──雨が、やまない。
街にはもう何度足を運んだだろう。
事故のあと、潮江文次郎は街へ出るようになった。目を背けてきた現実に、ようやく向き合おうと決めてからのことだった。
償いなんてできることじゃない。でも、せめて。せめて、顔を見て言葉を交わしたかった。
「見舞いの品なんてなんでもいい」と誰かが言っていた。だが、そんな気持ちで選びたくない。そう考えてから、妙に神経質になる自分がいた。
どんなものなら、食満留三郎は受け取ってくれるだろう。どんな形をしたものなら、あの無表情を少しでも崩せるだろうか。
──どんな風に思われるかは分からない。それでも誠意を持って、向き合いたかった。
・
何日も何日も街を歩き回った。
街では、傘をさす人々が行き交っていた。誰かの笑い声、どこかの店から流れる笛の音。こんなふうに、外の空気に触れるのは久しぶりだった。
生真面目な生地屋、笑顔を絶やさない飴細工の老夫婦、雨宿りをさせてくれた道具屋の主人。 傘をすり抜ける雨粒の音、人混みのざわめき、濡れた足音。
どれもこれもが、自分の時間だけ止まっていたかのような錯覚を和らげてくれた。
ふと、知り合いらしき忍たまの話し声が耳に入る。
「……なあ、食満が最近教室にちょっとずつ戻ってけてるって話、知ってるか?」
「ああ。でもまだ実技はダメみたい。目がね、ちゃんと治ってなくて」
「……そっか。まあでも、ちょっと元気そうにしてるの見て、少し安心したよな」
潮江は足を止めた。知らなかった。医務室で寝たきりではなかったのか──食満が、少しづつ授業に戻っているだなんて。
(……良かった。少しは、良くなってるんだ)
食満が教室に戻っていると聞いて、少しだけ心が軽くなったのは事実だった。まだ包帯は取れていないし、実技にも出られない。それでも、前よりは回復している──そう思った。
・
(あいつが前向いてるなら、俺も……ちゃんと向き合わないと)
濡れた石畳の先、露店の赤い布越しに見つけたのは、柔らかな生地の手ぬぐいだった。藍色に、枝垂れ桜の模様。派手すぎず、地味すぎない。食満の好みにも、たぶん合っている。
使ってほしいと思った。もしもう一度、笑って話せる日が来るなら──そのときには。
ようやく手にした小さな包みを懐に入れて、長い息を吐いた。
不思議なことに空は徐々に明るくなっていた。あんなに毎日のように雷鳴が響いていたというのに、嘘のような快晴だ。雲一つない空が目に痛い。
「まるで、何もなかったみたいだな」
・
医務室のある棟に近づくと、日差しは容赦なく頭上を照りつけていた。
「ねえ、なんか最近天気おかしいよね?」
「うん、急に大雨降ったり、雷鳴ったり……今度はカンカン照りだし」
「前の方がマシだったかもね。なんだか不吉な感じ……」
下級生の軽口に混ざる不安の色を聞きながら、潮江は静かに医務室の戸の前に立った。
脈が早くなる。
不意に、かつて雷鳴が轟いた日の記憶が蘇る。
──焙烙火矢の爆音。
──土煙の中、倒れていた食満。
──自分の名前を呼ぶ声に、微笑むことすらできなかった彼の顔。
重たい空気を振り払うように、潮江は戸を引いた。
・
「……失礼します」
食満は一人、静かに横になっていた。顔の包帯は前よりだいぶ少なくなっていたが、目元だけはまだ薄く布が巻かれている。
あの時のような痛々しさは無く、起きていると分かる呼吸の動きに安堵しながらも、潮江の足取りは重かった。
食満がこちらを向く。瞳の色が見えなくても、その表情が驚きに染まったことは分かった。
「よう。……久しぶり、だな」
なけなしの声で言って、潮江はぎこちない、引きつった笑顔を貼り付けた。雨の感覚が残っているように、汗が背を伝うのを感じる。見舞いの手ぬぐいを握る手に力が入った。
「これ、ちょっと……街で見つけて。お前、こういうの好きだったろ?」
手のひらに乗せて差し出されたそれを、食満はまじまじと見つめた。何かを言いかけて、喉が詰まるようにして口を閉じた。
心の奥で何かがじわじわと膨らんでいく。許しを請いに来たのか、誠意を見せに来たのか。
──受け取れない。それを受け取ったら、自分が許したみたいになるだろ。そんなの、絶対に嫌だ。
そう言わんばかりに、食満の指先が潮江の手元を弾いた。
手ぬぐいがひらりと空中を舞い、床板に染みのように落ちる。
「……は?」
声が漏れた。目を丸くする潮江の顔が、傷ついたように歪む。自分の手を見て、そして食満を見た。言いようのない熱が、喉奥からせり上がってきた。
「なんで、そんなこと……俺、せっかく、何日もかけて選んだのに……!ふざけんなよ!」
潮江の声が、医務室に響く。
必死に選んだ。自分の気持ちを押しつけるつもりなんてなかった。ただ、お前のことを思って。あの時の償いとか、そんな大それたものじゃなくて。顔を見て、元気でいてくれたら、それだけで。
けれど、言葉をつづけようとしたそのとき──
「──っ……」
食満が顔を押えて、小さくうめき声を漏らした。苦痛を堪えるように、唇を噛み締めている。
「おい……!どうした……!」
慌てて飛び寄ろうとする潮江を遮って、戸が開いて伊作が現れた。
「留三郎、まさか……また膿んできたの!?汗をかかないようにって、気を付けてって何度も言ったよね?」
「……っ、すまん……」
食満が今初めて喋った。
「もう!これ以上悪化したらどうするのを仙蔵にも言われてただろ?煎じ薬、ちゃんと塗ってた?包帯は?」
薬を取り出して包帯をめくる伊作の手が素早く動く。
(膿んでるって、あの時より酷くなってるのかよ)
怒られている食満の横で、一人固まっていた。思わず伊作を見つめると、彼にすっと目を逸らされた。
「……文次郎、知らなかったの?」
知らなかった。誰も教えてくれなかった。食満が座学に戻っていることも、顔の包帯も少しだけ取れたことも、汗をかいて悪化しかけていたことも。
あれからずっと、ただ距離を置いていただけだと思っていたのに。食満の傷が悪化して、医務室に通い続けていて、他のみんなはそれを知っていて。
──自分だけが、何も知らなかった。
「何でだよ……!」
感情が渦を巻き、爆発しそうになる。足元から崩れていくような感覚に襲われ、叫ぶように声を上げた。
「なんで、俺だけ……知らなかったんだよ……」
声が震えた。悔しさと情けなさと、置いていかれたみたいな孤独が、胸を締め付けた。
食満の俯いた横顔が、どこか冷たく見えた。やがて、乾いた声が落ちる。
「……俺に構うな」
その言葉は、小さかった。けれど、はっきりと届いた。
潮江の足から力が抜け、その場に崩れ落ちる。膝をついた拍子に、落ちた手ぬぐいが静かに揺れた。指先が床を掴み、震えている。
(……俺だけかよ、知らなかったのは)
もうだめだ。
許しなんて、最初から得られない。あの事故で壊れたのは、食満の身体だけじゃなかった。
・
外では、まるでこの状況に反するように、空の雲は裂け、眩しいほどの真昼の陽光が窓から差していた。
──どうしてこんなに晴れてるんだよ。
無も知らない鳥が鳴いていて、平和に見せかけた日差しが、むしろ残酷だった。
終
前回、支離滅裂だったのにも関わらず思ってたよりも多くの方に褒めていただけて嬉しかったです。ありがとうございます。
考察とかされてみたい!(するほどの内容はない)
いいね、感想、とても励みになります。これで終わりですが、漫画も頑張って描きます……
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続き作れ(