくれと悲痛な声に懇願されて更に大きく目を瞠ったリオンは、己の言葉が与えた傷の深さと大きさにやっと気付き、もう片方の腕を背中に回してきつく抱き寄せる。

 「ごめん、オーヴェ・・・ごめん」

 「お前にだけは・・・そんな目で見られたく・・・ない・・・っ」

 「うん」

 恋人が生まれた時から背負っている家名は、例え家族間が不仲であったとしても何処までも付き纏うもので、それを利用して人生を太く短く生きようという破滅的な考えを持たないで地道に生きるウーヴェだからこそ、今までバルツァーという名を持つ為に背負わなければならない荷物や苦労などもあっただろうが、それよりも何よりも、リオンはこの秋に教えて貰ったばかりだった。

 遊ぶ金ほしさの為だけに彼は幼い頃、その後の人生に大きく影を落とす事件に巻き込まれたのだと。

 そこまで思い至った瞬間、己は一体何を告げたのだと激しく自問し、次いで襲いかかってくる後悔の念に膝を屈してしまいそうになる。

 「ごめん、オーヴェ・・・っ!」

 友人として付き合い出した頃や、手を繋いでキスを交わすようになり、その後長い時間を掛けて熱を交歓するような関係にまでなったが、この間にウーヴェから一度でも己の出自に関しての嘲りや、最早慣れてしまった憐れみの目で見られた事があったかとも自問し、一度もないと愕然とするリオンの脳味噌が悲鳴じみた声を挙げる。

 ウーヴェはリオンがスラム出身であろうと安月給であろうとも今まで一度もその事でリオンが悲しむような言葉を告げたことは無かったのに、自分一人が勝手に思い込んで先走り、あの夜のようにまた悲痛な涙を流させる所だったのだ。

 だからこの声が届けというように謝罪を繰り返し、抱きしめた身体から力が抜けるまで何度も背中を撫で続ける。

 「オーヴェ、許してくれ」

 有りっ丈の思いを込めて囁き、白い髪に口を寄せて許してくれともう一度囁いたリオンは、己の腕の中の身体から不意に力が抜けた事に気付いて慌てて身体を支え、カウチソファの背もたれに身体を預けるが、そのままずるずると座面から滑り落ちてしまい、抱き締めたウーヴェを守るように身体を捻って絨毯に背中をぶつける。

 その痛みを堪えつつも顔を上げないウーヴェを抱き締めたまま白い髪に口を寄せ、何度も何度も謝罪をすると、漸くその声が届いた事を示すように頭が小さく上下する。

 リビングの床に倒れ込んだままウーヴェを抱き締めていたリオンは、何故この様なことになったのかと自問自答を繰り返し、辿り着いた一つの答えを伝えようと寝返りを打ち、己の上に身体を丸めるように載っていたウーヴェを逆に見下ろす。

 「オーヴェ。教えてくれ」

 その答えを聞く恐怖をねじ伏せて問いかけ、眼鏡をそっと外したウーヴェの目尻に口を寄せたリオンは、何だと小さく返されて目を閉じる。

 「俺の事をお姉さんに知られたくない・・・?」

 「違う」

 リオンが怖々発した問いをウーヴェが間髪入れずに否定をし、目を瞠る頬を両手で包んだ後、そうじゃないんだ、リオンと優しく告げられ、覚えていた緊張をリオンが解きほぐす。

 「・・・うん」

 「お前だから話したくないんじゃない・・・」

 弱々しい声に耳を近付けたリオンだが、聞こえてきた声に驚きに目を瞠って横を向いて自嘲する顔を覗き込もうとする。

 「今まで付き合ってきた彼女達を自分からは紹介したことはない」

 だからもし、彼女にお前を紹介するとなれば生まれて初めて姉に紹介する人になると控え目に笑うウーヴェの言葉にきつく目を閉じた後、くすんだ金髪を一振りしてついさっきまでの、地位も名声も金もまるでこの世の総てを恋人が持っているように感じてしまう卑屈な己を押し殺し、何度目になるのか分からない謝罪をしたリオンは、許しを請うようにこめかみに口付けて背中にそっと腕が回った事で許された事を知る。

 「どう紹介すればいいのか・・・自分がどう紹介したいのかも・・・分からなかった。だからエリーに聞かせたくなかった・・・」

 突然の姉の来訪。それに驚き応対することに精一杯でお前の気持ちを汲むことが出来なかったと己の弱さを曝すように告げられてしまい、リオンがそっと目を閉じて額に額をぶつける。

 「オーヴェもお姉さんが来ること、聞いてなかったんだ?」

 「突然だった。リアも驚いていた」

 ならばその戸惑いも仕方がない事だと納得し、そこまで思慮が回らなかった己をもう一度内心で怒鳴りつけた後、そんな事情ならば構わないと苦笑するがそうなればなったでまた新たな問題が浮上してくる。

 「じゃあさ・・・オーヴェ、お姉さんに俺のことを紹介するのか・・・?」

 「・・・・・・お前が俺にとって大切な人だとは伝える」

 その一言から姉がどんな風に察するのかは分からないが、恋人と判断するのならばすれば良いし、親友だと決めるのならば決めれば良い、どんな風にあの人が感じようが自分には関係ないと己の身内にもかかわらずに突き放したように苦笑するウーヴェに目を細め、お前の大切なお姉さんなんだからそんな事を言うなと雑多な思いから告げると、程なくして悪かったと謝罪されてしまう。

 「今日のゲートルートはお流れだなぁ」

 「リオン?」

 「お姉さんが泊まりに来るならさ、俺の荷物とかを隠さないといけないだろ?」

 寂寥感を混ぜ込みながらもそれらを必死に堪えている事を滲ませた貌で笑いかけ、驚きに目を瞠るウーヴェにこの後大掃除をしなきゃいけないなぁとも告げれば、ウーヴェがゆっくりと首を左右に振ってその言葉を否定する。

 先程感じた腹の底から冷えていくような怒りは、裏を返せばリオンがどれだけ大切な人であるのかをウーヴェに気付かせたのだ。

 興味も関心もない相手にあのように笑われたとしてもウーヴェは眉一つ動かさずにやり過ごす術を身につけていた。それが出来なかった訳を思い知らされた事に目を閉じ、ゆっくりと同じ言葉を繰り返す。

 「構わない」

 「オーヴェ?」

 「お前の存在は隠したくない」

 クリニックの診察室で鉢合わせをした時はまだ自分がどうしたいのかがはっきりとしていなかった為に躊躇ってしまい、結果さっきのような事になってしまったが、今はその躊躇いは消え去ったと穏やかに告げたウーヴェは、驚くリオンの頬を両手で包んで目を細める。

 「良いのか・・・?」

 まだ先程の感情を感じさせるような声に頷き、軽く噛みしめられた唇にそっと口付けたウーヴェは、自らを恥じるなと告げてくすんだ金髪を抱き寄せると、嬉しそうな気配と安堵感が伝わってくるが、聞こえてきた言葉に今度はウーヴェが目を瞠ってしまう。

 「・・・今日は家に帰る」

 「リオン・・・」

 「・・・頭を冷やしたい。だから家に帰る」

 先程の己の言葉を自分自身で噛み締め噛み砕き、己の血肉へと還元させた後、必ずお前の前で笑えるようになると裡に秘めた強さを感じさせる声で告げられ、安堵したウーヴェが名残惜しそうに手を離すと、逆に頬を包まれて軽く顔を上向けさせられる。

 「オーヴェ。────愛してる」

 「ああ」

 いつもとは少し違う真剣な告白に頷いて目を閉じたウーヴェは、そっと重なる唇の感触にきつく目を閉じ、出来るならば帰したくないと思う心のままにリオンを抱きしめると、その思いが伝わったのかリオンが触れ合わせた唇の角度を変え、するりと舌を差し入れてくる。

 触れるだけのものから情を感じるものへとキスを変化させるが、それをしっかりと受け止め同じようにウーヴェが返すと、嬉しそうな気配が身体全体に伝わってくる。

 頭を冷やす為に帰ると言うリオンを帰したくなかった。だからキスを交わしながらリオンの身体に足を絡めて引き留めると、軽く驚いたような気配が伝わってくるが、腰に絡めた足を綿のパンツの上から撫でられて震えが全身へと伝播する。

 「・・・悪い、オーヴェ・・・」

 だが常のウーヴェからすればかなりの積極さを見せてリオンを引き留めようとしたのだが、唇が離れた後聞かされた言葉は悪いと言う一言だった。

 「────分かった」

 己一人が恋人の存在に飢えている、そんな無様な顔を脳裏に浮かべてつい自嘲してしまうが、その自嘲の理由を見抜いたリオンがうっすらと赤味の増した目尻に口を寄せ、ぽつりと存在するホクロに口付けた後、ウーヴェが苦しさを訴えることすら出来ない強さで抱きしめる。

 「オーヴェ、オーヴェ・・・ごめんな?」

 「・・・・・・良いと言っただろう・・・?」

 それに謝るのはこちらも同じだと自嘲のまま呟けば宥めるように背中を撫でられ、不意に胸の奥深くから何かが迫り上がってくる。

 そもそも、姉が突然やって来なければ自分達がこんな風に口論し、頭を冷やす為に離れる必要など無かったのだ。

 そう考えるだけでウーヴェの常日頃は冷静な脳味噌が瞬間的に沸き立ってしまったように熱を持ち、その苦しさに奥歯を噛み締める。

 「オーヴェ?」

 「どう・・・して・・・っ」

 どうして突然やって来るのか。同級生との食事会が翌週末ならばその直前に来ればいいだろうし、わざわざ実家の屋敷ではなくこの家に寝泊まりをすると言う姉の魂胆が全く見えなかった。

 その不可解な魂胆がウーヴェの思考回路で靄を張り巡らせてしまい、苛立たしそうにリオンの腕の中で頭を振ったウーヴェは、握った拳を振り上げて振り払い、テーブルの脚に拳を叩き付けてしまう。

 「オーヴェ!」

 リオンの制止の声にも振り上げた拳を止める事は出来ず、今度は床に叩き付けようとするが、その寸前にリオンが手を伸ばして拳を受け止める。

 「オーヴェ。もう良いだろ・・・?」

 「・・・う・・・っ・・・さぃ」

 「うん。────でも、もう良い。今日は帰るけど、荷物は・・・」

 本当に片付けなくても良いのかと、滅多に見ない激昂振りに内心目を瞠りつつもそれを表に出さずにウーヴェの拳を受け止め両手で包んだリオンが問えば、白い頭が勢い良く跳ね上がり、包んでいた手を振り解いて胸倉を掴まれる。

 「・・・・・・っ・・・い、いと・・・言った・・・!!」

 「ごめん」

 荷物の整理をしてこの家には自分以外存在しない、そんな風を装う必要など無いと言ったと感情の昂ぶりに邪魔をされて途切れる言葉で告げられ、何時かのように言葉を無くさないで思いを伝えてくるウーヴェの小さくても大きな変化にそっと目を閉じて素直に謝罪をしたリオンは、胸板に額をぶつけて歯を噛み締めるウーヴェの背中を抱き、もう良いとその背を撫でる。

 ほんの一年前まではこの家にはウーヴェの存在しか無かった。

 それなのに、僅か一年のうちに陽気で子供っぽい恋人が持ち込んだ大小様々なものが二人が使う部屋の彼方こちらに存在するようになっていた。

 リオンの胸に頭をぶつけて背中を撫でられながらウーヴェの脳味噌が思い浮かべたのは、リオンが持ち込んだものを総て無くした時の部屋の光景だった。

 広い広い部屋にぽつんと存在する、ただ眠る為だけの大きなベッド。

 クローゼットの中は決まったブランドの衣服だけがハンガーに整然と並び、ダメージジーンズやよれよれになったトレーナーやシャツなど存在する事すら考えられない雰囲気に包まれるのだろう。

 寝室やクローゼットがその有様ならば、他の部屋は推して知るべしだった。

 リビングのソファに鎮座する巨体を誇るテディベアもいなければ、暖炉に火が入ることもないだろう。

 まるで雑誌やモデルルームの様な、到底人が生活しているとは思えない殺風景な居心地の悪い家になるに違いない。

 その想像はいとも容易く行う事が出来てしまい、脳裏に浮かんだ映像を振り払うように頭を激しく振ったウーヴェは、知らず知らずのうちに噛み締めた歯の間から呻き声にも似た声を流していた。

 一人の時には何とも思わなかった部屋になど、戻りたくはなかった。

 雑多な、だが存在するだけで間違い無く己の心を温めてくれる恋人の存在を無かった事にするなど、出来る筈が無かった。

 その思いがウーヴェの口から素直な思いを吐き出させてしまう。

 「・・・嫌・・・だ・・・っ、リオン・・・リーオ・・・っ!嫌だ・・・っ!!」

 「オーヴェぇ・・・」

 小さな子供のように嫌だを繰り返すウーヴェに何と言葉を掛ければ良いのかが分からなかったリオンだが、言葉が無いのならば行動で示すだけだと言うようにウーヴェを抱きしめる。

 何時か流した血の涙が今もまた流れているのかも知れない、その事に思い至り、己の未熟さに臍を噛む程悔しい思いもしたリオンは、それでもウーヴェを抱きしめ続け、落ち着きを取り戻した頃を見計らってその顔を覗き込む。

 「オーヴェ」

 「・・・・・・見るな・・・」

 さっきといい今といい、醜態を見せている事に自嘲したウーヴェにリオンが首を振ってそれを否定し、構わないと白い髪に口付ける。

 感情の昂ぶりから言葉を詰まらせたとしても、それでも思っている事を何とか伝えようとしてくれた事は、秋に比べれば遙かに成長したことを示しているようで嬉しかった。

 だから今のような顔をこれからももっともっと見せてくれと願い、今日はやはり家に帰る事を告げると、感情を爆発させた後はさすがに冷静になるのか、こっくりと頭が上下する。

 「な、オーヴェ。お姉さんに俺の事を話すかどうかはお前に任せる」

 「リオン・・・?」

 その言葉がウーヴェを思ってのものだと気付き、そっと顔を上げたウーヴェの視界に飛び込んできたのは、いつもいつまでも見続けていたい、真っ直ぐに前を見つめ浮かべられる笑顔だった。

 「リーオ・・・っ」

 「・・・これだけは許してくれ」

 言葉を切りやけに真剣な顔でウーヴェを見つめたリオンは、にやりと笑みを浮かべて額を触れ合わせてくる。

 「お姉さんの前であっても誰の前であっても・・・お前をオーヴェって呼びたい」

 これは自分にだけ許された事だし、自分達が今まで乗り越えてきた事が総て詰まっている宝物のような呼び名だから、呼ぶ事を許してくれ。

 「うん」

 誰にも何も言わせないと断言し、くすんだ金髪を抱き込んだウーヴェの胸にくぐもった声が落とされるが、やっぱり同じ場所で夜を越え朝を迎えられないのは寂しいなぁと鼻を啜るような音混じりに告げられて苦笑し、己の偽らざる気持ちをそっとその耳に囁きかける。 

 「・・・お前だけじゃない」

 「うん」

 この後に訪れるだろう寂寥感を忘れさせるような密度の濃い空気を生み出し、何とかそれを紛らわせようとした二人は、どちらからともなく小さな笑みを浮かべると、リオンがお姉さんが帰った次の日の朝食のリクエストと声だけは明るく宣ってくる。

 「またチーズオムレツが食いたいな」

 「今日食べたものか?」

 「うん、そう。あれが食いたい」

 「分かった」

 明日から来る賓客が帰った後にそのチーズオムレツを作ってくれと約束すると、お休みのキスをウーヴェの額に落とす。

 「おやすみ、リオン」

 姉が来る事の魂胆などは全く持って理解出来ない為に不愉快だし、その結果お前とこうしてキスも出来ないのは腹立たしいことこの上ないが、姉が帰った後はいつもの様にキスを交わして離れることなく夜を越え朝を迎えようと囁き合い、しばらくは思うままに逢えない不自由さを耐えるしかないと互いに腹を括るのだった。

 

 リオンがここに帰ってきた時に降っていた雨は、どうやら気温が下がったようで雪に姿を変えていた。

静かに降り積もる雪の音に邪魔をされたように、結局その夜、二人はお互いの家のベッドで一人目を閉じるだけで眠りは訪れないのだった。



Über das glückliche Leben.

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