「晴ちゃん。ご飯出来たわよ」
「食べたくない」
「じゃあ、部屋の前に置いておくから。お腹が空いたらちゃんと食べなさい。食べないと、からだに、毒よ」
「そんなの分かってる」
ため息を吐き、台所へと戻る。
娘の晴子は、西河家のムードメーカーだ。晴子が元気でないと、この家の時計はうまく回らない。
夕食の場は、必然、智樹とふたりきりとなる。
「……明日。どうする。晴子があの調子だから、風邪引いたとか言って石田さんには断ろうと思っているけど……」
「いいんじゃない? 元々おれは、行くつもりはなかったし」
涼しい顔を言ってのける息子を見て、息子は、いつの間に変わってしまったのだろう、と虹子は思う。
頭がよすぎるのを理由に、孤立し、姉に母に泣きついていたあの赤子は、どこに消えたのだろう。彗星のように、忽然と消えてしまった。あの弱々しい息子は。
思い切って虹子は切り出す。「……晴ちゃんがああなったのが、あなたが理由だというのなら。あの子の母親として、それから、あなたの母親として、この事態は、看過出来ないわ。
あなた、晴子になにをしたの。
お母さんには言えないようなことかしら」
「別に」と白飯に箸を伸ばす息子は、「母さんには、関係ない。おれたちだって人間だし、きょうだいなんだからさぁ。喧嘩のひとつやふたつくらい、して当たり前だとか、そうは、思わない?」
「……晴ちゃんがあんなになるなんて」憂い気を帯びた瞳で虹子。「あの子、一番の楽しみが食事なのよ。母さんの料理大好きって言ってあんなに食べる子が、丸一日、食べていない。
よっぽどのことが、あったのだと、推測するわ……。
ねえ智ちゃん。もう一度聞く。あなた、晴ちゃんに、なにを、したの……?」
「母さんには関係ないって言ってるだろ。母さんは、自分のことだけを考えてなよ。――好きなんだろ? 石田って男のことが……あのきざったらしい色男のことが」
虹子の、瞳が、動いた。「あなた、どうして、……石田さんのことを」
「この際だから全部ゲロっちゃうね」箸を止め、味噌汁に口をつけた智樹が、「おれの気持ちに母さんが気づいていないとは言わせない。『彼女』の平穏と秩序を守るために、おれは、いったいなにが最善なのかを考えた。結果おれは、このままの生活を維持することが、ベストだと、判断した。
あいつは、……石田って男は。母さんを、本気で愛している。そのことは、理解した。
けど。おれは正直、三人で過ごすこの生活が気に入っている。要らぬさざ波を立てなくなんかないんだ。せっかく、母さんが父さんと別れて一年近く経過して、落ち着いてきたところなのに。外部の人間が入り込むややこしい展開なんか望んじゃいない。
母さんを親友にように慕っているあの子のことを考えると。おれは、……素直に、母さんの恋に賛成出来ない。ごめん」
――素直になりたいと思ったのに。せっかく、愛することの出来る男に出会えたというのに。自分の恋は、子どもたちをいたずらに痛めつけるものなのだ。
父親に反抗していたときですら、娘の晴子は、父親以外の家族に、愛くるしい表情を振りまいた。無視することなんかなかったし、素直で純真なる自己を維持した。それが、ここにきて初めての変化だ。
昨晩から娘の晴子は、自分の部屋に閉じこもったまま、部屋から出てこない。大好きな風呂にすら入れていない。この事態を、虹子は、深刻なものとして判断している。
すべて――自分の恋心が原因ならば。捨てるほか、あるまい。
「分かった」と虹子。「そんなに、母さんの恋が、みんなを傷つけてしまうのなら、石田さんとのことは、白紙に戻すわ」
「違うよ。そうじゃないんだよ母さん」辛そうに顔を歪める智樹が、「おれは――そこまでは求めてはいない。ただ、この生活をもう少しだけ維持したいんだ。別に、外で母さんが恋をするぶんには、構わない」
「智樹あなた矛盾してる。母さんが恋をするなら――あなたも恋をする人間なら、分かるでしょう? 恋って、線引きが出来ない代物なのよ。ここまではいい、ここまでは許す、でもこの境界線を絶対に超えてはならない――そんな簡単に、線引きが出来るのなら、誰も不倫なんかしないわ。世の中の人間みんなが」
続いて虹子は、痛ましい記憶を思い返す。結婚という牢獄に縛り付けられたあの苦しみに満ちた日々を。子どもたちは、確かに可愛い。けれど、決して幸せという百パーセントの気持ちだけで、あの日々を振り返ることが出来ないことが、虹子には悲しかった。
「母さん……」
「あなたは、恋を諦めることが出来るの?」と虹子。「毎日顔を合わせる人間に対する愛おしい感情を、ごみ箱にごみを捨てるみたいに、簡単に、忘れ去ることが出来る? どうかしら?」
「分からない……ただ、おれは、混乱している」明るい色の髪を掻き回し、智樹が、「自分のやることなすこと全部裏目に出て、馬鹿だなおれ、って思うのに、どうしようも出来ない……。
母さんのことも、応援したいのに。でも、おれは、怖いんだ……結局。
母さんにも晴ちゃんにも捨てられて、ひとりきりになるのが……怖い」
「わたしは、あなたの味方よ。どんな、なにがあっても……智樹」
「――裏切ったと知っていても?」と酷薄に笑う智樹。「おれは――石田さんを傷つけた。晴ちゃんも傷つけた。そんな男に――生きる資格があるとでも思っている?」
「わたしは、あなたの、母親なのよ。あなたが……どんな罪を犯しても、見守るのがわたしの責任。例え、世界中から石を投げられるような行為をあなたがしでかしたとしても、母さんだけは、あなたの、味方で、いたいの……。
お願い智樹。母さんを、悲しませないで。
誰かを傷つけることによって、傷ついているのは、あなたのほうなのよ智樹。
相手の、痛みが、分かる。
相手の、辛さが、分かる。……本当は、分かっているんでしょうあなたは。
時期尚早なのかもしれないわね……。とにかく、あなたたちの、こじれた関係を元に戻すのが先決よ。
晴ちゃんに、謝る気は、ないの……あなたは」
「ひどいことをしたと思っている。けども、謝りたくないっていう意固地なおれもいるんだ、母さん。ずっと晴ちゃんへの想いを抑え込んで苦しかったから……どうすることも出来ないんだ。この想いは。
おれと同じくらいの質量で、母さんが石田を想っているのなら、おれは、認めるべき、ってのは、頭では分かっているんだ。自分でもうぜえって思うけど、でもな……母さん。
晴ちゃんは、おれの、太陽なんだ。
あの子が笑顔でいるとおれは嬉しい。おれは、幸せだ。
あの子の顔を曇らせてるのは、他の誰でもない、おれだというのは、分かっているのに……」
「先ずは、あなたのその想いを、素直にぶつけてみたら……?」と提案する虹子。「一日経ったなら、多少は、あの子の気持ちにも、整理がついているかもしれないわよ。あの子は、賢い子よ。
ひとりきりで考えていても、結論が出ない問いにも、ふたりで立ち向かえば解決出来るかもしれない。
母さんは、あなたの、味方よ。
ずっと気持ちを抑えこんで辛かったのね。智樹。
手放しで、あなたの恋を応援することは出来ない……でも。
ずっとあの子を傍で見守ってきたあなただから、気持ちに封が出来ない事情も分かっている。
あなたたちが、どんな結論を導いたとしても、母さんは、あなたたちの母さんだから。
この事実は、変わらないのよ」
「……母さん」最後にこの子の涙を見たのはいつ以来だろう、と虹子は思う。小学校の卒業式ですら泣かない、クールな息子の。「ごめん……母さん。矛盾してるのは分かっている。自分の想いを貫きたい、ならば誰かの恋も許すのが正義だと思っているのに。馬鹿だなおれ。おれが、抑えきれないのと同じように、石田のことを想っているのなら、おれは、邪魔者でしかないんだ。自分で自分が許せないよ」
「いっぺんにいろんなことを考えようとしないで」と諭す虹子。「先ずは、晴ちゃんの問題に立ち向かいましょう。あの子は、いま、壁にぶつかっている。思ってもみない相手から想いをぶつけられて戸惑っているのね。あなたは、冷静に、話が出来るかしら? 今度は強引にこちらを向かせるのではなく、落ち着いて、あの子の本音を、引き出すことが――出来るかしら」
この台詞が、火をつけたようだ。
さっきまでめそめそしていた少年が消え去り、虹子の見たことのない大人びた表情を見せていた。
「――やるしかないよね」
涙を拭い、食事を再開する。綺麗に食べ終えると、息子は手を合わせた。「ご馳走様でした。後片付けはおれがやっておくから、母さん、ゆっくりしなよ。そうだ、行きたいって言ってた銭湯にでも行って来たら?」
息子の意図を理解した虹子は、食器を手に、腰を浮かせた。「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」
「母さんは、……おれたちのために、恋を諦めることが出来るの? 本当に?」
ゆっくり振り返ると虹子は頷いた。「……努力するわ。きっと……忘れ去ることは出来ないだろうけれど。でも、自分ひとりで考えたり想ったりするのは自由だから。かつてのあなたのように」
「そっか」
洗い物に取り掛かる息子の後ろを通り、虹子は、気づいた。――また、この子は、大きくなった。知らないうちに。あずかり知らぬところで。
もう、自分に出来ることは、なにもない。虹子は、ただ、祈るだけだ。熱い湯に漬かりながら、虹子は、自分の肌に触れ、この身から生まれた赤子だった我が子たちが、知らないあいだに、自分の考えを持ち、理性を持ち、自分で判断出来る大人へと成長しているのを感じた。
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