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第3部 非公開
第12章 条件
十二月二十六日。仕事納めの前日の夕方、仁人は、舜太のデスクの横に立っていた。
「勇斗さんから、依頼が来た。最終条件に関するCOOの個別ヒアリング。今夜だ」
「個別?」
「経営陣インタビューとは別だ。条件の詰めを、実務の側とやりたいらしい」
「ふうん」
舜太は、画面から目を上げなかった。管理画面の数字を、追っている。
「その前に、一つ、共有しておく」
仁人は、持っていたタブレットを、舜太の机に置いた。
グラフが、二本あった。青い線は売上。右肩上がり。赤い線は現金残高。緩やかに、下がっている。
「パリの追加発注が、動き出した。銀と、石と、包装。材料は先に買う。代金が入るのは、納品の三か月後だ」
「知っとる」
「その間、現金が薄くなる。来月の末に、今の水位の六割になる」
仁人は、赤い線を指でなぞった。
「売れるほど、現金が減る。ジュエリーは、そういう商売だ。銀行に、もう一度融資を頼む手もある。ただ、返す責任は増える」
舜太が、初めて顔を上げた。
「……売る気はないで」
「分かってる」
仁人は頷いた。
「売る気はなくていい。ただ、売るなら、降りられない価格と条件を、先に相手に飲ませておく。降りる線を、数字で引いておく。お前が言ったことだ」
「言うたな」
「今夜は、それを詰めてくる。それだけだ。安全網は、あって困らない」
舜太は、少し黙った。ペンを、指先で回した。一度、二度。
考えている顔だった。何を考えているのかは、仁人には分からなかった。
「……任せるわ、仁ちゃん」
舜太は、そう言って、画面に視線を戻した。
任せるという言葉が、胸のどこかに小さく刺さった。任された人間が、任された以上のことを、一人でやってしまうことがある。仁人は、それを知っている。
「ああ」
それだけ答えて、仁人は、タブレットを引き取った。
夜八時。会議室で、勇斗は資料を三部、机に並べた。
「お時間、ありがとうございます」
「いえ」
仁人は椅子に座った。勇斗との距離は、長机の角を挟んだ位置だった。近すぎず、遠すぎない。この距離を、自分で選んだことに仁人は気づいていた。
「今日は、最終条件の大枠を確認させてください。大きく三つです」
勇斗は、指を一本、立てた。
「一つ目、価格。意向表明書のレンジの中で、どこに着地するか。二つ目、経営体制。買収後、皆さんに、どこまで経営を続けていただくか。三つ目、クロージングの時期です」
クロージング。銀行員時代に、何度も扱った言葉だった。契約を結ぶ日と、代金と株式が動いて取引が正式に成立する日は、別になる。その間に、最後の確認がある。
「価格は、レンジの上のほうで、と考えています」仁人は答えた。「リテンションの仕組みを入れる代わりに、キーパーソン・ディスカウントは外していただく」
「その線で、ヴェルディエに諮ります」
勇斗は、メモを取った。
「経営体制は?」
「買収後の二年は、現経営陣が留任する。それが最低条件です。舜太が経営を続け、私が管理を続け、柔太朗は、制作の自由を保つ」
「制作の自由、というのは」
「デザインの最終判断は、柔太朗にある。ヴェルディエの承認を必要としない」
勇斗は、少し考えてから頷いた。
「それは、ヴェルディエがいちばん抵抗する点でしょうね。でも、俺は、そこは譲らないほうがいいと思います」
「……なぜ」
「才能は、縛ると死ぬので」
仁人は、勇斗を見た。以前、この会議室で、舜太に言った言葉と同じだった。
「それから、お願いが一つ」
勇斗は、資料をめくった。
「独占交渉期間を、一か月、延ばしていただけませんか。追加調査にまだ時間が要ります」
「舜太に諮ります」
「もちろんです」
勇斗は頷いた。断られることを、予想していた顔ではなかった。ただ、その声には、押しつけがましさがなかった。
「延長は、お二人の意向を聞いてからで構いません」
「……ありがとうございます」
条件の話は、四十分ほどで終わった。
勇斗は、資料を閉じペンを置いた。
「仕事の話は、ここまでです」
声の調子が、変わった。
「一つ、お聞きしてもいいですか。個人的な話です」
「会社に、関係のあることなら」
「たぶん、あります」
勇斗はそう言って、笑った。仁人は、少し迷って頷いた。
「創業一年目の冬。いちばん眠れなかった夜はいつでしたか」
来た、と思った。
身体が、先に反応した。指先が、冷たくなる。けれど、表情は動かさなかった。
準備してきた答えが、ある。
「十か月目の、月末です。給料日の前の夜でした」
仁人は、平らに言った。
「口座の残高を、三回確認しました。三回見ても、数字は変わらなかった。それだけです」
本当のことだった。本当のことしか、言っていない。ただ、言っていないことが、あるだけだ。
勇斗は、それ以上聞かなかった。少しの間、仁人を見て、それから、静かに頷いた。
「大変でしたね」
「……ええ」
「では、別の話を」
勇斗は、椅子の背に、少し身体を預けた。
「俺、仁人さんに、言っておかなきゃいけないことがあって」
「何ですか」
「舜太さんと、柔太朗さんのことです」
仁人の背中が、凍った。
「先日、廊下で見ました。お二人が一緒にいるところを。……仕事の関係では、ない距離でした」
会議室が、静かになった。
守れなかった、と思った。三年かけて守ってきたものを。
「……どこまで」
「それだけです。見たのは、それだけ。報告書には書きません。舜太さんにもそう約束しました」
「……舜太に?」
仁人の声が、少し揺れた。
「舜太は、俺に何も言っていません」
「そうでしたか」
勇斗は、少し困った顔をした。
「言いにくかったんでしょう。仁人さんに、余計な心配をかけたくなくて」
余計な心配。
その言葉に、仁人は、笑いそうになった。隠すな、と言ったのは、自分だった。あの会議室で、舜太に。舜太は、その言葉を、聞いていたはずだ。それでも、自分には、何も言わなかった。
守っているつもりで、守られていない。
いや、と思った。自分も、同じだった。
「……そうですか」
仁人は、平らな声で言った。
「ご配慮に、感謝します」
「仁人さん」
勇斗が、声を落とした。
「いつから、知ってたんですか。お二人のこと」
聞かれて、仁人は、初めて笑った。
「……創業二年目の春です」
思い出す。
アトリエだった。夕方で、職人たちはもう帰っていた。窓から、薄い橙色の光が差していた。
舜太と柔太朗が、並んで立っていた。二人とも、少し緊張した顔をしていた。仁人は、あの日、決算の資料を抱えていた。
「仁ちゃん、あのな」
舜太が、言いかけた。それを、柔太朗が遮った。
「僕から言う」
柔太朗は、一度、深く息を吸った。
「仁ちゃん。僕たち、付き合ってる」
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。それから、決算の資料を、机の上に置いた。両手が空いてから仁人は言った。
「……おめでとう」
声が、少し震えた。
「それから、飯を奢れ」
二人は、顔を見合わせて、同時に笑った。舜太は、泣きそうな顔をしていた。柔太朗は、いつもより少しだけ、早口だった。
嬉しかった。
何より嬉しかったのは、二人が、最初に自分に話してくれたことだった。学生の頃から、友人と呼べる人間は、ほとんどいなかった。二人だけが、自分に、ここにいていいと思わせてくれた。その二人が、いちばん大切なことを、自分に預けてくれた。
あの日から、決めたのだ。二人を守ると。
取引先が、メディアが、二人をどう扱うか。二人の静かな時間を、誰にも奪わせない。
「……あの日から、二人を守ると決めました」
仁人は、勇斗に言った。
「二人は、俺の全部なんです」
言ってしまってから、口を押さえたくなった。言い過ぎた、と思った。けれど、勇斗は笑わなかった。茶化さなかった。黙って、聞いていた。
「……そうですか」
それだけ言った。その声が、優しかった。
会議室を出るとき、勇斗が、仁人を呼び止めた。
「仁人さん」
「はい」
「一つだけ、聞かせてください」
勇斗は、扉の前に立っていた。廊下の灯りが、背中から差している。表情が少し暗い。
「仁人さんは、誰に、守ってもらっているんですか」
仁人は、答えられなかった。
質問の意味が、分からなかった。分かるのに、分からなかった。守られるという発想が、頭のどこにもなかった。
「……俺は、守る側なので」
「そうですか」
勇斗は、それ以上言わなかった。
ただ、少し笑った。悲しそうにも見える笑い方だった。
「話したくなったら、いつでも。仕事じゃなくても」
「……何の話ですか」
「何でも」
それだけ言って、勇斗は、先にエレベーターに乗った。扉が、閉まる。
仁人は、閉じた扉の前に、しばらく立っていた。
自分の指先を見る。冷たかった。会議室で、勇斗があの質問をしたときから、ずっと。
何かを、見透かされている気がした。
けれど、勇斗は何も言わなかった。責めなかった。暴かなかった。それどころか、自分を、守ろうとしてくれたような気がした。二人の秘密を、預かってくれた。
なぜ。
考えないことに、しようとした。今度は、できなかった。
コメント
1件
え、まって…勇斗くんの「誰に守ってもらってるんですか」があまりにも刺さりすぎて呼吸止まったんだけど😭💔 仁人くんが「守る側」って言い切るところ、かっこいいけど痛いよ…。秘密を預けるって勇斗くんの優しさにも泣けるし、3年の重みを感じる回だった…るりさん天才です😢✨