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第5話 戯れでは済まない
マリが館に来て、四日目の朝。
ジンは廊下の窓辺に寄りかかり、退屈そうに外を眺めていた。
空は薄曇りで、庭の木々が風に揺れている。
昨日、マリから聞いた話が、なぜか頭から離れなかった。
ひとりで過ごしていたこと。
お腹が空いても、何もなければ我慢していたこと。
自分の望みを考えてもいいのかと、真剣に尋ねたこと。
ジン:「……なんだかなあ」
ジンは前髪をかき上げた。
人間がどんな暮らしをしていようと、普段ならそこまで気に留めない。
吸血鬼と人間では、時間の流れも、価値観も違う。長く生きてきたジンにとって、人間の一生はあまりにも短いものだった。
だからこそ、深入りしない。
楽しく話して、気が向いたら一緒に過ごす。それくらいの距離がちょうどいいと思っていた。
なのに。
ジン:「あいつ、今朝はちゃんと食べたかな」
口にしてから、ジンは自分で眉をひそめた。
ジン:「……いや、なんで俺が気にしてんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟き、窓の外へ視線を戻す。
そのとき、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。
マリ:「あ、ジン!」
振り返ると、マリがこちらへ歩いてくるところだった。
黒い上着に白いシャツ。整えられた服装は、館に来たばかりのころよりもずっと馴染んでいる。
顔を覆う黒いレースも、今は身につけていなかった。
ジン:「お、マリ。おはようさん」
マリ:「おはよう。なにしてるの?」
ジン:「見てのとおり、暇つぶし」
マリ:「ひまつぶし?」
ジン:「やることがなくて、ぼんやりしてるってこと」
マリ:「ふうん。じゃあ、ぼくと一緒だね」
ジン:「お前も暇なのか?」
マリ:「うん。セシルに聞いたら、今日は好きに過ごしていいって」
ジン:「へえ。で、何して過ごすつもり?」
マリは考え込んだ。
少し待っても答えが出ないので、ジンは笑ってしまう。
ジン:「なんだよ。好きにしていいって言われても、何をすればいいかわかんないのか?」
マリ:「……うん」
マリは、困ったように笑った。
マリ:「だって、好きにしていいって、あんまり言われたことないから」
ジンの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
昨日、あれだけ話を聞いたはずなのに。
まだ、こういう言葉が何気なく出てくる。
ジン:「……そっか」
マリ:「うん。だから、ジンは何してるのかなって思って」
ジン:「俺? 俺は……」
ジンは窓から背を離した。
ジン:「じゃあ、散歩でもするか?」
マリ:「散歩?」
ジン:「庭を歩くんだよ。せっかく外に出られるんだし」
マリ:「いいの?」
ジン:「いいに決まってんだろ」
ジンは手を差し出しかけて、ふと思い直した。
代わりに、廊下の先を顎で示す。
ジン:「ほら、行こうぜ」
マリ:「うん!」
マリは嬉しそうに頷いた。
その顔を見たとき、ジンはまた、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
ただ一緒に散歩をするだけだ。
それなのに、どうしてこんなにも、相手の笑顔が気になるのだろう。
*
庭には、朝露がまだ残っていた。
整えられた小道の両側には、季節の花々が咲いている。風が吹くたび、葉の上の雫がきらりと光った。
マリ:「わあ……」
マリは足を止めた。
ジン:「どうした?」
マリ:「あそこ、白い花が咲いてる」
小道の端に、小さな白い花がいくつも咲いていた。
マリはしゃがみ込み、花を覗き込んだ。
マリ:「きれいだね」
ジン:「お前、ほんと白い花が好きなんだな」
マリ:「うん。見てると、落ち着くんだ」
ジン:「どうして?」
マリは少し考えた。
マリ:「……わかんない。でも、好きなんだよ」
理由なんてなくてもいい。
好きなものを、好きだと言う。
それだけのことが、マリにとっては新鮮なのかもしれない。
ジンは隣にしゃがみ込んだ。
ジン:「じゃあ、ここの花は好きなだけ見ていいぜ」
マリ:「ほんと?」
ジン:「ああ。誰かに許可を取る必要なんかないって」
マリは花から顔を上げた。
そして、ジンを見て笑った。
マリ:「……ジンって、優しいね」
その言葉に、ジンは一瞬だけ黙った。
ジン:「ははっ。そうか? 俺、よく軽いって言われるけど」
マリ:「かるい?」
ジン:「あー……まあ、気にすんな」
ジンは苦笑した。
いつもなら、こういうときは冗談を返して終わりにする。
褒められたら調子に乗るし、相手が照れればさらにからかう。
それが、いつもの自分だった。
けれどマリは、からかうつもりも、何かを期待するつもりもなく、ただ本当にそう思ったから口にしたのだろう。
そのまっすぐさが、妙に心地よかった。
ジン:「……なあ、マリ」
マリ:「なぁに?」
ジン:「お前、これからやってみたいこととかある?」
マリは目を瞬かせた。
それから、花を見つめたまま考え込む。
マリ:「……いっぱいあるよ」
ジン:「へえ。例えば?」
マリ:「お花をいっぱい見たい。あと、いろんな本を読んでみたい。おいしいものも、もっと食べてみたい」
指を折りながら、マリはひとつずつ挙げていく。
マリ:「それから、庭を歩いたり、外の世界も見てみたいな」
ジン:「……いいじゃん」
マリ:「ほんと?」
ジン:「ああ。どれも、やればいいだろ」
マリは少しだけ不安そうに眉を下げた。
マリ:「でも、ぼくにできるかな」
ジンは、その言葉を聞いて、思わず顔をしかめた。
ジン:「できるかどうかなんて、やってみなきゃわかんねえだろ?」
マリ:「……そっか」
ジン:「それに、わかんないことがあったら誰かに聞けばいい。俺だって、知らないことくらいあるしな」
マリ:「ジンも?」
ジン:「そりゃそうだろ。俺を何だと思ってんだよ」
ジンが笑うと、マリも声を立てて笑った。
マリ:「なんでも知ってる人!」
ジン:「おいおい、買いかぶりすぎだって」
楽しそうに笑うマリを見て、ジンも自然と笑顔になった。
その瞬間、ふと思った。
この顔を、もっと見たい。
マリが何かを知って驚く顔も、花を見つけて喜ぶ顔も、自分の言葉に安心して笑う顔も。
これから、もっと。
ジンはその気持ちを、まだ深く考えなかった。
ただ、悪くないと思った。
*
散歩の帰り道、マリはふと足を止めた。
マリ:「……あ」
ジン:「ん?」
マリ:「あの花、ちょっと元気ないね」
小道の端に、一輪の花が傾いていた。
茎が折れかけているのか、花びらも少し萎れている。
マリは心配そうに見つめた。
マリ:「大丈夫かな」
ジン:「どうだろうな。水でも足りないんじゃねえの?」
マリ:「……お水、あげたら元気になる?」
ジン:「さあ。花に聞いてみたら?」
マリ:「えー、花はお話しできないよ」
ジン:「ははっ、そりゃそうだ」
ジンは笑いながら、近くに置かれていた小さな水差しを取った。
ジン:「ほら。これでいいか?」
マリ:「うん!」
マリは花の根元へ、そっと水を注いだ。
こぼさないように、土が流れないように。
その手つきは、驚くほど丁寧だった。
ジン:「……花のことになると、ずいぶん真剣だな」
マリ:「だって、元気になってほしいから」
ジン:「そっか」
ジンは、その横顔を見つめた。
自分のことを嫌う者ばかりだったという少年が、弱った花には、こんなにも優しい。
誰かに何かをしてもらうことには慣れていないくせに、自分以外のものが困っていると、放っておけないらしい。
その優しさは、見返りを求めるものではなかった。
褒められたいわけでも、誰かに気に入られたいわけでもない。
ただ、元気になってほしい。
それだけなのだ。
ジン:「……お前、ほんと変わってるな」
マリ:「そう?」
ジン:「ああ。いい意味でな」
マリは嬉しそうに笑った。
マリ:「ありがとう、ジン」
ジンは返事をしようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
胸の奥が、妙に温かい。
それは、からかっているときの楽しさとも、誰かと気軽に過ごすときの心地よさとも違っていた。
もっと静かで、もっと深いところに残る感覚。
ジンは初めて、それを持て余した。
*
夕方。
ジンは自室に戻ると、椅子に腰を下ろした。
窓の外では、日が沈みかけている。
普段なら、夜が近づくこの時間は嫌いではなかった。
夜になれば、館の者たちと過ごすこともできる。退屈なら、誰かを誘って話をすればいい。
それなのに今日は、昼間の出来事が何度も頭に浮かんでいた。
白い花を見つめるマリ。
やってみたいことを、少しずつ挙げていくマリ。
自分の言葉に安心したように笑ったマリ。
ジン:「……あー、もう」
ジンは片手で顔を覆った。
ジン:「なんなんだよ、これ」
気になる。
もう一度話したい。
明日は何をしているのだろう。
また庭へ誘ったら、喜ぶだろうか。
考えれば考えるほど、会いたいという気持ちが大きくなっていく。
誰かと一緒に過ごすこと自体は、珍しくない。
けれど、別れたあとも相手のことを考えてしまうのは、初めてだった。
ジン:「……まさか、な」
ジンは天井を見上げた。
恋愛の話なら、今までいくらでもしてきた。
誰かを褒めたり、冗談めかして口説いたり。相手が笑えば、それで満足だった。
それなのに、マリに対しては、同じように振る舞うことができない。
軽い言葉でからかうよりも、安心して笑っていてほしい。
無理に距離を縮めるよりも、本人が望むことを一緒に楽しみたい。
そんなことを考えている自分が、ひどく不思議だった。
ジン:「……俺、あいつのこと……」
そこまで口にして、ジンは黙った。
まだ、確信はない。
ただ、今までとは違う。
それだけは、はっきりしていた。
*
夜。
七人が食堂に集まった。
長いテーブルには、蝋燭の光が揺れている。
ルカは書類を閉じ、レイは本を脇へ置いた。ニコは窓の外を眺め、ルイは椅子の上で落ち着きなく足を動かしている。朔は静かに茶を口に運び、セシルは食器の配置を確認していた。
ルイ:「ねえ、今日マリに会った?」
ジン:「ああ。庭を散歩してた」
ルイ:「えーっ、ずるい! 僕も誘えばよかった!」
レイ:「お前は昨日、庭へ連れていくと言っていただろう」
ルイ:「そうだけど! 今日はジンと行ったんでしょ?」
ジン:「別に、たまたまだよ」
ニコ:「マリくん、楽しそうだった?」
ジン:「……ああ。花を見たり、いろいろ話したりな」
ニコ:「ふふ。よかった」
ニコは穏やかに微笑んだ。
そのとき、ルカがジンを見た。
ルカ:「……今日は、ずいぶん機嫌がいいな」
ジン:「そうか?」
ルカ:「ああ。いつもより静かだと思ったら、今度は妙に笑っている」
ジン:「なんだよ。笑っちゃ悪いのか?」
ルカ:「そうは言っていない」
ルカは淡々と答えた。
ルカ:「ただ、何かあったのかと思っただけだ」
ジンはしばらく黙っていた。
そして、肩をすくめる。
ジン:「……まあ、ちょっとな」
七人の視線が、自然とジンに集まった。
ジン:「俺さ。今日、マリと一緒にいて思ったんだけど」
ルイ:「うんうん!」
ジン:「……あいつ、もっといろんなこと知ったら、どんな顔するんだろうなって」
ニコが目を細めた。
ニコ:「どんな顔、かな?」
ジン:「知らないことを知って、驚いたり、喜んだりするんじゃねえの。そういう顔を、もっと見たいなって思ったんだよ」
ジンは照れくさそうに笑った。
ジン:「……で、たぶん俺、あいつのこと好きになったのかも」
食堂が静まり返った。
ルイ:「……えっ?」
ジン:「いや、だから。好きになったのかもしれないって話」
ルイ:「えええっ!? ジンが!?」
レイ:「ルイ、声が大きい」
ルイ:「だって、びっくりするじゃん!」
ジンは苦笑した。
ジン:「俺だってびっくりしてんだよ。こんなの、初めてだからさ」
ニコは驚いた様子もなく、ただ静かに微笑んでいた。
ニコ:「……そうなんだ」
ジン:「なんだよ。もっと驚けよ」
ニコ:「ううん。ジンがそんなふうに話すの、初めて聞いたから」
ジンは言葉に詰まった。
確かに、今までなら、こんな話を自分からすることはなかった。
誰かを気に入ったとしても、深く考える前に冗談にしてしまう。
それなのに、マリのことだけは、冗談にしたくなかった。
ルカ:「……それは、血への興味とは違うのか?」
ルカの問いに、ジンは真剣な顔になった。
ジン:「違うと思う」
迷いのない返事だった。
ジン:「あいつの血が特別だってことは知ってる。けど、今日一緒にいて楽しかったのは、そんなこととは関係ないんだよ」
ジンは指先でグラスの縁をなぞった。
ジン:「あいつが何を見て、何を喜んで、どんなことをやってみたいと思うのか。そういうのを、もっと知りたいんだ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
マリを知りたい。
それは、七人の間で少しずつ生まれ始めていた感情だった。
ただし、ジンはまだ、その気持ちがどこへ向かうのかまではわかっていない。
わかっているのは、明日もマリに会いたいということだけだった。
*
セシルは、テーブルの端で静かに話を聞いていた。
ジンがマリのことを好きになったかもしれない。
その言葉は、思っていたよりも深く胸に響いた。
驚いたわけではない。
ジンがマリに興味を持つことは、十分に考えられた。
むしろ、マリのそばにいれば、誰だってあの無邪気さに惹かれるのかもしれない。
それでも。
セシルは、自分の胸の奥に、かすかな痛みが走るのを感じた。
マリが笑っているのは嬉しい。
ほかの者たちと打ち解けていくのも、喜ばしいことだ。
なのに、ジンがマリを特別に思い始めたと聞いた瞬間、心のどこかが落ち着かなくなった。
自分は、いったい何を望んでいるのだろう。
マリが幸せなら、それでいいはずなのに。
セシル:「……ジン様」
ジン:「ん?」
セシル:「マリ様に、優しくしてくださってありがとうございます」
セシルは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
セシル:「あの方は、まだ知らないことがたくさんございます。どうか、これからも見守っていただければと思います」
ジン:「……ああ。もちろん」
ジンはまっすぐに頷いた。
ジン:「あいつが楽しく過ごせるなら、俺もそうしたいからな」
その言葉を聞いて、セシルは小さく微笑んだ。
間違ってはいない。
ジンは、マリを大切にしようとしている。
それは、喜ぶべきことだ。
そう思うのに。
胸の奥に残るものは、消えてくれなかった。
ルカ:「……セシル。どうかしたのか?」
突然声をかけられ、セシルは顔を上げた。
セシル:「いいえ。何もございません」
ルカ:「そうか」
ルカはそれ以上追及しなかった。
セシルもまた、何も言わなかった。
自分の気持ちを口にするには、まだ早い。
マリが自分をどう思っているのかさえ、わからないのだから。
それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
ジンの言葉を聞いたとき、セシルは初めて、自分以外の誰かがマリを好きになることを、少しだけ怖いと思った。
*
食堂を出たあと、セシルはひとりで廊下を歩いていた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
マリはもう眠っているだろうか。
明日の朝、顔を見に行けば、いつものように笑ってくれるだろうか。
そんなことを考えている自分に、セシルは小さく息を吐いた。
セシル:「……困りましたね」
今度の言葉は、先ほどよりも少しだけ弱々しかった。
マリを大切にしたい。
その気持ちに、嘘はない。
けれど、自分だけが特別でありたいと願ってしまう心も、確かにそこにあった。
セシルは目を閉じ、静かに息を整えた。
まだ、何も始まっていない。
マリは恋を知らない。
ジンもまた、自分の気持ちに戸惑い始めたばかりだ。
だからこそ、焦ってはいけない。
彼の望むことを、彼の歩幅で知っていけばいい。
そう自分に言い聞かせながら、セシルは歩き出した。
その胸に残る、小さな痛みを抱えたまま。
コメント
1件
第5話、めちゃくちゃ良かった……! ジンがマリと散歩しながら「この顔をもっと見たい」って自覚し始めるの、完全に恋の始まりじゃん。白い花に水あげるマリの優しさとか、ジンが初めて冗談にできない気持ちを持て余す感じが丁寧で刺さった。そしてラストのセシルの胸の痛み……複雑な気持ち、すごく伝わってきたよ。この先どうなるか気になりすぎる!🔥