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夜のベルントの街は、昼よりも静かだった。
街灯の光が石畳を照らし、遠くで時計塔がひとつの音を鳴らす。
わたしは黒いコートのフードを深く被って歩いていた。
今夜の任務は、標的の情報収集。
ターゲットは“闇商人リッセン”。
スパイ組織《WISE》の取引を探っているらしい。
足音を殺して、裏通りを進む。
どこかで犬が吠え、金属が転がる音がする。
その瞬間――気配を感じた。
(誰か、いる。)
壁に背を預け、ナイフを抜く。
呼吸を整え、気配の主を待つ。
すぐに、影が動いた。
黒い上着、長い髪。
わたしが飛び出そうとした、その刹那。
「……止まりなさい。あなた、誰?」
低く鋭い声。
刃物の金属音が、空気を裂いた。
互いの刃先が、わずかに触れる。
月明かりが二人の顔を照らした瞬間、
わたしは息をのんだ。
そこに立っていたのは、ヨル・フォージャーだった。
(……ヨルさん?)
赤い瞳がわたしを見つめる。
冷たくも、どこかで懐かしいような光。
「あなた、……その構え。訓練を受けてる?」
「……あなたこそ。」
刃と刃が触れたまま、わずかに押し合う。
どちらも引かない。
けれど、わたしは感じていた。
この人は、敵じゃない。
ヨルがわずかに眉を緩める。
「名前を、教えて。」
「……エレナ。」
「そう。私は――ヨル。ヨル・フォージャー。」
フォージャー。
その名前を聞いた瞬間、
心臓が痛いほど跳ねた。
「あなた……アーニャの?」
「……そう。……お母さん、だね。」
わたしが言うと、ヨルの瞳がわずかに揺れた。
一瞬、彼女は何かを悟ったような顔をして、
次の瞬間、ふっとナイフを下ろした。
「……帰りましょう。風が冷たいわ。」
そう言って、彼女はわたしに背を向けた。
その背中を見つめながら、
わたしはナイフを握りしめたまま動けなかった。
この人が、“母”で。
そして、同じ“殺し屋”でもあるなんて。
「ヨルさん……あなたも、血の匂いを知ってるの?」
小さく呟いた声は、夜の風に消えた。
***
数日後。
フォージャー家の台所。
アーニャがミルクをこぼして、ロイドがため息をついている。
その横で、ヨルが優しく笑った。
「こぼしちゃいましたね。ふふ、拭きましょう。」
「……ごめんね、ママ。」
わたしはその光景を見ながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
夜の路地で見た“処刑人”のような彼女と、
ここで笑う“母”の彼女は、
まるで別人みたいだった。
だけど、きっと同じ。
わたしもそうだから。
アーニャが無邪気に笑う。
「おねーちゃん、ピーナッツ食べるー?」
「うん、ありがとう。」
その小さな手のひらを受け取りながら、
わたしは心の中でひとつだけ願った。
――この“家族”だけは、
絶対に、血で汚したくない。
たとえ、世界を敵に回しても。
🌙 次章予告
夜の影が去り、朝が来る。
いつもの街、いつもの家。
アーニャの笑い声、ヨルの優しい手、ロイドの静かな眼差し。
エレナにとって、それは“普通”であってほしいと願う時間。
だけど、平穏の中にも隠しきれない“秘密”はある。
それでも、彼女は笑う。
妹の隣で、陽だまりのように。
第3章「エデンの朝」
――スパイも殺し屋も、今日は“家族”。