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デジタルカメラを手に二人はベッドに横になった。先ほどまでの緊張感は解け、自然と笑みが溢れた。
「これで賢治さんの不倫の証拠は揃ったよ」
「あぁ、疲れた」
「菜月、お疲れ」
菜月がベッドのシーツに包まりながら柔らかく微笑むと、湊がその隣に肘を突いて寝転んだ。無邪気な笑顔で振り返る菜月の隣には、穏やかな面差しの湊が横たわっていた。二人の間に静かな時間が流れる。湊の息遣いが近く、菜月の心に温かな波を立てた。彼女の短く刈り上げた髪を、湊はそっと撫で、かつての「天使の羽根」を懐かしむように目を細めた。事故の傷跡、右腕の包帯、頬の絆創膏はまだ痛々しいが、彼の微笑みは変わらない。この瞬間だけは倫子や賢治の影を忘れたかった。二人の視線が絡み合い、シーツの柔らかさと湊の温もりが心を解す。湊の手が髪を滑る感触に、菜月は新たな自分と過去の自分を重ね合わせる。
「菜月、男の子みたいになっちゃったね」
「思い切っちゃった、ちょっとだけ後悔してる」
「そのうち伸びるよ」
「うん」
菜月の目頭に熱いものが溢れた。
「菜月は、賢治さんと暮らした時間を切り落としたんだよ」
「うん」
菜月が長く伸ばした髪をバッサリと切ってしまうには、よほどの覚悟と深い思いがあったに違いない。
「菜月」
「なに?」
「これからは僕の為に髪を伸ばして欲しいな」
「うん」
菜月の頬に温かな涙が静かに伝った。湊は彼女をそっと抱き寄せ、涙の跡に優しく口付けた。菜月の両手はゆっくりと湊の背中に回り、ワイシャツの布地を強く握った。二人の体温が少しずつ上昇し、まるで互いの心を溶かすように絡み合った。湊の右腕の包帯が擦れる感触も、頬の絆創膏の硬さも、菜月には愛おしく感じられた。彼女の短髪を撫でる湊の手は、かつての「天使の羽根」を惜しむように、だが今を受け入れるように優しかった。ニューグランドホテルでの倫子との対峙、賢治の依頼、事故の影。それらは今、遠い世界の出来事だった。菜月の涙は、過去への惜別と新たな決意の混ざり合い。湊の温もりに身を委ね、彼女はワイシャツ越しに彼の鼓動を感じた。シェードランプの光が二人の輪郭を柔らかく照らし、シーツの皺が刻む静寂の中で、時間はただ二人だけのものだった。
「そういえば、母さんがさ」
「お母さんがどうしたの?」
菜月は不思議そうな顔で湊を見上げた。
「僕たちが、奥の和室でキスしているのを見たらしいんだ」
「えっ!ら、らしいって!」
「見られてた」
「ど、どうしよう」
湊は菜月から身体を離し、仰向けに転がった。
「母さん、僕たちの結婚には賛成してくれるって」
湊が穏やかに言った。菜月は目を丸くして「そうなの?」と尋ねた。「うん」と彼は頷き、微笑んだ。
「…結婚」と菜月が呟くと、湊は笑いながら続けた。
「でも‘一線’は超えないように!って注意されたよ」
「いっ、‘一線’って、そういう事?」
菜月が顔を赤らめると、湊は「そう、こういう事」と囁き、彼女の身体にそっと覆い被さり、優しく抱きしめた。二人の体温が静かに重なる。湊の右腕の包帯が菜月の肌に触れ、頬の絆創膏が彼女の視界に映る。短く刈り上げた菜月の髪を、湊は愛おしげに撫でた。
「ちょ、ちょっと湊!」
「なにもしないよ、菜月はまだ人妻だからね」
「そうよ!」
「でも、このままでも良い?」
「ん?」
「しばらく、このまま」
かつての「天使の羽根」はなくても、彼女の決意が彼の胸を温めた。シーツの柔らかさと障子の光が二人を包む。菜月の心に、結婚という言葉が温かな波紋を広げ、湊の鼓動がそのリズムに重なった。時間は二人だけのものとなり、静寂が愛をそっと深めた。
(湊、ありがとう)
菜月は、湊の頬にそっと触れた。
「おやすみ、湊」
湊の重みを感じながら、菜月は深い眠りに落ちた。
チュンチュン チュンチュン
白い朝靄の中、タクシーの後部座席から降りた2人を待っていたのは、寝不足で機嫌の悪い ゆき だった。
「湊!」
「なんだよ」
「菜月さん!」
「は、はい」
菜月と湊は綾野の家の玄関先に立たされた。仁王立ちになった ゆき はなかなかの迫力で二人を見下ろした。
「一線は!」
「超えていません」「超えていないと思い、ます」
「どっちなの!」
菜月と湊は顔を見合わせた。
「超えていません!」「超えていません!」
ゆき に酷く叱られるその姿は悪戯をして叱られる子どものそれだった。
「入ってよし!」
「はーい」「はい」
そして湊は片目を瞑る。
「まだ人妻だからここまで」
「ここまで」
2人は幸せの階段を上り始めた。