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第6話 理性をほどく白い花
マリがこの屋敷へやって来てから、幾日かが過ぎた。
重厚な扉の開く音も、夜ごと廊下を渡る足音も、今では少しずつ耳に馴染んでいる。
食堂で交わされる会話。庭を吹き抜ける風。書棚に並ぶ古い書物。そして、彼の名を呼ぶ七人の声。
知らないことばかりだった世界は、日を追うごとに、マリにとって少しずつ親しみ深いものへ変わっていた。
その変化を誰よりも喜んでいるのは、彼のそばにいることが増えた吸血鬼たちだろう。
――もっとも、喜び方には、それぞれ少々問題があった。
*
午前の談話室。
窓辺のソファに腰掛けたマリは、セシルが用意してくれた本を膝に載せていた。
赤みを帯びた茶髪が、窓から差し込む光を受けて柔らかく輝いている。丸眼鏡の奥には鮮やかな赤い瞳。セシルはマリの隣に座り、彼が読み進める文章を丁寧に解きほぐしていた。
セシル:「この言葉は、古い時代の表現でございます。今でいうところの『約束』に近い意味ですね」
マリ:「約束……。じゃあ、また明日会おうっていうのも約束?」
セシル:「ええ。もちろんでございます」
マリ:「そっか。じゃあ、セシル。明日もいっしょにいてね」
セシルの指が、ページの端で止まった。
マリは何の気なしに笑っている。
彼にとっては、明日も会いたいと思う相手に、その気持ちを伝えただけなのだろう。けれどセシルの胸には、その言葉が思いのほか深く沈んでいった。
セシル:「……かしこまりました。マリ様がお望みでしたら、喜んで」
マリ:「やった」
セシルは微笑んだ。
その笑みがいつもより少し柔らかくなったことに、マリは気づかなかった。
ジン:「おーい、マリ。そんな難しい本ばっか読んでないで、庭に行こうぜ」
扉の向こうから現れたジンは、いつもの気軽な調子でマリへ手を振った。
鮮やかな青い髪。耳や顔に光るピアス。首元のチョーカーと、衣服の隙間から覗く刺青。その姿は、この古びた屋敷の静けさにさえ、どこか奔放な風を吹き込む。
マリ:「お庭?」
ジン:「そ。昨日見た白い花、覚えてるだろ? あれ、もう一回見に行こうぜ」
マリ:「行きたい!」
ジン:「よし、決まり。ほら、手――」
差し出しかけたジンの手が、途中で止まった。
セシル:「お待ちください、ジン様」
ジン:「……なに?」
セシル:「マリ様は、ただいま読書の最中でございます」
ジン:「今、本人に聞いたじゃん。行きたいってさ」
セシル:「ええ。しかし、まだ読み終えていらっしゃいません」
ジン:「続きはあとで読めばいいだろ。なあ、マリ?」
マリ:「うん。あとで読む」
セシル:「……マリ様」
マリ:「なぁに?」
セシル:「いえ……何でもございません」
ジンは肩を揺らして笑った。
ジン:「セシルってさ、マリのことになると、ずいぶん細かいよな」
セシル:「マリ様のお世話を任されておりますので」
ジン:「ふーん。それだけ?」
セシル:「……何か、ほかに理由が必要でしょうか」
ジン:「いやあ? 別に?」
口元には笑み。けれどジンの目は、面白がるだけでは済まない色を帯びていた。
マリと過ごす時間は、いつの間にか彼にとって特別なものになっている。
庭で花を見つけて喜ぶ顔。知らないことを知ったときの、あの眩しい表情。何気ない言葉に込められた、飾り気のない優しさ。
もっと見たい。もっと笑わせたい。
そんな願いが、いつしか冗談めかした誘いだけでは収まらなくなっていた。
ジン:「じゃ、今日は俺がマリを案内する番な。セシルは昨日も一緒だっただろ?」
セシル:「それを申し上げるのであれば、ジン様も昨日、庭でマリ様と長い時間を過ごされていたかと」
ジン:「よく覚えてんじゃん」
セシル:「当然でございます」
ジン:「へえ。……じゃあ、俺がマリといる時間も、ちゃんと気にしてるんだ?」
セシル:「……ジン様」
声は丁寧だった。
しかし、眼鏡の奥の赤い瞳は、笑っていなかった。
ジンはその視線を受け止め、ほんの少しだけ口角を上げる。
ジン:「ま、いいや。マリ、行こうぜ」
マリ:「うん!」
マリが立ち上がると、セシルもすぐに傍らへ寄った。
セシル:「お待ちください。上着をお持ちいたします」
ジン:「そこまでしなくても、俺が貸してやるって」
セシル:「ジン様のお召し物では、サイズが合わないでしょう」
ジン:「……あー、はいはい」
マリ:「ふたりとも、ありがとう」
そう言って笑うマリに、ふたりは同時に目を向けた。
ジン:「……お前さ、そういうとこ、ほんとずるいよな」
マリ:「え? なにが?」
ジン:「なんでもねーよ」
セシル:「……まったく、困ったお方でございますね」
そう呟いたセシルの声にも、隠しきれない甘さがあった。
マリは不思議そうに首を傾げる。
マリ:「ふたりって、仲良しなんだね」
ジン:「……は?」
セシル:「……仲良し、でございますか」
マリ:「うん。ずっとお話ししてるから」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ジンは声を立てて笑い、セシルはこめかみに指を添えて目を伏せた。
マリにはわからない。
ふたりが互いを牽制する理由も、同じ少年の笑顔に心を奪われていることも。
彼はただ、誰かと一緒に過ごすことが嬉しいのだ。
その無垢さが、ふたりの胸をますます掻き乱しているとも知らずに。
*
庭から戻った昼下がり。
マリは窓辺に立ち、庭の向こうに広がる木々を眺めていた。
白い花は、今日も変わらず風に揺れている。
昨日より少しだけ咲き進んだ花弁を見て、マリは嬉しそうに目を細めた。
マリ:「ねえ、セシル」
セシル:「はい、マリ様」
マリ:「ぼく、みんなともっと仲良くなりたいな」
セシルは静かに目を瞬かせた。
セシル:「皆様と、でございますか?」
マリ:「うん。ジンもセシルも、いっしょにいると楽しいよ。でも、ほかのみんなのことも、もっと知りたいんだ」
セシル:「……そうでございますね。皆様も、お喜びになると思います」
穏やかな声で答えながら、胸の奥に小さな痛みが走った。
マリがほかの誰かと親しくなることを、止めるつもりはない。
彼には、この屋敷でたくさんのものを知ってほしい。誰かと笑い合う喜びも、好きなものを自由に選ぶ幸せも、今まで知らなかった分だけ味わってほしい。
それなのに。
できることなら、いちばん近くにいたい。
自分が知らないマリの表情を、ほかの誰かが先に知ってしまうことが、どうしようもなく惜しい。
そんな願いを口にする資格など、セシルにはない。
マリ:「次はルカとお話ししてみたいな」
ジン:「ルカ? へえ、そりゃまた意外なとこ選ぶな」
マリ:「あんまりお話ししたことないから。どんな本を読んでるのかも気になるし」
セシル:「ルカ様でしたら、今頃は書斎にいらっしゃるかもしれません」
マリ:「ほんと? 行ってみてもいい?」
セシル:「もちろんでございます」
セシルは微笑み、マリの髪に付いた小さな花弁をそっと摘み取った。
指先が髪をかすめる。
ほんの一瞬の接触だったが、セシルはその柔らかな感触を、手放しがたいもののように惜しんだ。
セシル:「……お気をつけて。何かお困りのことがあれば、いつでも私をお呼びください」
マリ:「うん。ありがとう、セシル」
マリは無邪気に笑い、書斎へ向かっていった。
その背を見送りながら、ジンがぽつりと呟く。
ジン:「……あいつ、ほんとに自分がどんだけ人を夢中にさせてるか、わかってねえよな」
セシル:「……ええ」
ふたりの視線は、同じ扉へ向けられていた。
*
書斎は、屋敷の奥まった場所にあった。
天井まで届く書棚には、革表紙の書物が整然と並んでいる。窓には深い色のカーテンが垂れ、机の上には古い地図や羊皮紙が広げられていた。
その机に向かっていたルカは、扉を叩く音に顔を上げた。
マリ:「……ルカ?」
ルカ:「マリか。どうした」
マリ:「お話ししに来たの」
ルカ:「私と?」
マリ:「うん。だめ?」
迷いのない声だった。
ルカはすぐには答えなかった。
彼はもともと、他者と必要以上に親しくすることを好まない。感情よりも理屈を重んじ、曖昧なものには距離を置く。
マリについても、当初はそうだった。
古い記録に記された特別な血。その価値と危険性。彼がこの屋敷へ迎えられた理由。
知るべきことは、すでに十分にあった。
それなのに、目の前の少年は、何ひとつ知らない顔でこちらを見つめている。
ルカ:「だめではない。だが、私はジンのように話が上手いわけではないぞ」
マリ:「そうなの?」
ルカ:「ああ。話題を選ぶのも得意ではない」
マリ:「じゃあ、ぼくが聞くね」
ルカ:「……君が?」
マリ:「うん。ルカは、どんな本が好き?」
その問いに、ルカはわずかに目を細めた。
マリ:「ぼく、外の世界が出てくる本を読んでみたいんだ。森とか、街とか、海とか。知らないところがいっぱいあるから」
ルカ:「……それなら、ちょうどいい本がある」
彼は机の端に置かれていた旅行記を手に取り、マリへ差し出した。
ルカ:「古いものだが、遠い土地の街並みや風習が記されている。地図も付いているから、眺めるだけでも楽しめるだろう」
マリ:「見てもいいの?」
ルカ:「そのために渡したんだ」
マリ:「ありがとう!」
嬉しそうに本を受け取ったマリは、そっと表紙を撫でた。
大切なものに触れるような手つきだった。
ルカはその様子を、知らず知らずのうちに目で追っていた。
マリ:「わあ……この街、すごく大きいね」
ルカ:「港町だ。遠方から商人が集まり、さまざまな品物が取引される」
マリ:「海もあるの?」
ルカ:「ああ。街の向こう側は海だ」
マリ:「海って、どんなところ?」
ルカ:「……見たことがないのか?」
マリ:「うん。一度も」
ルカ:「そうか」
マリは挿絵の中の海を見つめていた。
そこに描かれているのは、どこまでも続く青い水面と、白い帆を張った船。紙の上の景色にすぎないのに、マリはまるでその風景を目の前にしているかのように、じっと見入っていた。
マリ:「いつか、見てみたいな」
ルカ:「……いつか、か」
マリ:「うん。波って、触れるのかな。水なのに、絵みたいにきらきらしてる」
ルカは返事をしかけて、ふと口を閉ざした。
彼にとって海は、地図の上の地形であり、交易路の一部であり、書物に記された知識だった。
けれどマリは、そこにまだ見ぬ世界を見ている。
知識を得ることそのものではなく、知らないものに触れることを夢見ているのだ。
ルカ:「……海は、触れられる。だが、思っているより冷たいかもしれないな」
マリ:「そうなの?」
ルカ:「ああ。風も強い。髪が乱れることもあるだろう」
マリ:「ふふ。そうなったら、ルカが直してくれる?」
何の気なしに告げられた言葉だった。
ルカの思考が、ふいに止まる。
マリは相変わらず、楽しそうに挿絵を眺めている。自分の言葉が相手にどんな影響を与えたのか、少しも気づいていない。
ルカ:「……君は」
マリ:「なぁに?」
ルカ:「……いや。そうだな。髪が乱れた程度なら、直してやれる」
答えてから、ルカは自分の声がわずかに低くなっていることに気づいた。
なぜ、そんなことを約束したのだろう。
なぜ、想像してしまったのだろう。
海辺に立つマリ。風に揺れる白い髪飾りもない黒いレースも、今はない。頬にかかる柔らかな髪を、指先で払ってやる自分の姿を。
そんな光景が、あまりにも自然に思い浮かんでしまった。
ルカ:「……少し、こちらへ」
マリ:「ん?」
ルカ:「そのページは文字が細かい。窓辺では光が反射して読みにくいだろう」
ルカは隣の椅子を引いた。
マリは素直にそちらへ移り、彼の隣に腰掛ける。
思っていたよりも近かった。
肩が触れそうな距離。ページをめくるたび、マリの袖がルカの手の甲をかすめる。
ルカは本へ視線を落としたまま、努めて平静を装った。
ルカ:「……ここには、港の市場について書かれている。珍しい果物や香辛料も並ぶそうだ」
マリ:「果物! どんな味がするのかな」
ルカ:「さあな。私もすべてを知っているわけではない」
マリ:「ルカでも知らないこと、あるんだね」
ルカ:「……当然だろう」
マリ:「そっか。じゃあ、ぼくたち、一緒に知らないことを見つけられるね」
ルカは顔を上げた。
マリは、嬉しそうに笑っていた。
自分の知らない世界を知りたい。そのために、誰かと一緒にいたい。
ただそれだけのことを、彼はこんなにも大切そうに語る。
ルカはこれまで、誰かと何かを共有することに、特別な価値を見いだしてこなかった。
知識は独りで得られる。答えは独りで導き出せる。誰かを必要とする理由など、そう多くはない。
けれど今、マリが隣にいることを、ひどく心地よいと感じていた。
この少年が知らない世界を、自分が教えてやりたい。
それだけではない。
彼が何かを見て驚く顔も、知らなかったことを知って笑う顔も、できることなら自分のすぐそばで見ていたい。
そんな欲が、静かに芽を出していた。
マリ:「……あれ?」
ページをめくろうとしたマリの指が、ルカの手に触れた。
ほんのかすかな接触。
マリは気にする様子もなく、指を引っ込めようとした。
その瞬間、ルカは反射的に彼の手を取っていた。
マリ:「……ルカ?」
細い指が、ルカの手の中に収まっている。
白い肌。驚いたように見開かれた瞳。手を取られても抵抗せず、ただ不思議そうに自分を見上げる顔。
ルカは、自分が何をしたのかを理解していた。
理解しているのに、すぐには手を離せなかった。
ルカ:「……すまない」
ようやく口にした言葉は、いつもよりわずかに掠れていた。
ルカ:「指先が冷えているように見えた。……それだけだ」
マリ:「そうなの?」
ルカ:「ああ」
マリは自分の手を見つめ、それからルカの顔を見た。
マリ:「ルカの手、あったかいね」
ルカ:「……そうか」
マリ:「うん。なんだか、安心する」
その一言が、決定的だった。
ルカは息を潜めるようにして、マリの手を見つめた。
自分の手の中にあるものを、ただ温めてやりたい。
このまま、もう少しだけ触れていたい。
その願いは、もはや知識への興味でも、珍しい存在への好奇心でもなかった。
マリ:「……もう、手を離しても大丈夫だよ?」
ルカ:「……ああ」
わかっている。
わかっているのに、指先が動かなかった。
マリは首を傾げ、困ったように笑った。
マリ:「ルカ?」
その声に、ようやくルカは手を離した。
指が離れた瞬間、掌に残った温もりが、ひどく惜しく感じられた。
ルカ:「……すまない。少し、考え事をしていた」
マリ:「そっか。難しいこと?」
ルカ:「……ああ。私にとっても、少々厄介なことだ」
マリ:「ふうん?」
マリはそれ以上尋ねなかった。
ただ、また本へ目を落とし、次の挿絵を見つけると嬉しそうに笑った。
その無防備な横顔を見て、ルカはひそかに目を伏せる。
自分から触れた。
必要もないのに手を取り、離すことを惜しんだ。
これまでの自分なら、考えるまでもなく理解できたはずの感情が、今はひどく厄介なものに思える。
――もっと触れたい。
そんな願いが胸の奥に生まれていることを、ルカは否定できなかった。
*
気づけば、窓の外は夕暮れに染まり始めていた。
マリは旅行記の最後のページを閉じ、名残惜しそうに表紙を撫でた。
マリ:「もうこんな時間なんだ」
ルカ:「……そうだな」
マリ:「楽しかった。ルカのお話、もっと聞きたいな」
ルカ:「……明日も来ればいい」
言葉が、考えるより先に出ていた。
マリ:「ほんと?」
ルカ:「ああ。ほかにも見せたい本がある」
マリ:「やった。じゃあ、明日も来るね!」
その笑顔に、ルカの胸がまた静かに疼いた。
明日も来る。
その約束だけで、こんなにも心が満たされるとは思わなかった。
マリが立ち上がり、扉へ向かう。
ルカはその背中を見送ろうとした。いつもどおり、訪問者が帰るのを見届ければそれでいい。
けれど、扉の前でマリが振り返った。
マリ:「ルカ、また明日ね」
ルカ:「……ああ。また明日」
マリ:「おやすみ」
ルカ:「……おやすみ、マリ」
扉が閉じる。
静寂が戻った書斎で、ルカはしばらく動かなかった。
机の上には旅行記が開かれたまま残っている。先ほどまでマリが指差していた港町の挿絵。彼が見てみたいと話していた海。
ルカは本を閉じず、隣の椅子へ目を向けた。
つい先ほどまで、マリがそこに座っていた。
彼が笑ったこと。隣でページをめくったこと。手を取ったとき、安心すると言ってくれたこと。
ひとつひとつが、記憶の中で妙に鮮やかだった。
ルカ:「……明日も、か」
小さく呟く。
胸の奥にある感情を、彼はまだ認めたくなかった。
認めてしまえば、これまでのように振る舞うことが難しくなる気がしたからだ。
合理的に考えれば、マリはこの屋敷に招かれた特別な存在にすぎない。
彼の血には価値がある。彼を迎え入れた理由も、その価値に由来する。
それなのに、今のルカが考えているのは、血のことではなかった。
明日、何の本を見せようか。
どんな話をすれば、またあの笑顔を見られるだろう。
次に隣へ座ったとき、彼はまた、自分から手を伸ばしてしまうだろうか。
ルカは片手で目元を覆った。
ルカ:「……本当に、厄介だな」
そう呟く声に、苛立ちはなかった。
むしろ、そこには自分でも持て余すほどの柔らかさがあった。
冷静であることを何より重んじてきた男が、たったひとりの少年の明日を待ち望んでいる。
それは、彼にとって初めてのことだった。
*
夜。
七人が顔を揃えた談話室では、ジンがソファの背に腕を掛け、興味深そうにルカを眺めていた。
ジン:「なあ、ルカ。今日、マリとずいぶん長く話してたんだって?」
ルカ:「……誰から聞いた」
ジン:「セシル」
セシル:「私は、マリ様が楽しまれていたと申し上げただけでございます」
ジン:「つまり、そういうことだろ?」
セシル:「ジン様」
ジン:「はいはい、悪かったって」
ニコは手元の白い花を眺めながら、柔らかく微笑んだ。
ニコ:「マリ、嬉しそうだったよ。明日もルカとお話しするんだって」
ルイ:「へえ! ルカと? 珍しいねえ」
レイ:「……本人が望んだのなら、よいことだろう」
朔:「あの子が楽しめたのなら、何よりだ」
ルカ:「……少し本の話をしただけだ」
ジン:「へえ。そんで、明日も会う約束したんだ?」
ルカ:「……そうだが」
ジン:「ふーん」
ジンは笑っていたが、その目はどこか鋭かった。
ジン:「ルカも、マリのこと好きになった?」
室内の空気が、わずかに静まった。
セシルの指が、膝の上で組み直される。
ルカはすぐには答えなかった。
否定することはできた。読書の相手をしただけだと、理屈を並べることもできた。
けれど、マリの手の温もりが脳裏をよぎる。
あの笑顔が、明日の約束が、どうしようもなく心に残っている。
ルカ:「……まだ、よくわからない」
ジン:「そっか」
軽い返事のあと、ジンは少しだけ真面目な顔になった。
ジン:「ま、わかるよ。あいつといると、もっと一緒にいたくなるんだよな」
セシル:「……ええ」
セシルもまた、静かに頷いた。
誰かがマリに惹かれることを、もう驚きはしない。
あの少年は、誰かの心へ入り込むことを知らないまま、無垢な手で扉を開いてしまう。
そして、開かれた扉を閉められなくなるのは、いつだってこちら側なのだ。
ルカは窓の外へ視線を移した。
庭の片隅で、白い花が夜風に揺れている。
明日、マリはまた書斎へ来る。
そのときは、今日よりもう少しだけ近くに座ってくれるだろうか。
また、あの笑顔を自分に向けてくれるだろうか。
ルカ:「……明日は、別の本も用意しておくか」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
けれど、その言葉に込められた期待は、本人が思うよりもずっと大きい。
理性で覆い隠した感情は、すでに静かに根を張り始めていた。
白い花が、誰にも気づかれぬまま夜露を抱くように。
その花がやがて、彼の心をどれほど深く縛ることになるのか。
今のルカは、まだ知らない。
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うわ、このエピソード、すごく繊細でいいですね。セシルとジンの牽制し合いが微笑ましい反面、ルカがマリに少しずつ惹かれていく描写が丁寧で、特に手を取ったあと離せなくなるシーンは象徴的でした。白い花が理性をほどくタイトル通り、無垢なマリが吸血鬼たちをどんどん夢中にさせていく感じ、読んでいてゾクゾクします。ルカが「まだよくわからない」と答えながらも、次の本を用意しようとするところでまた胸が締め付けられました。雫さんの心情描写、とても好きです。