テラーノベル
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ツンとする消毒液のにおいと、規則的に鳴り響く電子音で目が覚めた。
白い天井。
体にまとわりつく何本ものチューブ。
自分がどこにいるのかは、なんとなくわかった。
けれど、自分が「誰」なのか、どうしてここにいるのかが、どうしても思い出せない。
頭に冷たい霧が立ち込めているみたいに、記憶の引き出しが一つも開かなかった。
「……ん、」
渇いた喉から掠れた声を絞り出す。
その瞬間、ベッドの脇からガタ、と激しい音がした。
視線を向けると、一人の男性が立ち上がっていた。
服装からして、大学生か、あるいはもう少し上の年齢だろうか。
整った顔立ちはひどくやつれていて、目の下には濃い隈がある。
彼は大きく見開いた目でこちらを見つめ、やがてその瞳にみるみるうちに涙を溜めていった。
「みこちゃん……!」
悲鳴のような、祈るような声で彼は俺の名前を呼んだ。
そのままベッドにすがりつき、俺の手を両手で包み込むように握りしめる。体温が、痛いくらいに熱かった。
「みこちゃん、よかった……。目が覚めて本当によかった……っ」
大粒の涙を流してボロボロと泣き崩れる彼を、俺はただ戸惑いながら見つめることしかできない。
みこちゃん。
それが俺の名前なのだろうか。
「あの……」
「あ、ごめん、痛かった? 看護師さん呼ぶからね!」
「あ、いえ……そうじゃなくて」
俺は震える声で、ずっと胸の奥に渦巻いていた、一番恐ろしい問いを口にした。
「……あなた、誰、ですか? あと、俺は、誰なんですか……?」
彼の動きが、ピタリと止まった。
涙に濡れた顔がゆっくりと上がる。
その表情に、張り付いたような絶望が浮かぶのを俺は見逃さなかった。
「おれ、自分の名前も、ここがどこかも、何もわからなくて。あなたのことも……思い出せないんです」
部屋に沈黙が降りる。
電子音だけが、やけに大きく響いていた。
彼は呆然と俺の顔を見つめていたが、やがて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
そして、溢れそうな涙を無理やり袖で拭うと、今度は壊れ物を扱うような優しい手つきで俺の髪に触れた。
「君の名前は、王宮海琴。高校2年生だよ」
海琴。
その響きにも、やっぱり聞き覚えはなかった。
「……じゃあ、あなたは?」
「俺は、ミドリヤスチ。みこちゃんより三つ年上」
スチ。
頭の中でその名前を繰り返してみるが、漢字のイメージすら浮かばない。
「スチさんは、俺の……お兄ちゃん、ですか?」
家族なら、この取り乱し方にも納得がいく。
そう思って尋ねた俺に、スチさんは一瞬だけ、泣きそうな、だけどどこか愛おしそうな歪んだ笑顔を見せた。
「ううん、違うよ」
スチさんは俺の手をもう一度握り直し、その指先にそっと自分の額をあてた。
「俺は、みこちゃんの彼氏。君の、世界で一番大切な恋人だよ」
そう言ったスチさんの声は、震えていた。
記憶のない俺の胸の奥が、なぜかその言葉を聞いた瞬間、トクンと小さく跳ねた。
それからの数日間、
スチさんは毎日、面会時間のすべてを俺の病室で過ごした。
学校の勉強道具や、俺が普段使っているという私物を持ってきては、俺の記憶の穴を埋めるように、ぽつりぽつりと
「王宮海琴」
について教えてくれた。
「……へえ、俺って英語が得意なんですね」
ノートを開きながら呟くと、ベッドの横の丸椅子に座ったスチさんが、嬉しそうに目を細めた。
「そうだよ。洋楽が好きで、歌詞の翻訳を自分でノートにまとめたりしてた。でも、他の教科は『アルファベットが書いてないからやる気が出ない』って言って、いっつも赤点ギリギリ。試験前になると、俺の部屋に泣きつきにきてたんだよ」
「……なんか、目に浮かぶようです」
自分のことなのに、まるでどこか知らない少年の噂話を聞いているみたいだ。
けれど、スチさんの話を聞いている時間は不思議と心地よくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ふと、ずっと気になっていた疑問を口にしてみる。
「あの、スチさん。俺の親……というか、家族は、ここには来ないんですか?」
お見舞いに来るのはスチさんだけで、連絡すら来ている様子がない。
俺の問いに、スチさんは一瞬だけ視線を落とし、それから覚悟を決めたようにまっすぐ俺を見つめた。
「みこちゃん、ショックを受けないで聞いてほしいんだけど……君は、家族とは絶縁してるんだ」
「絶縁……」
「詳しい理由は、みこちゃんが思い出すまでは俺の口からは言えない。でも、君の両親は君を縛り付けるような人たちでね。海琴は高校生になってすぐ、家を飛び出して一人暮らしを始めたんだ」
スチさんは俺の手元にある、鍵のついた小さなキーホルダーを指差した。
「それが、今のみこちゃんの家の鍵。学校の近くのアパートだよ。生活費は、みこちゃんがバイトして、足りない分は俺が……その、少し手伝ったりして」
家族の記憶がないせいか、絶縁と言われても悲しみや怒りは湧いてこなかった。
ただ、高校生が一人で家を飛び出すなんて、どれほどの覚悟だったのだろうと、胸がすこし痛む。
「じゃあ、家を出た時、俺はどうしたんですか? 行くあてもなかったんじゃ……」
「うん、ボロボロだった」
スチさんは懐かしむように、だけど少し苦しそうに眉をひそめた。
「雨が降りそうな、すごく寒い夜だった。君は薄着のまま、行くあてもなく夜道を彷徨っててさ。公園のベンチで凍えてる君を、俺が見つけて拾ったんだ。それが、俺たちの出会い」
スチさんの大きな手が、そっと俺の手の上に重ねられる。
「あの時、みこちゃんは俺の手を握って『助けて』って言ったんだ。だから俺は、何があってもこの手を離さないって決めた。みこちゃんが記憶をなくしても、俺がみこちゃんを守るよ。……だから、何も心配しなくていいからね」
向けられる視線は、痛いくらいに一途で、嘘偽りのないものに思えた。
「彼氏」だと言われた時は現実味がなかったけれど、この温かい手に触れていると、かつての自分がこの人を頼り、愛していた理由が、言葉じゃなく感覚でわかるような気がした。
「スチさん」
「ん?」
「拾ってくれて、ありがとうございます。昔も、……今も」
俺が微笑むと、スチさんは一瞬呆然とした後、顔を真っ赤にして視線を彷徨わせた。
その初心な反応がなんだかおかしくて、俺は小さく笑った。
みちち@誰かの裏垢
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ころさな
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けいか🎼
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遥斗 凪
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コメント
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第1話、読み終えました……。 記憶をなくした海琴くんと、スチさんの一途な愛情が切なくて、でも優しい空気に包まれてて、胸がぎゅっとなりました。 「世界で一番大切な恋人」って言葉、泣きそうなのに笑おうとするスチさんの表情が目に浮かんで、すごく印象的です。 海琴くんの「ありがとう」が、記憶がなくても体が覚えてる温かさって感じで、じんわりしました。 続きがすごく気になります……!🤍