テラーノベル
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短編集作らせて頂きました。気が向いた時に更新しますので気長にお待ちください。
また、今回はかなり主人公の若井くんが可哀想なのでご注意ください。バッドエンドがお好きな方だけご覧ください。では本編へどうぞ。
『堕ちろ』
「アンタ、もう邪魔。」
そう吐き捨てたのは、俺の実の母親だった。
玄関先に立ち尽くす俺に、母は面倒くさそうに眉間にしわを寄せ、もうすっかり痩せこけた俺の体に、数日分の着替えと、ついでに捨てて来いとも言わんばかりの生ゴミが入ったゴミ袋を投げつけた。その非人道的にも程がある行為に、返す言葉も、怒る気力も湧かなかった。そのまま外に放り出されたけど、抵抗も何もせず、ただ、冷たい夜風が頬を撫でるのを感じていた。玄関の扉が閉じる音がやけに重く脳に響く。そして、二度と入れてはくれないんだなと直感した。
空腹で胃が叫んでいる。昨日の夜から何も食べていない。ここ数日、母親の機嫌は最悪で、連れて帰ってくる男たちに八つ当たりされるのも日常茶飯事になっていた。歩を進める度、体の節々にある痣が痛む。
ふらふらと街灯の下を歩く。吐く息が白い。
暴力、暴言。それにもっと体が綺麗だった頃には性行為を強要されたこともあったっけ。そんな俺でも流石に、真冬の夜中をボロボロのTシャツ一枚で出歩くのは堪える。歩道に投げ捨てられていた空き缶を蹴ると、カランと無機質な音が、この住宅街と俺の心に響いた。
雨風を凌げそうな歩道橋のたもとに腰を下ろし、ひどい悪臭のするゴミ袋を投げ捨てた。冷たいコンクリートが背中に染みて、心臓がさらに縮こまる気がした。
こんな状況でも、眠くなってしまう。けど、寝たらもう起きられない気がする。…それならそれで良いんだけどね。
そのとき、ふと足音が近づいてきた。そいつもどうせ俺のことなんて気にも留めないんだろうと思っていたが、意外にもその足音は俺の前に来たところで止まり、声をかけられた。
「…こんなとこで、何してるの?」
顔を上げると、街灯の逆光にスラッとした人影が浮かんでいた。見たところ、俺より五、六歳年上の青年。すっきりした顔立ちに、どこか不思議な雰囲気を纏っている。
「…迷子?お家は?」
一番首を突っ込まれたくないところを突かれ、喉の奥がひゅっと詰まる。だがどちらにせよ長く続かない命なんだから何を言っても同じか、と開き直り、諦観したような口ぶりで言った。
「…ないです。親に追い出されちゃって。…でももう、どうでもいいんで。」
「気にすることないですよ。適当に体でも売って食いつなぎます。今の時代、男でもいけますからね。…それでも稼げなかったらそこら辺で野垂れ死にするか、自殺ですね。笑」
俺がそう言って去ろうとすると、
「だめだよそんな、!」
と手首を掴まれた。
「行くあてがないってなら、ウチ来ていいよ?」
その真っ直ぐな眼差しと優しい声音に唆されて、思わず頷いてしまった。…まぁ最悪手出されても良いし。
彼は「藤澤涼架」と名乗った。夜道を並んで歩くうちに、俺の警戒心が少しずつ解けていった。でもまだ、問いかけられても上手く返事が出来るほどではなかった。
「お腹、空いてるでしょ?」
「…はい、」
「うん、じゃあなんか作るよ。とりあえず、暖かいものをお腹に入れないとね」
その声色は、さっき路上で聞いたときと同じく穏やかだった。
彼に案内されてたどり着いたのは、古いけれど清潔感のあるアパート。藤澤さんが鍵を開けると、室内の暖気が漏れてくる。外の冷気に晒されていた体にじわりと沁みていく気がした。
「どうぞ〜。」
扉を開きながら藤澤さんが口を開いた。
「ほら、これ飲んで?」
手渡されたマグカップから、湯気と共にミルクの香りが立ちのぼる。一口飲んだ瞬間、胃が驚いたように軋み、同時に全身が緩む。俺の口から無意識に言葉が漏れた。
「……おいしい、です。」
「でしょ?俺も小さい時、ホットミルク好きでさ。」
そう言って藤澤さんは笑った。その笑顔がやけに自然で、俺の口角も緩む。自分の心が少しだけ溶け始めるのを感じた。
「シャワー、浴びる?」
「……いいんですか、?」
「うん。服、貸すよ。」
促されるまま浴室に入る。鏡に映った自分は、頬がこけ、痣だらけだった。湯に当たると時折傷がひりつく。それでも、湯気に包まれる心地よさに思わず目を閉じる。
風呂上がり、貸してもらったパーカーの袖をまくりながらリビングに戻ると、テーブルには簡単な食事が用意されていた。パンとコーンスープ、それにサラダ。
「遠慮しないで食べていいからね。足りなかったら言ってね?」
「…ありがとうございます。」
かすれた声でお礼を言うと、藤澤さんはいいよ、と微笑んでくれた。
久方ぶりの食事で、黙々とパンを口に運び続けていると、その光景をずっと眺めていた藤澤さんが口を開いた。
「ね、君、名前は?」
口いっぱいに頬張っていたパンを急いで飲み込んで答える。
「…若井滉斗、です。」
「滉斗君かぁ、いい名前じゃん。」
この苗字を口にすると、どうしてもあの恨めしい母親を思い出してしまうので、好きにはなれなかったこの名前も褒めてくれる人がいるんだ、と実感して心が温まる。
しばらくして、用意してくれたご飯を食べきった。満腹になると、急に睡魔が襲ってくる。そりゃそうか。身体的にはとっくのとうに限界を迎えているんだから。そんな俺の様子に気付いたのか、
「寝室、こっちね。ベッド使っていいから。」
と寝室を案内された。部屋の布団に倒れ込むと、柔らかな感触に体が沈み、呼吸が深くなる。俺が最後に見たのは、部屋の入り口で立ち尽くし、どこか安堵したようにこちらを見ている藤澤さんの姿だった。
「大丈夫。もう安全だから、ゆっくり寝なね。」
その声に、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。
もしかしたら、この人なら信じてもいいのかもしれない。そんな思考を最後に、俺は深い眠りへと落ちていった。
静寂の中で目が覚めた。部屋の明かりは落とされ、カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが、ぼんやりと室内を照らしている。どれくらい眠ったのかはわからない。でもまだ体の疲労が抜けきっていない感覚があるので、そこまで長時間寝てはいないんだろう。喉が渇き、水でも飲もうと身を起こしかけた、その時だった。
声が聞こえる。
廊下の向こう、リビングの方からだ。低く抑えたトーンだが、言葉の端々がはっきり耳に届いた。寝る前まで僕に向けていた、あの柔らかく包み込むような声とは全く違う。無機質で、冷ややかな声。でも確実に、その声の主は藤澤さんだ。
「…うん。さっき道端で拾った。」
心臓が、ドクンと跳ねる。拾った、って、もしかして…
「体に傷はあるけど、顔も体つきも悪くない。…売ったらいい値段つくよ。」
耳鳴りがする。体が凍りつき、布団を握る手が震える。
「…OK。てかさ、これ、…味見してもいいやつ?笑」
嘲笑っているような声色に、思わず息を呑む。呼吸が浅くなり、肺が空気を求めて苦しいのに声は出ない。
「あーもう、わかったよ。」
嘘だ…そうじゃなきゃ、さっきまでの、あの優しさは何だったの…?あの穏やかな笑顔は、温もりは…?心臓の鼓動の音だけがどんどん大きくなっていって、全身に力が入らない。逃げなきゃ、と思うのに、足が動かない。
遂に、廊下を渡る足音がこちらに近づいてきた。ドアノブが回る音がして、部屋の扉が開く。
「…あ、起きちゃった?」
口元は柔らかく笑っている。けれど、その目はぞっとするほど冷たくて、目が合うと心まで射抜かれているようだった。あのときと同じ柔らかな声が、すっかり怯えきっている俺に降り注いだ。
「そんなに怯えないで?ほら、怖くないよ?」
光の一粒も宿していない、氷のような眼差し。その柔らかな笑顔との乖離に、背筋がひやりと凍りつく。
「のど、渇いた?水、持ってこようか?」
恐怖から声が出せず、俺の口からはかすれた吐息が漏れるだけ。
「大丈夫だよ。…もうすぐ迎えが来るから。」
その言葉に、頭から指先まで、全身の血の気が引いた。恐る恐る視線を下げると、彼の手元に光るスマホの画面が見えた。そこに表示された着信名は…そう。母親の名前だった。
現実が理解できるまでに、ひどく長い時間がかかった。藤澤さんまで、あいつと繋がっているなんて。母にとって俺は、いらない荷物にすぎなかった。そして彼にとっても、それは同じ。
「…滉斗くんのお母さん、ね。ずいぶん困ってたんだよ?」
「あの子、どこにやっても迷惑かける、って。だから俺と、ちょっと契約…約束したんだ。」
彼は、ニコッと笑った。口角が上がり、声は優しい。だが、その瞳だけが俺を見つめて離してくれなかった。
「安心して。君はもう、邪魔じゃなくなるから。」
膝から崩れ落ちるように力が抜けた。逃げようとするが、体が言うことを聞いてくれない。
「…やだ、やだ…っ」
ようやく絞り出した声は、掠れすぎてほとんど言葉にすらなっていなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ。」
繰り返す言葉は、慰めの形を取りながらも、人間らしい感情は欠片もなかった。
また、廊下から足音が近づいてくる。扉の外から、嫌というほど聞いた笑い声がした。
母親の声だった。
扉の外から、母の甲高い声が笑いとともに流れ込んでくる。
「一回捨てたと思わせて、まだ手の内。まんまと騙されちゃって…ほんと、バカな子。」
視界の端で、藤澤さんの口角がわずかに上がった。母親に、優しい声で
「依頼内容はちゃんとこなした。確認よろしく。」
と告げている。だがその目はやはり冷えきっていた。
___どこまでも、クズだ。
心底そう思った。実の親にここまで嫌悪感を抱くことになるとは思いもしなかった。あの女が、ずっとずっと、俺をおもちゃにしていた。
底知れない憎悪だけを胸に、後頭部に衝撃が走り、俺の意識が闇に沈んでいく。
もう呼吸さえままならない。だが視界が完全に真っ黒に覆われる直前、消え入るような声で最後の言葉を吐き捨てた。
「…地獄に…堕ちろ…」
コメント
2件
ぅおぉこれまた重い感じ...?最高ですね...あのスゴすぎてもう何も言葉が出ないです...最高ですほんとに