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先日から降り続く雪はあっという間に周囲の景色を白一色に染め上げていた。
灰色の雲は低く重く空から圧するように広がっていて、薄暗いがそれでも朝の気配を感じさせる空気の中、瞬きを繰り返して意識を覚醒させた青年は、サイドテーブルに置いた時計と温度計が一つになったものを横目で見つめてやるせない溜息を吐く。
早朝の文字通り凍り付きそうな気温と空気、そしてたった今目にした数字から視覚的にも寒さを感じて身体を震わせるが、その時己の腰に回されている腕の存在を思い出し、感じ取った寒さが一瞬にして掻き消えた事に苦笑する。
腰から腹に掛けて回されていると言うよりはのし掛かっていると言った方が相応しい、遠慮容赦のない腕だが、その腕がもたらす温もりは暖房器具など代用が全く利かないものだった。
腕を撫でて肘から肩へと掌を滑らせ、素肌の肩から首筋に掛かる柔らかな髪を一つ撫で、穏やかな寝息を立てる顔に目を細めると、無意識に分け与えられた力を発揮する為に脳味噌が働き始める。
こうして恋人と同じベッドで夜を越え朝を迎える様になったが、それまでの青年の暮らしから考えれば、天地がひっくり返った時と同じような衝撃を周囲にもたらす程だった。
職業柄からか人当たりは良く、初対面の人に対しては決して悪い印象を与えないように最大限の注意を払い、敬意を示す事の出来る青年だが、心の中に厳然たる線引きがなされていて、学生時代の友人と言えども、また肌を重ねるような関係の女性であっても、その線を飛び越えて青年の中に踏み込めた人間は殆どいなかった。
数少ない例外とも言えるのが、この街でも有名なレストランのオーナーシェフを務める青年だが、それはお互いに哺乳びんを咥えて紙オムツで膨れたヒップを左右に揺らしながら歩いていた頃からの付き合いの為、その線が引かれる前に青年の中にしっかりと居場所を確保していたためだった。
その彼を除けば、今穏やかな寝息を立てているもう一人の青年だけがその一線を越えたのだ。
否、はっきりと言えば、彼の中に存在する線など意に介することなく周囲からすれば唖然とする程の乱雑さで彼の中に踏み込み、気がついた時には自らの居場所を幼馴染みの青年よりも深くて広い場所に定めていたのだ。
彼自身もどうしてこんなにも簡単に心の裡に招き入れたのかが未だに理解出来ないでいたが、その理解不能を今更悩んだ所で既にその存在は消し去ることが出来ない程になっていた。
首筋に掛かる穏やかな寝息を受け止めながら早朝から考える事ではないと自嘲し、そっと腕を持ち上げてベッドから抜け出すと、行き場を失った腕がぱたりと温もりの残るシーツの上に落ちていくが、寝息に全く変化は無かった。
軽くシャワーを浴びて手早く着替えを済ませ、自分と今はまだ深い眠りに就いている恋人の為の朝食の支度に取りかかろうとこの後の予定を決め、それに従うようにバスルームへと向かい、少し熱めのシャワーを浴びて眠りの残滓を洗い流すのだった。
まるで映画かドラマに出てくるような広々としたキッチンの片隅に、部屋の規模を思えば淋しさすら感じるような小さなテーブルの一方を壁に接するように置き、その壁に正対するように一つの丸椅子と背もたれの長い椅子を並べただけの、簡素すぎるダイニングテーブルに朝食の支度をある程度調えた彼は、ガウンの上に着けていた生成のボックスエプロンを外して椅子の背に引っ掛けると、トースターを温めてキッチンを後にする。
そろそろ起きてシャワーを浴びなければ遅刻してしまう時刻になっていたが、それでも恋人はまだまだ眠りの園を卒業するつもりはないらしく、起きてきた気配を感じる事は無かった。
お互いに家があり同棲している訳ではないが、一人で夜を過ごす事を大袈裟なほど嫌う恋人がいつしか彼の家にやって来ては、食事をしその後の濃密な時を過ごして朝を迎えるようになったのだ。
それを止めろとも言えず、またいっその事この家に越してくればどうだとも言い出す勇気がまだ湧き起こらない彼は、同棲未満の中途半端とも言えるこの関係について深く考えないように努力していた。
深く考えてしまえばどんな言動を取るのか、己にも予想が付かないのだ。
いつの頃からか考えるようになっていた事を今また封印し、今はそんな問題よりも目先の最大の問題を解決するべきだと苦笑しながらリビングに立ち寄り、ソファに座っているレオナルドを抱え上げるとベッドルームのドアを開ける。
今はまだ眠っている恋人が、俺の部屋が一体いくつ入る広さなんだと呆れたように呟いた広さを誇るこのベッドルームは、南に面した壁の半ばがいくつかに仕切られた掃き出し窓になっていて、その先には雪が積もっているバルコニーがブラインドの向こうに縞模様で見えていた。
入って左手の壁にあるドアがバスルームのドアで、対角線上にある鏡ばりのドアがクローゼットのドアだった。
このクローゼットも部屋に準じてかなりの広さを誇っているが、最近そこには一目で彼の趣味とは全く違う事を感じさせる衣類が収納されるようになってきていた。
彼方こちらが破れているダメージジーンズなど彼は今まで手に取ったことはないし、安さだけが売りの一年着ればくたくたになるような衣類も当然ながら着たことは無かった。
その彼が袖を通したことなど無い類の衣類が入ってすぐの棚の一角に違和感を伴いつつ存在していた。
その違和感にもそろそろ慣れてしまった彼だが、クローゼットのドアの傍にある小さなデスクにレオナルドを腰掛けさせると、広い部屋の中央の壁にヘッドを接するように置いたダブルベッドのど真ん中で大の字になって眠る青年の姿に深々と溜息を吐く。
先程己がベッドを抜け出した時は横臥していた筈だったが、一体いつの間にこんなにも伸びやかな姿になったのか。
真冬であれパジャマを着ることはない青年だから、コンフォーターと毛布の下から見えるのは当然素肌で、見ているだけで寒くなると身体を震わせた後、ベッドに膝を着いて身を乗り出す。
「リオン・・・リオン、起きろ」
そろそろ起きなければ遅刻するぞと告げながら素肌の肩を揺さぶれば、不満を訴える声がくぐもっていてもしっかりと分かる声で告げられる。
可能ならば幾らでも寝かせてやりたいとは思うが、何しろ自分も恋人も立派な社会人なのだ。
いつまでもだらだらと寝ていられないのだと自らに言い聞かせるように内心で告げ、溜息混じりにもう一度名を呼んで肩を揺さぶれば今度も不満を訴えてくるが、それは言葉ではなく実力行使となって現された。
「!?」
伸ばされた腕が何故分かるのか理解に苦しむ正確さで彼の首筋に回ったかと思うと、そのまま素肌の胸に抱え込まれてしまったのだ。
掛けていたメガネが顔にぶつかる痛みと抱き寄せられて自然と安堵しそうな身体に苦痛の声を挙げ、いきなり何をするんだと声に厳しさを混ぜると、耳の傍で大きな欠伸混じりの声が後5分だけ一緒に寝ようと誘われる。
「────リーオ」
いい加減にしないと朝食を抜きにするぞと脅しを掛け、さあどうすると問い掛けるようにくすんだ金髪を撫でれば、この世で最大の理不尽だと言いたげな呻き声が流れ出し、頭を抱えていた手が一本突き上げられる。
「────おはよ・・・オーヴェ」
「ああ、おはよう、リオン」
早くシャワーを浴びて頭をすっきりさせてこいと苦笑し、眠そうに目を瞬かせる恋人の額にキスをした彼、ウーヴェは、軽く顎が上がった事に気付いて苦笑を深め、望みのままに唇にもキスをする。
「チーズ入りのオムレツを作ってやるから、早くシャワーを浴びてこい」
「ぃやっほぅ!すぐにシャワーするから、チーズ山盛りっ!!」
好物が朝食の食卓で待っていると聞かされて喜ぶ子供と同じ顔で笑みを浮かべ、今まで抱きかかえていた彼の身体を突き飛ばすように跳ね起きたリオンは、呆れたように溜息を吐いて肩を竦めるウーヴェの前でベッドから飛び降りたかと思うと、ウーヴェの白い髪に顔を寄せてチュッと小さなキスをする。
「オーヴェも食うんだろ?」
「ああ」
「黒コショウを利かせてくれよっ」
「はいはい」
注文の多い恋人にやれやれと盛大な溜息を吐きながらも心の何処かではそれを喜んで受け入れている己がいる事に、昨夜もこの手で抱きしめた広い背中が見えなくなってから気付き、もう一度溜息を零して首を振ったウーヴェは、重い腰を起こしてデスクに座らせたままのレオナルドを一瞥すると無言で肩を竦め、ベッドルームを再度出ていくのだった。
二人なのに何故か賑やかになる食卓を囲んだ後手早く片付けを済ませた彼は、仕上げをする為にベッドルームに向かい、開けっ放しになっているバスルームのドアに溜息を吐いて中に入る。
「ドアはちゃんと閉めろといつも言っているだろう?」
「んー。だってオーヴェが来るの、分かってたし」
だからいちいち目くじらを立てるなと、薄く伸び来てきたあごひげを掌で確かめる様に撫でていたリオンが鏡越しに目を細めて肩を竦めた為、その横に立ったウーヴェがじろりと睨むと軽く腰の肉を摘んで引っ張る。
「ぃて」
何をするんだよーと子供の顔で鏡の中で睨まれ、髭は嫌いだと言っただろうとすげなく言い放った彼は、己が愛用している香水のボトルを手に取ると慣れた手つきで匂いを身に纏わせる。
「・・・イイ匂い」
「そうか?」
「うん、そう。この匂いがするとお前がいるって安心する」
ただ困ったことにこの香水は世界にただ一つという訳ではない為、すれ違った人や残り香があればお前を目で捜してしまうとひっそりと告げられ、ぞくりと背筋を振るわせた彼は、朝から何をバカな事を言っているんだと照れ隠しに吐き捨て、その横に並んだローズ色の香水を手に取ると恋人のシャツを無言で捲り上げ、腰に軽く吹き付ける。
「うひゃ!」
「今日は遅くなりそうか?」
刑事を生業とするお前に聞くべき言葉では無いかも知れないが、どうだろうかと控え目に問い掛けると、天井を睨むように顎を上げたリオンが唸りながら考え込むが、今のところ俺の予定は大丈夫だと笑みを浮かべる。
「ゲートルートで今年初めてのディナーにしないか?」
「賛成!!」
彼の幼馴染みが経営するレストランだが、付き合い出してから二人で訪れる事が増え、いつしかすっかり通い慣れた店になってしまったが、年が変わってからはまだ行っていない事に気付き、そろそろ二人で顔を出そうと笑った彼に大喜びの顔でリオンが飛び上がる。
「ほら、早く髭を剃れ」
「・・・・・・ちぇ。せっかく話を逸らせたかと思ったのになー」
ブツブツと文句を垂れながら取りだしたシェーバーを片手に鏡に顔を近付けるように身を乗り出したリオンだが、ふと何かに気付いたのか思い立ったのか、不気味な形に目を細めたかと思うと、隣で身嗜みを整えていたウーヴェにシェーバーを突き出して笑みを浮かべる。
「オーヴェ、剃って」
「は?」
「だから。────ん」
子供の顔など一切窺わせない男の貌で笑いながらシェーバーを突き出す恋人に呆気に取られたウーヴェは、ただただ何度か瞬きを繰り返した後、仕方がないと言いたげな顔でそれを受け取り、顎を突き出すリオンを一瞥した後、それでも丁寧な手付きで薄く生えている髭を剃っていく。
「あ、そうだ。リアに伝言頼んで良いか?」
「口を動かすと剃れないだろう?────何だ?」
シェーバーの音に負けない様に少しだけ声量を上げてどうしたと問い掛けると、クリスマス前にちょっとばかり迷惑を掛けたからそのお礼をしたいと伝えてくれと不明瞭に告げられ、苦笑混じりに伝えておこうと頷き己が丁寧な手付きで剃った恋人の頬から顎を撫でて剃り残しが無い事を確認すると、つるりと手触りの良い頬を撫でて満足気に溜息を一つ。
「ダンケ」
これからもお前に髭を剃って貰うと胸を張る恋人に今度こそ呆れ返った顔で今日だけだと言い放ったウーヴェは、己の身嗜みがいつもの様に整った事を確認すると、慌てふためく恋人を待つようにドアに手をかけて振り返る。
「後10分ででるぞ」
「Ja!」
ウーヴェの声にリオンが元気いっぱいに返し、バスルームを飛んででた後、クローゼットに飛び込んでブルゾンとデイパックを片手に出てくる。
その陽気な騒々しさに呆れと感心と恋人らしいとの思いを複雑に混ぜ込んだ笑みを浮かべて見つめていたウーヴェは、プレゼントされた赤系のブロックチェック模様のマフラーを首に引っ掛け、お気に入りのコートを片手に引っ掛けて荷物を持つと、ベッドルームのドアを開けて待っている恋人の元にゆったりと歩いていくのだった。
程なくして二人の上に女王が吹き鳴らすラッパの音色の様に騒々しい時が訪れるのだが、当然この時の二人はそんな予感を微塵も感じることなど出来ないのだった。