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いつもと同じ気分で、だが少しだけ何かが違う気持ちを初めて作ったオーダーメイドのスーツの中に包み隠したリオンが大股に階段を駆け上がり、刑事部屋のドアを開けて元気いっぱいの声でおはようと告げれば、室内にいた面々が顔だけを振り向けて挨拶をするが、リオンの出で立ちを見た途端、手にしていたものを取り落としたり口笛を吹いたりと様々だった。
「似合うかー?」
いつもいつも滅多なことがない限りはジーンズとブルゾン姿のリオンが珍しいことにスーツを、しかも名前の通ったブランドに見えるものを着ていると皆が目を丸める前でくるりと一回転してにやりと笑ったリオンに、ジルベルトが面白くなさそうな顔でぼそりと呟く。
「・・・馬子にも衣装かぁ」
今のお前に何て相応しい言葉なんだろうなと笑う同僚に、どういう意味だよと同じく面白く無さそうな顔になったリオンが応酬しようとするが、そのいつもの舌戦を制したのはダニエラの一言だった。
「リオン、本当に似合ってるわよ。彼の見立てかしら?」
「オーヴェがいつも買ってる店で作ってもらった」
襟元を両手で引っ張りながら胸を張るリオンだが、その言葉に対する皆の反応が己の予想とは違っていて、小首を傾げて彼女を見れば本当に本当に心配しているんだと言いたげな顔でお財布の中身は大丈夫なのと問われてがっくりと肩を落とす。
「それぐらいの蓄えはあるっての!」
「それじゃあ良いけれど・・・ドクが通ってる店って・・・そこそこ値の張るお店でしょう?」
「・・・うん」
だから正直な話、今回のこの買い物は痛かったが滅多に見る事の出来ない手放しの絶賛も貰えたから元は取れたとやけくそ気味に胸を張ると、ダニエラがいい加減な態度で手を振る。
「リオン、このスーツで護衛するのか?」
「そのつもりだけど」
「・・・銃はどうするんだ?」
護衛の対象がバルツァー会長で脅迫状が届いている事から当然ながら護衛に当たる際には拳銃を所持することになるが、どうするつもりなんだとコニーに問われたリオンは、よくぞ聞いてくれましたと言いたげな顔でスーツのボタンを外してひらりと前を広げる。
「ホルスター、わかんねぇだろ?」
「ああ」
言われるまで気付かなかったが、リオンはしっかりとホルスターを装着していて、左腋の下にはリオンが愛用しているH&Kのグリップが顔を出していた。
外から見れば一目で分かるのはさすがに不便だと思っていたと笑うリオンに皆が苦笑し、そのスーツを作った人物は腕が良いんだなと感心した声を上げると、ジルベルトが今度は俺もスーツを作ってもらおうと笑みを浮かべる。
「・・・作ってもらえよ」
さぞかし良いスーツが出来るんじゃねぇのかとにまにまと不気味に笑うリオンに気持ちが悪いとジルベルトが顔を顰めるが、あのブルックナーがジルベルトを見ればどんな反応を示すのかを見てみたいと立てた指で口元を覆い隠しながら肩を揺らしてしまい、その場にいた面々が一瞬にして後退るような笑い声を上げてしまう。
気味の悪い顔をするんじゃねぇよ、顔は生まれつきだ馬鹿野郎という朝から耳を塞ぎたくなるような舌戦が再開されてしまい、周囲の同僚達もこれはダメだと匙を投げたとき、ヒンケルが朝にもかかわらずに不機嫌な顔で入ってくる。
「何だ、随分と洒落たものを着てるじゃないか」
「似合ってますか、ボス?」
「馬子にも衣装か」
「警部もそう思いますよね」
ヒンケルの言葉に周囲がドッと湧き上がり一人憮然とした顔でリオンが腕を組むが、ついてこいと促されて瞬きをし、ジルベルトに中指を立てて舌を出した後、ヒンケルの後を追いかけるように大股に歩き出す。
「ボス?」
「今日の会長の警備だがな、最低の人数で良いらしい」
「やっぱり俺だけですか?」
毎度の如く回転椅子に腰掛けて勢いを付けて回転したリオンは、やはり何かが腑に落ちないと呟きつつ回転する速さを上げていく。
「お前はじっと出来ないのか」
「へ?・・・ボス、今回の脅迫状なんですけど、本当に本当に、あれ、本物ですよね?」
ヒンケルの呆れ混じりの声にやけに真剣な声で返したリオンは、上司の目が細められて先を促されたことに気付き、くるくる回転していた身体を止めて開いた股の間に手を付いて椅子を握る。
「なぁんか・・・腑に落ちないんですよね、あれ」
本物だと脅迫されている張本人から言われ、脅迫状の実物も目にしたが、何かまだ本当に信じられないと呟けば、ヒンケルが腕を組んで椅子の背もたれを撓らせる。
「お前が今の時期にこんな狂言をしても意味がないと言っていただろうが。・・・・・・信じられないか?」
「Ja.何か緊張感も焦りも無いとしか思えないんですよね」
自宅に通って直接話をしたり自分なりに強迫状を送りつけてきた人間を特定しようと資料を漁ったりもしてみたが、現時点で企業としてのバルツァーが狙われる理由が見あたらない事とレオポルド自身が狙われる理由も浮かび上がってこないと肩を竦めると、ヒンケルも確かに自分もそう思っていたと溜息を吐かれる。
「・・・まさか、これって・・・」
今回の護衛の話が舞い込んだその日、ロッカールームで愉快な仲間達と冗談交じりに話していた言葉が甦り、リオンの顔に汗が流れ落ちる。
「今度は父親がお前の品定めに来たというのか?」
「コニーやジルはそう考えてるみたいですけどね」
もしもその通りだとしても、本当に品定めをしたいのであればアリーセの時のようにウーヴェの自宅に来れば良いだけで、何もリオンの仕事に合わせるような事をする必要など無いだろう。
レオポルドの真意が読めない事に微かに苛立ちを感じて舌打ちをしたリオンは、それでも仕事だから今日の護衛はきっちりと行うと肩を竦め、そう言えばそうだったなとヒンケルが目を剥いた後、にやにやと不気味な笑みを浮かべ、リオンの頭から爪先までをじろじろと見つめる。
「何ジロジロ見てんです、気持ち悪ぃ」
クランプスに頭から爪先まで見られたら気持ち悪ぃと、口の悪さを発揮するリオンを馬鹿者と一喝したヒンケルは、そのスーツで護衛に出るのかと咳払いをし、準備万端だと笑いながらジャケットの前を広げられて瞬きをする。
確かにリオンの言うとおり準備は出来ているようで、普段は素直に頷かないリオンであっても仕事になれば信頼の置ける部下の一人である事を思い出し、最低限の人数での護衛だが制服警官を何人かホテル周辺に配置する事と、自らもパーティ会場に出向くことを伝えるとリオンの顔にあからさまに安堵の色が浮かび上がる。
いくら最低限の人数での護衛とはいえ自分一人だと心許なかったのだが、いつも一緒に行動しているヒンケルがいれば後のフォローはして貰えるとの思惑があったのだ。
その思惑につい顔をにやつかせてしまうが、当然ながらヒンケルはそんなリオンの心裡を察していて、自分はあくまでもオブザーバーであり、メインとなるのはお前の判断だぞと釘を刺すと、みるみるうちに今度は不満の色が浮かび上がる。
「ボスのケチ」
「誰がケチだ、馬鹿者っ!」
「バカにバカと言っても堪えませんって」
「そうか・・・ならいくら俺にクランプスだと言っても堪えないと思わないか?」
ヒンケルが肘をついて手を組みその手に顎を載せてふふんと笑うが、その言葉にリオンが口笛を吹いて頭の後ろで手を組む。
「やっぱりボスはクランプスだったんだな─────いてぇ!」
「さっさとバルツァーの会社に行ってこい!」
リオンの憎まれ口に素早く立ち上がったヒンケルが拳を握り、くすんだ金髪にぐりぐりと押しつけ、警護対象である会長の元に行ってこいと目を吊り上げる。
ヒンケルに怒鳴られ、渋々感を隠しもしない顔でシルバーのBMWをバルツァーの本社へ向けて走らせようとしていたリオンだったが、昨日レオポルドの自宅を出る直前に彼に伝えていた携帯に警護対象者であるレオポルドの秘書から着信があり、車を止めて耳に宛がうと、午後の記念式典の前に急な仕事が入り、ホテルで落ち合いたいと伝えられて目を丸くする。
今日から―本当は昨日から-警護に付くはずだったのに構わないのかと問いかけたリオンの耳に届いたのは、構わないと言っているという秘書の少し苛立ったような声だった。
何に苛立っているのかはわからないが、そちらがそういうのならばそうすると返して通話を切ったリオンは、さてどうするかと思案するが、このまま時間を潰すことなどできるはずもなく、ヒンケルにすぐさま連絡を入れて戻って来いと命じられてしまう。
「りょーかい。じゃあ今から戻ります」
ちなみに警護対象者の会長とはホテルで落ち合うことになったとも伝えると、車に乗り込んで仕事が一つ減ったと浮かれ調子でステアリングをノックするのだった。
約束の時間より30分早くヒンケルを助手席に乗せたシルバーのBMWでホテルの駐車場に滑り込んだリオンは、周辺の警備に当たる予定になっている制服警官の中に時々一緒に飲みに行く顔を見つけて近寄り、この後の予定について笑いながらも真剣に打ち合わせをしていくが、ヒンケルはただ黙ってそんなリオンを見守るだけだった。
本当に今回はオブザーバーとして参加するつもりなのかと署を出発する前にコニーらがヒンケルにそれとなく問い掛けていたが、もちろんそのつもりだと断言し、部下達に心配という菌を撒き散らさせるが、そろそろあいつも一人で仕切っても良い頃合いで今回の事案が良い腕試しにもなるとコニーらに告げたのだ。
今回の護衛で脅迫状がレオポルドの言うように本物で記念式典中に襲われたとすれば、その時リオンが的確に動けるのかを見極めたいという思いがヒンケルにはあった。
自分の部下がどんな事案に適しているのかを見極めるのも上司の重要な役割だが、リオンに関して言えばこういう細やかな気配りが必要になる事案は苦手意識が強く、またそれを分かっているためにヒンケルも敢えてリオンには命じてこなかったのだ。
今回の護衛が何ごともなく終わってくれることを強く祈りつつ、会場となるフロアに上がろうとリオンを促し、制服警官には予定通りの配置についてくれと命じるとリオンが大股についてくる。
「ボス、会場のチェックはどうするんですか?」
「ああ、制服組に何人か頼んであるから、会場に着いたら報告を受けろ」
「Ja」
「受付の時のボディチェックにも協力を要請してあるが、どうなるかはわからん」
脅迫状には今回の式典を襲撃する事だけ書かれていたが、どんな方法で何をするのか、また何を目的としたものなのかも書かれていなかった為、護衛する対象が絞り切れていなかった。
ただリオンは直接命じられたためにレオポルドを会場で護衛する事になったが、会場全体に爆発物を仕掛けられるような事にでもなれば、最小の人数では心許ないどころか後日警察全体が批判の対象となるだろう。
その予想とヒンケルの不安を滲ませた声に天井を仰いで溜息を吐いたリオンだったが、エレベーターのドアが閉まろうとした寸前にドアの隙間に立派な革靴の先が押し込まれたことに気付き、足下から視線を上げてぽかんと口を開けてしまう。
靴の幅一つ分の隙間の向こうに見えていたのは、ヒンケルとはまた違った厳つい顔と強い光を湛えた碧の瞳だったのだ。
慌ててボタンを押してドアを開け、エレベーターの壁に背中をぶつけたリオンは、少しだけバツは悪いが堂々とした態度で無理矢理こじ開けたエレベーターに乗り込んできたレオポルドとリオンより少し年下の青年に対し、ただ驚きに目を瞠ってしまう。
「おお、警部も一緒か」
「さすがに一人では心許ないのでついてきました」
リオン以外の人間を派遣すれば追い返すと言っていたが、ここに本人もいるのだから追い返されないぞと、リオンがクランプスと称する厳つい顔に太い笑みを浮かべれば、レオポルドもにやりと笑みを浮かべてふふんと笑う。
「会長、式典でのスピーチについてですが・・・」
ヒンケルとレオポルドの二人の強面が太い笑みを浮かべあっていても仕事以外には興味もない態度の秘書が淡々と語りかけると、レオポルドがちらりとリオンを見た後、スピーチは止めだと言い放つ。
「会長!?」
「俺のスピーチなど誰も聞きたいとは思わないだろう。副社長に代行させろ」
先日とは違ってさすがに場を弁えている為か皺一つ無いスーツの上下に身を包んだレオポルドが煩わしそうに告げ、驚きに目を丸くする秘書に顔を寄せて大体今日のパーティにも本当ならば自分ではなく社長が出るべきだろうと不満を訴え始める。
「・・・社長はロンドンへの出張からお戻りになっておりません」
その出張もそもそもは会長が行くべきものだったと秘書に淡々と説明されて口を閉ざしたレオポルドが視線を彷徨わせたかと思うと、壁に背中を貼り付けているリオンに目をとめてにたりと不気味な笑みを浮かべる。
その笑みから不穏なものを察したリオンが早くフロアにつけと呪いを掛けるような顔で念じた結果、エレベーターのドアが静かに開いて中の面々に出て行けと合図をしてくれた為、転げるように-実際はレオポルドから逃れるように-フロアに出たが、その背中にロビー中に響き渡るような大音声がぶつかり、ずかずかと大股にやってくる大きな身体に内心悲鳴を上げそうになる。
「護衛する筈のお前が逃げてどうする!」
「あはは・・・すみません」
レオポルドに襟首を掴まれてしまえば何も言えず笑って誤魔化そうとしたリオンを一瞥した彼は、逃げるなと釘を刺して手を離し背後で咳払いをする秘書に舌打ちをする。
「会長」
「・・・仕方がない。原稿はあるのか?」
「こちらにご用意致しております」
アタッシュケースから取り出された書類に目を通したレオポルドは、ジャケットの内ポケットから愛用しているらしい万年筆を取り出すと書類に大胆に線を引いていき、呆気に取られる秘書に向かってこれが最大限の譲歩だと胸を張る。
この、どう考えても一代で名を成し財を築いた大人物とは思えない子供っぽさに秘書が深々と溜息を吐くが、初めて見たときに抱いた好奇心の強い青年のような印象に間違いはなかったと己が見抜いたそれに感心すると同時に、こんな上司ならばきっと自分は働きやすいに違いないとぼんやりと思案し、何を考えているんだと頭を振る。
自分は今の職業である刑事になる事を学生の頃に微かに夢に見、それまで散々迷惑ばかりを掛けてきたマザー・カタリーナやゾフィーらに恩返しではないが、彼女たちを少しでも安心させたい一心で表向きは全く変わらずに、だが一人になると一生分の集中力を発揮して勉強をし、見事望み通りの警察官への就職を果たしたのだ。
そんな天職とも言える職業から離れるつもりもなければ、今のボスであるヒンケルに対して不満を抱いている事もないと苦笑し、不意に浮かんだ言葉を脳味噌の中で握り潰す。
「全く・・・俺のスピーチを有り難く聞くヤツなどいるのか?」
「またその様なことを」
レオポルドの言葉に秘書が目を剥いて反論するが、それを見ていたリオンは彼の気持ちが手に取るように理解できた為、お偉いさんのスピーチなんて怠いだけですよねと本音を零してしまうが、秘書にキッと睨まれて肩を竦めヒンケルに髪を引っ張られて悲鳴を上げるが、レオポルドの豪放な笑い声に救われたように安堵の笑みを浮かべてしまう。
「確かにお偉いさんのスピーチは怠いだけだな!」
「会長!!」
秘書の窘めるような声に彼が鼻息荒くその通りだろうと言い放ち、おそらくは有能な秘書の顔色を無くさせてしまう。
「本当ならばこんなパーティなどさっさと終わらせて帰りたいが・・・」
そう言うわけにも行かないと深く溜息を零し、まるで拗ねたように足下を見つめるレオポルドに何故かリオンがたかが数時間のパーティなので我慢して下さいと口を出してしまう。
「確かにそうだな」
「会長がスピーチを短くすれば皆が短くするかも知れませんよ」
だからそんなに気落ちするなと慰めではなく本心で告げたリオンだが、レオポルドにじろりと睨まれて瞬きをし、胸倉を掴まれる勢いで詰め寄られて目を白黒させてしまう。
「リオン、お前は俺の会社で働いているのか?」
自分はただのしがない刑事だと両手を上げてホールドアップの態勢になったリオンの前、レオポルドが不満を湛えたように口を歪めて太い腕を組み、そうだろうと言い放つ。
「俺はお前に一度も給料を払ったことなどない。なのに会長と呼ぶのか?」
「へ!?」
「こいつが俺を会長と呼ぶのは当然だが、お前には会長とは呼ばれたくないぞ」
「何だそりゃ!?」
レオポルドの不敵な笑み混じりの言葉にリオンが素っ頓狂な声を上げ、じゃあ何と呼べば良いんだと叫ぶが、その言葉に一瞬にして表情を切り替えた彼が碧の目を瞼で半ばまで覆い隠し、それぐらい自分で考えられないのかとまるで恫喝するように問いを発する。
その声に背後にいた秘書が息を飲んで背筋をびしっと伸ばし、さっきまでとは態度を一変させた事に気付いたリオンが彼に負けず劣らずの強い光を青い目に湛えて口元に太い笑みを浮かべる。
自分の考えを自分で口にすることも出来ないのかと嘲られてしまうが、もしも己の脳裏に青天の霹靂の様に思い浮かんだ言葉を告げたとすれば、この強面にどんな変化が訪れるのだろうか。
その変化を目の当たりにしたいという強い欲求を辛うじて抑え込むが、抗えない強さが口調に滲み出してしまう事は止められなかった。
「ボスに蹴り飛ばされそうなので、もう少し考えてから言います」
「期待していようか、リオン・フーベルト」
楽しみにしていると笑みを浮かべた後、もう一度表情を切り替えて大きな手でリオンの頭をわしゃわしゃと掻き乱したレオポルドは、心なしか青ざめた表情の秘書に促されて会場になっているホールへと足を向ける。
呆然とその広い背中を見送ったリオンは、ヒンケルが溜息混じりに呼びかけても全く気付くことはなく、耳を引っ張られてやっと我に返る程の衝撃を受けてしまっていた。
初めてヒンケルの執務室で会ったときにも感じた事だが、今髪を乱していった大きな手がもたらした温もりと強さは、己の恋人であり彼の息子であるウーヴェの温かさと優しさに良く似ている感覚をリオンに抱かせていた。
だがそれ以上に、未だかつて経験したことのない言葉にすることが出来ない感情が胸の奥で産声を上げるだけではなく、生まれた歓喜を表そうとするように胸郭の内側を震わせたのだ。
説明のしようがないその感情に胸元を握りしめ、どうしたと覗き込んでくるヒンケルに何でもないと苦笑したリオンは、護衛の対象が一足先にホールに向かった事を今更ながらに思い出し、慌てて彼を追いかけるようにホールのドアを開いて中に足を踏み入れるのだった。
「─────今回の合併が両社にとっては今後の発展を明るく大きくするためのものであり、またそこから生まれる新たな事業への第一歩である事と成功を心より祈り、挨拶に代える。レオポルド・U・バルツァー」
マイクを使わなくても大丈夫だろうと思わず苦笑してしまう程良く通る太い声が静まりかえったホールに響き渡り、人々の身体の間から毛足の長い絨毯の上にふわりと落ちていく。
今回の合併記念式典の規模は、純利益で300億ユーロを超える企業が行う記念式典としてはささやか過ぎるもので、その規模に合わせてなのか受付等でのセキュリティチェックも昨今の事情を思えば甘いとしか思えないものだった。
その事から思いつくのが、今回の合併がバルツァーにとっては最重要課題ではないという事実だった。
だからレオポルドがスピーチを渋ったのかとも思うが、あれは本来の性分がスピーチなどと言う堅苦しいものが嫌いだという表明だろうとリオンは考えていたが、それでも短くしたものであっても聞く者の心に訴えるような力強さを持っていた。
階段3段分の高さのステージが作られてある壁と反対側-入口に最も近い壁に背中を預け、片耳に突っ込んだイヤホンから流れてくる警備状況に目を伏せていると、ヒンケルが合図を送るように肘で脇腹を突いてくる。
リオンが目を向ける先、ステージで拍手に対して尊大な態度で頷き、脇に用意されている椅子に腰掛ければ、この記念式典が終了すればバルツァーの役員に名を連ねるレオポルドより年若い男性がマイクの前に立つ。
合併されるとはいえそれでも一企業の社長を務めるだけの男だけはあり、こうしたスピーチなどの場数は踏んでいるだろうが、悲しい事に直前の印象が強すぎて、彼が話す言葉も片言でしかリオンの耳に入らず、心には一言も届くことはなかった為、僅か10分にも満たないスピーチでこれだけの強烈な印象を植え付けるレオポルドの存在がやはり希有なものに感じてしまう。
実業家としての彼を詳しくは知らないが、どちらかと言えば豪腕でワンマンな社長ぶりだろう事は簡単に想像でき、またそうでないと例え基盤はあったとしても、たった一代でここまで世界的に名の通った企業に発展させることは難しいだろう。
その時その時の需要と供給をいち早く見抜く目と、今後需要が見込まれる地域への先行投資、それに対する実行力なども備えていなければならないだろう。
経済の勉強はあまり得意ではなく、通り一遍の事しかしてこなかったリオンでさえもその難しさに薄々とは気付くが、ここで今彼のスピーチを聴いていた人たちは一体どんな思いで彼の言葉を聞いていたのかが不意に知りたくなってしまう。
ざっと見渡した限りでは50人前後の男女がホールに等間隔に置かれたテーブルの傍に立ってステージを見ているが、そのテーブルには軽食と共にアルコール類も置かれてあった。
真っ昼間から酒を飲める良いご身分な事で、と、ヒンケルが聞けば同調の苦笑を浮かべてくれるだろうが、対外的には咳払いをして一睨みするような事を内心で呟き、ステージ上に用意されているパイプ椅子がまるでエグゼクティブチェアであるかのように悠然と腰掛けて壇上から見回すようなレオポルドの視線に気付き、無意識に腹に力を込めて軽く顎を引く。
何故かは分からないがここで目を逸らせば今後自分の存在は彼の意識野から抹消されてしまうような危惧を抱き、背中に伝う冷たい汗を感じつつも両足でしっかりと-一見すれば何気なくだが-絨毯を踏みしめて背筋を伸ばす。
相手が教科書にも載るような立身出世を果たした人物であろうが、愛してやまない恋人の実父であろうが、今の己は彼の足元にも遠く及ばないが一人の男として負けたくないとの矜持から力を振り絞り、唇の両端をしっかりと持ち上げる。
その様を間近に見ていたヒンケルが驚きのあまり目を瞠るが、リオンに声を掛けることは出来なかった。
いつもふざけている様な部下が見せた刑事の貌とはまた違う、きっと今まで誰も見たことがないであろう心の奥深くで息を潜めて出番を待っていた強い光を双眸に湛え、口元に笑みを浮かべてステージ上を睨むように見つめる顔に内心息を飲み、一体どの顔が本当のリオンなのだろうかと思案するが、どんな顔を見せようともリオンはリオンだと自戒するように笑みを浮かべて同じようにステージ上のレオポルドを見つめる。
レオポルドが視線を流した事で生まれていた緊張感が一気に解れた事でヒンケルが溜息を零すと、その隣ではリオンが膝が崩れ落ちそうだと自嘲しつつ壁にもたれ掛かるが、その時、リオンの産毛がチリチリと静電気を帯びたような感覚に囚われて青い目を瞠る。
それは、小学校に入った頃からほぼ毎日ケンカに明け暮れ、傷付き傷つけてきたリオンだからこそ察することの出来た総毛立つような感覚だった。
後にどうして分かったんだと問われたリオンが頭を掻きながらそう答え、質問してきた人間を呆然とさせてしまうのだが、今はとにかく己の勘が察したものに脳味噌が応えるように警告音を鳴らしたのだ。
「リオン?」
「・・・ボス・・・後を頼みます!」
リオンの全身にさっきとはまた違うがヒンケルにしてみれば見慣れた緊張が一瞬にして漲ったことに低く囁くが早いか、後を任せたと言い残したリオンが身を屈めて壁際を素早く進み、スピーチを終えた社長への賛辞も終わって壇上の司会者が乾杯するためにグラスを手に合図を送るのを確認し、ステージサイドの料理を運ぶためのワゴンなどが置かれているそこへと身を寄せると、ヒンケルも少し離れた場所に駆け寄ってくる。
「どうした!?」
「なぁんか・・・きな臭いんですよねー」
産毛が電気を帯びたようにチリチリする不愉快さに場違いな笑みを浮かべ、何だろうとテーブルとテーブルの間でグラス片手に立つ人々を撫でるように一瞥する。
ステージ上では司会者が壇上のレオポルドと社長にも合図を送り、それぞれが差し出されたグラスを受け取って軽く掲げたその時だった。
乾杯の準備にざわつくホールに、一発の銃声が響き渡ったのだ。
職業柄耳に馴染んだその音に目を瞠り、己の背後ではヒンケルが音の発生源を探す為に身を乗り出した事を知ると、後は任せたとばかりに絨毯を蹴りつけて三段分の高さがあるステージへと一気に駆け上る。
その時、リオンは自分でも理解出来ない思いに突き動かされ、壇上で驚く司会者やスピーチを終えたばかりの社長達とまるで格の違いを見せつけるように全く動じる様子もなく銃声がした方へと顔を向けるレオポルドに伏せろと叫び、視線が重なった瞬間、再び銃声が響いてリオンの間近を何かが風を切るように飛んでいく。
それが拳銃から発射された弾だと当然のように理解した脳味噌が警護の相手が負傷する不吉な未来を思い描いて戦慄を全身へと伝播させた結果、リオンの口から予想もしなかった言葉が流れ出す。
「親父っ!!」
何故そう呼んだのか、その時のリオンに己の言動について深く追求している余裕など無く、ただ心が叫ばせたとしか思えない言葉だった。
さすがにその言葉にレオポルドが驚愕に碧の目を瞠るが、口を開こうとする前にリオンの大きな身体に庇われてステージ上に押し倒されてしまう。
レオポルドに覆い被さりながら背後に全神経を向けたリオンは、女性の甲高い悲鳴と男性の怒号からヒンケルが犯人を取り押さえてくれた事を知り、インカムからフロアや周辺の警備に当たってくれていた制服警官に連絡を取ると、レオポルドを促してステージサイドへ向かわせ、腰を抜かしたように座り込む社長や司会者にも身振りでレオポルドの傍に向かえと命じるのだった。