テラーノベル
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止血した朔太郎は、血で滲んだソックスを履き替え、再びピッチに立った。状態を確かめるように足首をゆっくりと回し、深く息を吐いた。「走れます」
拓真さんが苦渋の選択をするように「すまない」と朔太郎の肩に手を置く。控えのディフェンダーは他にいるのだが、幸成が退場している今、危険察知力や走力、クロスの精度で秀でる朔太郎を交代させることは難しい。
「晴翔」
どこか遠くで俺の名前が呼ばれていた、と思う矢先、拓真さんは俺のすぐ前にいた。
「晴翔、どうした? 目が虚ろだぞ」
拓真さんの声を水の中で聞いているみたいだ。
立っていることに耐えられなくなり、俺はピッチにへたり込む。拓真さんのスパイクの紐が芝で擦れたのか、うっすらと緑色に染まっていた。
どうしてか、自分が履いているスパイクを脱ぎたくなった。
「拓真さん」絞り出した声は嗄れていた。「俺、交代してもいいですか?」
何を……言っているのだろう。自分から交代を申し出るなんて。
でも、それが正しい提案に思えた。今の俺は戦力にならない。水沼が守るゴールのネットを揺らせる気がしない。拓真さんの応答を待たずに、自分の靴紐を解き始めた。
「晴翔」上から降ってくる声が耳をすり抜けていく。「晴翔」俺は顔さえもあげずに靴紐を解き続けている。もう限界だった。早くピッチから退出したかった。「晴翔?」
……声色が変わっていた。いや、声の主が変わっていた。
紐を解く手を止める。俺が顔をあげる前に、その人が俺の前でしゃがんだ。朔太郎だった。俺と同じ目線の高さで、俺をじっと見つめてくる。俺は相変わらず視界がぼやけているけど、朔太郎の瞳が爛々と光っていることだけは分かった。
「情熱だよ」
「え……?」
おぼろげだった朔太郎の顔が空気中にくっきり浮きあがった、気がした。
朔太郎が繰り返す。「情熱だよ」
微笑みながら、俺との距離を詰める。足に負荷がかかったのか、痛っ、と小さく零した。
「瑞奈ちゃんだったら、こういう時絶対に『情熱が足りない』って言うよ。チームみんなに向けて。でもね……もし今の晴翔を見たら、瑞奈ちゃんは晴翔を決め打ちで『晴翔くん、情熱が足りなーい。モブキャラめ』って言うと思う」
瑞奈の口調を真似た朔太郎は、言ったそばから顔を赤くしていた。
「交代は認めんぞ」
顔をあげると拓真さんが仁王立ちしていた。
「瑞奈からの『よろしく』は、きっとこのタイミングで対応しろということだな」
にいっと、まるで瑞奈が得意げに笑む時のように口角をあげた拓真さんが、ぐしゃぐしゃと俺の頭頂部の髪をかき混ぜる。
「瑞奈の言いつけを破ると後が怖い。それに、」
ぐっ、と拓真さんが親指で観客席の方をさす。退場処分となった幸成が、観客席で、身体よりも大きい旗を振っていた。
チーム名の下に『その足に情熱を!』と書かれている。いつの間にあんなものを用意したのか。今までの試合であれほどまでに大きな旗が振られているのは見たことがなかった。
「瑞奈が俺の家に送ってきた旗だよ。あまりにでかくて、最初は何事かと思った」拓真さんが苦笑した。「たぶん手作りだ。刺繍されているからな」
刺繍、あ……。
思い出す。瑞奈の実家で見た身長大ほどの縦長の箱。本棚の隣りに置かれていた箱の大きさは、幸成が降る旗と同じくらいの長さではないだろうか。確か、あの時瑞奈は、針と糸を片付けていた。指先に絆創膏を貼って。手指が思いどおりに動かずに針を刺して……。
「みんなぁ、情熱出せぇ! このへたれども、うるぁあああっ!」
旗を大ぶりに振りながら、幸成が瑞奈のように声を張りあげた。情熱……。ドクン、と心臓が大きく脈打つや、身体の奥底に熱を感じ始める。
「晴翔、おまえが情熱プレーを見せないでどうする。このまま負けたら、瑞奈を決勝に連れていくことができないぞ」
拓真さんが空を見あげる。今日の拓真さんは空に目を向ける回数が多かった。つられて俺も顔をあげる。突き抜けるような青空は果てしなく、今この時、瑞奈も空を見あげているのでは、そんなふうに思った。
情熱! プレーに情熱がない! サッカーへの情熱が足りない!
実際は、何も聞こえないのに、聞こえた気がした。いや、確かに……幸成が叫んでいる。朔太郎が笑顔で語りかけてくる。拓真さんが落ち着いた口調で俺の背中を押してくれる。チームメイトが合唱するように謳いあげている。みんなが瑞奈の言葉を口にしている。
そう。
あいつは、いる。ここにいる――。
抑え切れない熱情が、激しい闘争心が溢れてきた。鼓動が勢いづく。
俺は、負けたくない。
「もう一度だけチャンスをください」
青雲を背景に鋭角に切り取られた拓真さんの顎が動く。
「やれ。何度でもチャレンジしろ、一度だけとは言わず」
蒼穹の彼方から心地良い風が吹いた。
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