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金曜の夜の歓楽街は特に騒がしい。花金では誰しも財布と心の紐が緩む。店先には店名の他に『飲み放題』と書かれた心惹かれる看板が並び、老若問わず吸い込まれるようにして戸を開く。
千鉱はそんな様子を視界の淵に収めながら、廃れたビルの壁際に立って人を待っていた。周りには数人、千鉱と同じように待ち合わせの装いをする若い女たちがいたが、一人、また一人と親子ほど歳の離れた男に連れられて消えていった。
最初にこの場所に来て、壁際に立つ女たちの顔触れが一新するまで約十五分ほど。絶えず現れる女たちを横目にしながら、千鉱は時間を確認するためスマホを起動する。
視線が完全に移動したタイミングで、目の前に男が立ち止まった。喪服のような黒のスーツを身に纏う姿は、品の無い歓楽街とは一線を画している。
「待たせたな」
さして悪びれなく男は言う。千鉱は無表情で男を睨むと、返事をすることなく歩き始める。
その後ろを男が追った。
行き着く先は歩いて五分も経たずに着く。
常連となり、ちゃっかりポイントカードまで作った──ラブホテルである。
ロビーのタッチパネルを操作するのはいつも千鉱だ。最初の頃、男に任せたらあろうことか二十四時間コースを選択され、その晩は酷い目に遭った。それ以来、千鉱は頑として譲らない。
休憩三時間のわりに、部屋は一番高いスイートルーム。どこの部屋でもいい、と言う男への些細な嫌がらせだ。
フロントで鍵を受け取り、エレベーターに乗り込む。途端に腰を抱き始める不埒な腕を叩き落とすが、懲りずにまた抱いてくる。今度は手を抓った。そんなことをしている間に目的のフロアまで着いたので、部屋まで歩く。
鍵を開けて電気を付けると、荷物を下ろすためにベッドルームへと向かう。財布とスマホしか持たない男と違って、千鉱はショルダーバッグを持ち歩いている。ちなみに本革仕様で、裏地に某有名ブランドのロゴが入っている。男からもらったものだ。ネットで調べると値段は二十万を超えていた。売ろうと思ったが、裏地に自身の名前が縫われているのでやめた。普段使いしようにも怪しまれるので、男と出かける時にしか使えない。
荷物を下ろし、上着の黒いパーカーを脱いでハンガーにかけた。すると、待っていたとばかりに男が千鉱の額にキスを落とした。小さなリップ音がわざとらしく鳴らされたそれは、まるで戯れのような軽さだ。子供扱いされることに──子供を手籠にしていると自覚ある素振りをされることに悪寒が走る千鉱だが、すぐに霧散してしまう。
唇に落とされたキスはやがて深くなっていき、口の中に押し入って絡み合う舌は吸って噛まれてと嬲られるばかりでジンジンと感覚が麻痺していく。
「んっ、ふ……う、ぅ、んぐ」
上背のある男に首の角度を上げられて、舌ごと唾液を吸われては唾液が流し込まれる。反射的に飲み込む千鉱を見て、男は満足げに目を細めて「いい子だ」と褒めそやした。すぐにでも男に一発拳を食らわしてやりたいのを千鉱は理性でもって耐えた。体格に勝る男の腕に抱かれて身動きが取れない、という言い訳を心の内で唱える。そう、身動きが取れない、だから動けない、殴ってはいけない、いけない……。
ぴちゃぴちゃと如何わしい水音と、鼻にかかった吐息とが部屋の中に響いている。一体いつまでこんなことをしているのか、と痺れを切らして身動ぐと、抱き締めていた腕が緩んだ。その隙に男を引き剥がしてキスをやめさせる。
つぅ、と伸びた銀糸の涎を手首で拭った。その不快感に千鉱は眉を顰める。
「なんだ、もう我慢できなくなったのか?」
くつくつと男が嗤う。「淫乱になったな」と揶揄する男に、千鉱はとうとう拳を振りかぶった。けれど予期していたのか顔を逸らされ、拳が当たるどころか逆に腕を掴まれて地面に倒される。咄嗟に受け身を取ったが、それでも叩きつけられた腰に衝撃は残っている。そのせいで起き上がるまでに隙が生まれ、千鉱は男にのしかかられてしまった。
「っ……! この、くそやろう……!」
「今日一番の言葉がそれか? 寂しいな、払うものは払ってやるんだから、少しはしおらしく振る舞ったらどうだ」
見下して嗤う男が、自分を見る眼差しが嫌いだった。ひやりと冷たいくせに、永遠に纏わりつくような執念と滲み出る欲望。その目に映る自分が、視界に晒されるごとに穢されていく最悪な感覚。
「今日は準備してきたのか? いや、答えなくていい、風呂場に行こう。俺が確認する。すぐに掻き出してやるからゴムはいらないな」
腕を拘束したまま、男は軽々と千鉱の身を起こして風呂場へと連行する。抵抗しようにも後ろ手に掴まれた手首と腕が痛む。仕方なしに連れられると、服を着たまま乾いた浴室に落とされる。男もまた同じくスーツを着たままだというのに、躊躇いなくシャワーの蛇口に手を伸ばしたので、千鉱は慌てて男に縋る。
「まず先に服を脱がせろ。帰れなくなる」
「泊まりでも俺は構わない」
「俺が嫌だ」
「ハァ……つれないな」
男はため息を吐いて呆れている。だが無理強いするつもりは無いようで、蛇口から手を離した。男の気が変わらないうちに脱衣所に飛び出して服を脱ぐ。
千鉱が全裸になり、浴室へ入る前に男に尋ねる。
「……脱がなくていいのか」
男がまだスーツを着たままで、しかも浴室から出る気配が無い。少しばかりの親切心で千鉱は声をかけた。
「脱がせてくれ」
親切がゴミになって帰ってきた気分だ。男はニヤニヤとほくそ笑みながら、千鉱に脱がされるのを待っている。
ちょっかいをかけてくる手を叩いたり抓ったりと嗜めながら、男の服を脱がした。他人のネクタイを解くのも、もう慣れたものだ。
それからしばらく後。風呂場からはシャワーの水音と、少年特有の少し高いあえかな声が聞こえてきた。
**
千鉱は物心ついた時から父親との二人暮らしだ。
千鉱の父、国重は界隈じゃ有名な刀匠だ。家の敷地には母屋から数歩先に鍛刀場があり、ほとんど毎日煙が上がる。
「千鉱! ゆで卵レンチンしたら爆発した! よく分からんけどごめん!」
普段はこんな調子で生活力に乏しい父であるが、仕事中は打って変わって冷静で、真面目に鋼と向き合っている。
千鉱はそんな父親が大好きだ。たまに仕事を手伝う時の、真剣な顔で鍛錬する姿は毎度のこと惚れ惚れするほどかっこいい。
尊敬する父と、よく遊びにくる父の友人たちと、学校やバイト先の友人たち。千鉱の周りは素敵な人たちに囲まれていて、毎日幸せだった。不満なんてあるはずない。あるはずないのだが、千鉱も十八歳の少年だ。ぬるま湯のように幸福な現状と将来への不安というギャップに精神が揺らぎ、その隙間を埋めるように非行へと手を伸ばした。
スマートフォンが普及した現代。承認欲求を手軽に満たせるSNSに傾倒する若者は多い。千鉱は元々そういった類に興味は無かったのだが、苛まれる不安から逃げるようにアプリをインストールした。それが全ての始まりだったと思う。
連絡先、生年月日などの個人情報を入力すると、千鉱と同年代のユーザーから広く好まれる投稿が表示された。アニメ、漫画、グルメ、娯楽、そして──金稼ぎ。
学生というのは未成年であることや、生活の大半を学業に費やしているおかげで、とにかく金が無い。けれど飽和する欲求を満たすのに必要なのは金だ。金があれば何でも出来るし、金が無ければ何も手に入らないと思い込んでいる人間は多く、若者は特に顕著だろう。
そんな彼らの欲望を満たすため、跋扈するのはいわゆる闇ビジネス。完全に非合法の犯罪行為だが何事にも抜け穴はあり、そのグレーの境目を上手く渡ることで、多くのリターンがでに入る。
とは言え千鉱は元来真面目な子だ。犯罪なんて死んでもやらない。薬の密売とか、詐欺とか。そんなことをやってまで金は欲しくないし、というかそもそも金には困っていない。千鉱はこじんまりとした喫茶店でバイトしており、少ない賃金だが不満は無い。
ここで自分は非行に向かない性格なのだと気付ければ、千鉱の平和な日常が脅かされることは無かっただろう。
しかし、ファザコン故に訪れなかった反抗期の揺れ戻しに当てられた千鉱は踏み止まれなかった。
『十九時に会える人募集します』
ハッシュタグに『p活募集』が付け足されたその投稿を初めて見た時、千鉱は意味が分からなかった。なんとなく気になって調べていくうちに『パパ活』の存在を知った。
女性と男性が金銭的なやり取りをもって行う交際活動。なんでこんな犯罪が取り締まられないんだ、と思ったが、名目上は性的関係を前提としていないので、かなりグレーの境目を辿っているらしい。
こんなの店を介さないだけの単なる風俗だ。金で女と繋がろうとする男も、金欲しさに男を食い物にする女も、クズばかり。千鉱の高潔な精神はそう断じた。
しかし、ふと思い立つ。
相手がクズなら、自分も罪悪感を抱くことは無いんじゃないか?
そこから千鉱のタガは外れた。
『土曜日十九時○○駅前、健全のみ、二時間』
p活募集、m活募集のハッシュタグを添えて、首から上を切り取り服装のみを写した写真と一緒にメッセージを投稿した。
時刻は十九時を少し過ぎた頃。利用者の多い駅前は人通りで溢れている。歓楽街が近いので、そちらの方向に多くの人が流れている。
千鉱は駅前の街路樹を囲む鉄柵にもたれながら、スマホのSNSアプリを見ていた。
タイムラインに自分の投稿が表示された時、ドクドクと嫌なふうに鼓動が跳ねた。ついにやったのだと達成感はあれど、言い訳のしようもなく非行に足を踏み入れた数秒前の自分へ後悔の念が湧いた。
今すぐに投稿を消して家に帰れば全部無かったことに出来る。友達と遊んでくる、だなんて嘘をついてしまったけど、すぐに帰ったって多少怪しまれるだけで終わる。明日からはいつも通りの日常だ。それでいいじゃないか。不満なんて無いくせに、大好きな父さんに反抗する理由も無いのに、こんなことをして一体何になるんだ?
ハッと正気を取り戻した千鉱は、ドクドクと飛び跳ねる鼓動を落ち着かせるために深く息を吐いた。それから暗くなってしまった画面を起動してSNSのアプリを開いた。投稿を消すためだ。
ここ数日、千鉱の思考は毒されてしまったみたいにおかしかった。最近はパパ活が当たり前だとか、友達から勧められて始めただとか、そういう体験談を見ているうちにこれは自然なこと、よくあることと誤認してしまったようだ。十八歳ながら思春期染みた同調意識に思考は乗っ取られ、また相手もクズでどうしようもないのだから何してもいいと傲慢な考えすら浮かんでしまっていた。
自分の最低で醜悪な人間性を目の当たりして千鉱は頭が痛くなる。尊敬する父ならこうはならない、こんなこと考えない。
けれど幸いにも寸でのところで止まれた千鉱は、慣れない手付きでアプリを操作して、投稿を消そうとした。
そんな千鉱の目の前に、黒い人影が現れた。
「これはお前だな」
目の前に突き出されたのはSNSの投稿メッセージ。黒いパーカーと細身の黒いズボンというありきたりな服装のみが写った男の写真が添付されている。
それはつい先ほど投稿した、千鉱のメッセージだった。
ぎょっと慄いて、千鉱は男を凝視した。
まず特徴的なのは両目の周囲に空いたボディピアスと、両耳にひばり結びの垂れ下がったピアス。切れ長の目からは何の感情も悟れないのを置けば色白で清潔感があり、若干皺があるものの非常に整った顔立ちだ。
男は真っ黒な喪服のようなスーツを着ており、美形の風貌と相まって喧騒の人混みから一際浮いている。
一目で堅気でないことが分かった。
「健全のみと書いてあるが、本番はダメなのか? 言い値で払う」
「……い、いや、それは」
「ダメか。じゃあしょうがない、食事でもしよう。何が食べたい? 何処にでも連れて行ってやる」
「え、と……」
まずい、あの投稿を見られた。どうして。まだ投稿してから五分も経ってないはずなのに。
ワード検索で投稿を待っていたのだろうか? それにしたって、上下黒い服の男はそう珍しくない。千鉱がぼうっと突っ立っていた間にも、 三、四人ほど似たような服装の男が通って行った。その中でピンポイントで千鉱を見つけるなんて可能なのか?
「あの、人違いです」
兎にも角にも、千鉱はパパ活だなんて愚かな行為はやめると決めた。シラを切って逃げるしかない。どうせ向こうも深くは追ってこないはず。
しかしその目論見は、立ち去ろうとする千鉱の腕を強く掴んだ男によって否定される。
「嘘をつくな。そこまで言うならスマホを見せてみろ」
「手を離してください。警察を呼びます」
「呼ばれて困るのはお前も同じだろう?」
悔しいがこの男の言う通りだ。図星を突かれ押し黙った千鉱に、男はニヒルな笑みを浮かべながら言う。
「とにかく、食事に行こう。そこで詳しく話そうか……今後の話を」
**
逃げられなかった。
千鉱の目の前にいる、世界一チェーン店のハンバーガーが似合わない男から。
「久々に食べるが美味いな」
「……普段何食べてるんですか」
「普通だ。昨日の夕食は肉と野菜の炒め物だった」
「炒め物……」
「味付けは焼肉のタレ」
「焼肉のタレ……」
毎日高級フレンチか、あるいはプロテインバーのような簡易食を食べていそうな男からは想像つかないワードが飛び出してくる。イメージとのギャップが凄まじい。
「何処にでも連れて行くとは言ったが、こんなところで良かったのか」
駅前の近くにあるハンバーガーチェーン店は、パパ活で利用するには不似合いな場所だ。とにかく千鉱はただあの場所から近ければ正直どこでも良かった。突然のことで頭が働いていなかった、というのも理由の一つだが。
奢ってもらったチーズバーガーはいつもと同じで味が濃く、セットで付いてくるポテトもしょっぱい。糖と脂質で構成された食事は不健康だが満足度は高い。
けれど今の千鉱は食事を楽しめる気分じゃなかった。
「まあいい、これからの話をしよう。今日はこの後、どうだ? ここら辺のホテルはもう空きが無いだろうが、少し車で行ったところなら空いてる」
「……諦めたんじゃなかったんですか」
「お前の気が変わるのを待ってるんだ。だからまあ、まずは世間話でもしようか。歳はいくつだ? 何処に住んでる?」
明け透けに個人情報を聞いてくる男がひたすらに気色悪くて仕方なかった。千鉱の愛想の無い無表情な顔に、嫌悪感という感情が乗る。眉を顰めて男を睨み付けるも、男は愉快そうに笑うだけで効いていない。
「食べ終わったらもうお前とは二度と会わない。金もいらない。食事代は返す」
「そうか、分かった。歳は? 本名は? 何処の学校に通ってる?」
「話聞いてるのか」
欲望まっしぐらな態度はいっそ清々しい。千鉱は早々にこの男に敬語を使うことをやめた。
質問に答えることなく、千鉱は無心で食事をした。目の前の男は、千鉱がハンバーガーにかぶりつく様をじっっと鑑賞しながら、たまにポテトを摘む。なんだコイツ、キモすぎる。
食べ終えた後、千鉱は紙ナプキンで手を拭った。その様子すらも脳裏に焼き付ける勢いで見られるので、とうとう我慢出来ず千鉱は口を開く。
「なんでそんなに見てくる」
「お前を選んだ理由が、ただの性欲ではないと確認するために」
「意味がわからない」
「その顔いいな。興奮する」
「…………」
「無表情も唆る」
無敵か? コイツ……やっぱり『パパ』になろうとする人間って頭おかしいんだな。
千鉱はそう納得して、財布から多めに食事代を抜き取り机に置いた。
「これで貸し借り無しだ」
そう言って千鉱は店を後にする。このまま後を尾けられたら嫌だな、と恐ろしくなり後ろを振り返ると、なんと真後ろに男が立っているではないか。
「なっ、なんでいるんだ……!」
「デートするのかと思って」
「するわけないだろ」
「金はすでに払った。まだ二時間経ってないだろう? その間は俺がお前の“パパ”だ」
「金なんかもらってない」
男が千鉱のパーカーのポケットを指差した。怪訝に思いながら手を突っ込むと、見知らぬ何かが入っている。
取り出すとそれはそこそこ厚みのあるポチ袋だった。中には綺麗に折られた一万円札が五枚。
「いつの間に……! しかもなんだこのポチ袋」
「ち○かわだ」
「パパ活でち○かわのポチ袋なんか使うな。というか金額指定してないだろ、なんで五万も」
「こういうのは高い方が良いと思って。……とにかく、お前は金を受け取ったんだ。対価を払ってもらおうか」
「返す」
「何故そうも頑ななんだ。パパ活募集をかけたのはお前の方だろ」
「それは……」
「金が欲しいんじゃないのか?」
違う、金なんていらない。千鉱は物欲は然程無いし、というか本当は知っている。自分が望めば周りにいる優しい大人たちは何でも買い与えてくれることを。
愛されていることを知っている。大切にされていることを知っている。
それなのにどうしてパパ活なんかやろうと思ったのか。千鉱は大馬鹿者だ、だからこんな気色悪い変態に見つかってしまった。
「金は返すし、身体も売らない。これ以上追って来るなら警察を呼ぶ」
「いいのか? そんなことすれば」
「お前とこれ以上関わるよりマシだ」
きっと父も父の友人たちも破茶滅茶に怒るだろうが、それも仕方のないことだ。悪いことをしたら叱られるのは当然だ、千鉱はまだ十八歳の子供なのだから。
帰ったら全部打ち明けて父に謝ろう。あなたが胸を張れる息子になれるように、もう二度とこんな馬鹿なことはしない。絶対に。
酷く後悔した千鉱の健気な決意は、しかし、男の言葉によって揺らいでしまった。
「お前の父親はどう思うかな」
びくり、千鉱の肩が震える。
「いや、あの男は随分と息子を可愛がっているようだから大した問題にはならないか。だが周りはそう思わない」
「な、んで、どういう意味だ……!」
「六平国重の名前に傷が付けば、あの男が打った刀の価値も下がるかもしれない」
頭の中が真っ白になった。
今、この男は何と言った?
どうして父の名前を知っている? 父の素性も、彼が唯一の家族を大切に大切に思っていることも。
「六平国重は素晴らしい刀匠だ。彼が打つ刀は正宗賞を受賞しても不思議じゃない。若い頃に色々あったせいで見送られていたが、最近の刀匠会は彼を無監査刀匠に推し進めようとする動きがある。それを息子のお前が原因で無かったことになれば……今度こそ六平酩の刀は値が付かなくなるかもしれないな」
六平国重の名が界隈に知れ渡ったのは、彼が二十歳の時。その年の現代刀職展に初出展ながら、審査員の満場一致により特賞を飾った。その若さもさることながら、前代未聞となる満場一致という審査結果は、天才刀匠・六平国重の名を轟かせた。
しかし、今から十年前。とある記念パーティに参加した国重は、同じくパーティの参加者と乱闘騒ぎを起こし、刀匠会より厳重注意を食らった。その影響か国重は一時期固定客が離れ、生活苦に陥った。せっかく打った刀も買取手が現れず、苦肉の策として国重は自身の最高傑作であった『妖刀』シリーズを売却する羽目になった。
この『妖刀』シリーズは千鉱が生まれる前から作成され、合わせて六振もの刀が存在する。国重はこれらを文字通り心血を注いで作刀し、『自分が死んだら全部溶かしてくれ』と言い含めるほど執着があるようで、絶対に売らないと地下の保管庫に仕舞い込んでいた。
けれども父と子の二人暮らし、頼る身内も他に無いとなれば、手段は選んでいられなかった。
国重が『妖刀』シリーズを全て売却したおかげで、最低限の生活費どころか十年遊んで暮らせるほどの大金となって返ってきた。彼の心境は複雑だっただろう。国重は友人らの助言もありしばらく休職し、憔悴した心身の回復に努めた。ほとんど毎日鍛錬の金音が響いている工房もあの頃はひっそりと鎮まり、神棚の世話以外に国重が足を踏み入れることはなかった。いつも騒がしくおちゃらけている父が沈んだ顔色でため息ばかり吐いている姿を見るのは痛ましかった。
天才の称号をほしいままにしている父が、心から刀鍛冶に魅せられていることを幼かった千鉱ですら理解していた。だからこそあんなにも真面目に、真剣に刀と向き合っている。
父は三年前に復職し、再び刀匠として刀を作っている。時折ぼんやりと虚を眺めていた父も今は表情がずっと穏やかになった。千鉱はそれが嬉しく、だからこそ恐ろしい。
また、あの父に戻ってしまうのだろうか。
自分のせいで。
想像するだけで身体を引き裂かれるような罪悪感に襲われる。
「……さて、もう一度聞くが」
震える千鉱の肩を、男がいやな手付きで撫でた。
ぞわりと鳥肌が立つ。
「この後はどうする? ホテルに行くか?」
こちらに選択権を与えるような口振りで、けれど求める答え以外を許さない。
狡猾に、脅迫的に、千鉱の身体は男に買われた。
**
タクシーを拾い、駅から少し離れたところの歓楽街へ向かった。
車から降りると、男は逃さないとばかりに千鉱の手を引いて確かな足取りで歩き始める。年齢差のある男二人が手を繋いでいる様は人目を引くようで、ちらちらと感じる視線が鬱陶しかった。何度もこの手を振り払ってやりたくなるのに、男の言葉が頭から離れない。
やがて二人は目的地へと着いた。綺麗な外観だが安っぽいハリボテのような装飾のビル──正確にはラブホテルだ。
怖気付く暇も与えられず、男に連れられるまま入ったロビーは無人だった。フロントのカウンターは誰もおらず、横にあるタッチパネルの大きな液晶には客室のプレビューがスライドショーで流れている。
「こういうところは初めてか?」
男の言葉に千鉱は頷いた。すると男がパネルに指を滑らせて操作し始める。慣れた手付きで流れるように部屋とコースを選び、出てきたレシートを取るとフロントのベルを鳴らした。
……十時間コースと書いてあったが泊まる気か? 脅威の両目視力三.〇と優れた動体視力を誇る千鉱の目はしっかりと捉えていたが、その意味するところはよく分からなかった。ラブホどころか、ホテル自体初めてだ。
奥の扉からスタッフが現れ、男が出したレシートを確認する。スタッフは男同士の客にも動じずルームキーを渡すと、「ごゆっくりどうぞ」とだけ言ってスタッフルームへ戻って行った。随分とあっさりした対応を不審がる千鉱に構わず、男は再び千鉱の手を引いてエレベーターに乗り込む。
すると、人目が無くなった途端、男が千鉱の腰を抱いた。突如として近付いた距離は抵抗する暇もなく、男は千鉱の耳元で囁いた。
「そんなに緊張するな」
「離れろ……っ!」
振り解こうと踠いても、男の力は強く離れられないのがもどかしい。
エレベーターはすぐに目的の階層に着いた。重い鉄扉が開いた瞬間、これまでよりもずっと鼓動が早く跳ねた。腰に回された手に急かされ、薄暗い廊下を歩く。一歩、一歩と部屋が近付くたび、これは取り返しのつかないことだと改めて身にしみていく。
バクバクと心臓が耳の近くで鳴っていると錯覚するほど、鼓動が強く震えている。
部屋の前に止まると、男が鍵を開けた。
扉が開く。真っ暗な室内は自分の心境を表しているかのよう。闇に隠された底の悍ましさを知っているのに踏み入らなければならない。
千鉱の腰に手を回していた男だが、何の気まぐれか手を離して、先に部屋へ入った。扉の前で立ち竦む千鉱へ振り返り、手を差し伸べた。
「おいで、千鉱」
教えた覚えのない自身の名を呼ばれる。
この男は待っている。千鉱が自分の意思でその手を取る瞬間を。
「……お前は、最悪な人間だ」
その悪趣味さを千鉱は真っ向から否定する。
「じゃあ、今日はこのまま帰って父親に泣きつくか?」
男は言う。数時間前、千鉱も同じことを考えていた。この男が台無しにしなければそうなっていた。
千鉱は苦悶の表情を浮かべながらも、おそるおそる男の手に自らの手を重ねた。
瞬間、勢いよく手を引かれる。黒スーツの男によって暗闇へ引き摺り込まれた。
乱暴に、唇に柔らかなものが合わさる。
「んっ、ふ、うっ」
それが男の唇だと理解した頃、背後の扉がゆっくりと閉まった。
強引なファーストキスは、唇を触れ合わせるものからすぐに深く、舌を絡め合うキスになった。唇を突く舌をやめさせようと口を開いた途端、入り込んできた舌が口内を蹂躙する。上顎をなぞり、追い出そうとする千鉱の舌を擦り合わせ、堪えきれない唾液が端からとろとろと流れ落ちる。
「ふ、ぅ、はぁ……ッ、それ、やめ、ろ」
「……何が嫌なんだ」
「舌、いれるな」
「分かった。入れないから舌を出せ」
男の言うことなど少しも信じられなかったが、微かな希望に千鉱は縋った。べ、と控えめに舌を出すと、男はやわく噛み付いてきた。自身の口内に迎え入れたそれを、男はまるで食べてしまうかのように噛み付いて吸い付いて、入れているのは千鉱なのに男と違ってちっとも優位は取れやしない。
ぺちゃぺちゃと聞くに堪えない水音と吐息が混じっている。呼吸はもう随分前から浅いままで、千鉱はまるで溺れているかのような錯覚にあった。
満足したのか、男はようやく千鉱の舌を解放した。千鉱は足りない酸素を取り込むために深く息をする。
「本当に初心なんだな」
暗闇の中で男が笑ったように見えた。
「先に風呂に入ろう。洗ってやる」
部屋の電気をつけた男は、そのまま千鉱の腕を掴んでシャワールームへ向かった。脱衣所に入った途端、男が千鉱の服を脱がそうとしてきたので、咄嗟に男の手を掴んで千鉱は叫んだ。
「風呂くらい自分で入れる!」
「後ろの洗い方を知ってるのか?」
「……は? うしろって……」
ズボン越しに、男が千鉱の尻を撫でた。ぞわぞわと悪寒が走り、思わず飛び退いた。けれどおかげで男の言わんとしていることが伝わり、千鉱は苦渋を堪える表情を浮かべて「自分で調べる」と言った。その言葉の意味するところは、『自分でやるからさっさと出ていけ』ということだ。
男はやれやれと困ったような顔をしたが脱衣所を出て行ってくれることはなく、なおも千鉱の服へ手を伸ばした。
「“本番”の相場は五万からだが……言い値を出してやる。だから、全部俺にやらせてくれ」
「……百万でも払うのか」
「もちろん。だが安くない金額だ、俺が何をしても文句言うなよ」
「嫌だ」
「はは」
笑う男に譲歩の意思がないことを察した千鉱は、顔を顰めて逡巡した後、覚悟を固めた。
「二十万。現金で、今すぐ払うなら全部やらせてやる。……無理なら帰る」
無理難題をふっかけたのは、千鉱の最後の足掻きだった。男が金を持っていそうなのは風貌からも、先程の問答からも察した。だが二十万なんて大金を常に財布に入れている人間なんていない。
しかし、そんな千鉱の足掻きも暗闇の似合う男の前では通じない。
「いいのか、これだけで」
上着のポケットから黒い革財布を取り出すと、惜しみなく札束を抜き取る。折りたたみの財布に入っていたから真ん中に緩く折り目は付いているものの、まだ硬さのある真新しい紙幣。
差し出されたそれは紛れもなく大金であるというのに、千鉱の心はちっとも踊らなかった。
これを受け取れば、自分は不気味で卑劣な男に抱かれることになる。けれどこれを受け取れば、最愛の父を守れるかもしれない。
こんな男の言うことに信憑性が無いことは分かっている。けれど、万に一つも可能性があるなら、千鉱は無謀になりきれない。
黙って金を受け取ると、千鉱はそれを無造作にパーカーのポケットに入れた。
それからパーカーを脱ぐと、脱衣所に備え付けのカゴに入れる。そのまま服を脱ごうとするが……それは男の手が制した。
服に手をかけて、男は千鉱を脱がしていく。抵抗はしなかった。契約は成立している。自分よりも大きな手のひらは冷たくて不快だった。
「脱がせてくれ」
男が言う。千鉱の学校の制服は学ランで、日頃スーツを着るような用事は無かったが、ネクタイの解き方は父のおかげで知っていた。たまにスーツを着て外出する父は、酒の匂いを振り撒きながら夜遅くに帰ってくる。友人の肩を借りて帰ってくる父を出迎えて、ネクタイを解き上から三つまでシャツのボタンを外すのはいつも千鉱だ。
「……手慣れてるな。誰から教わった?」
「誰でもいいだろ」
「良くない。教えてくれ、いつもどこの男を脱がせてる?」
底知れぬ冷めた瞳に怒りが見えた気がした。
怒りたいのはこっちの方だ。
「金で買った相手に何を求めてるんだ」
千鉱が睨め付けると、男はその減らず口を塞ぐようにキスをした。
「お前の全部が欲しい」
熱い口説き文句だ。愛の言葉を模ったそれを、千鉱は冷めた気持ちで受け取った。
風呂場で文字通り隅から隅まで洗われてから、ずっと地獄のような苦痛が続いている。
ありとあらゆる汚れを洗い流し、濡れた身体を拭いて裸のままベッドに転がされた後もそれは続く。
「ぐ……っ、いっ、いた、痛い! やめろ……!」
「脚の関節が硬いだけだ。中は切れてない」
「そん、っなの、わからないだろ、一回とま、っひ、あ゛っ……一回、抜け……っ!」
正常位の体勢でぐっと足を開かされた後、尻に過剰なほど潤滑油を塗りたくられ、後孔に男の指が挿入された。まるで内臓を撫でられているかのような不快感のせいで、千鉱の決意が揺らぐのにそう時間はいらなかった。
やっぱり、帰れば良かった。こんな男の言うことなんて無視すれば良かった。あの言葉が真実だとしても、この責め苦に比べればいくらかマシだったのかもしれない。
「うぐっ……! いや、もういやだ、やめろ、やだ」
「落ち着け、大丈夫だから」
「全然大丈夫じゃない!」
「はは、可愛いな」
千鉱の目尻に溜まった涙を指で拭いながら、男は楽しそうに笑う。
ぞっと寒気がはしる。自分はこんなにも苦しんでいるのに、この男の目にどう映っている? まさか喜んでいるなどと勘違いされていないだろうか。千鉱は男を睨み付けながら、再三繰り返した。
「いいからさっさと抜け下手くそ!」
強い語気で言い放つと、男の動きがピタリと止まる。すると、何やら申し訳なさそうに眉を下げて、「すまなかった」と謝ってきた。
「そんなに嫌だとは思わなかった……」
「何度も言ってるだろ! 早く抜け」
男の指がずるりと抜けていく。圧迫感が無くなり、安堵した千鉱は息を整えた。
指を一本入れただけでこのザマだ。男同士のセックスなんて現実的じゃない。そもそも尻の穴に何か入れようと考える奴の気が知れない。
このまま諦めてくれればいいのに。深くため息を吐いた千鉱は、どこか所在無さげにこちらを見つめる男へ視線を合わせる。すると、千鉱の視線に気付いた男が口を開く。
「そんな顔してもやめないからな。全部やらせてくれるんだろう?」
二十万という大金の対価に差し出された千鉱の貞操。果たしてそれだけの価値があるかは甚だ疑問だが、何にせよ今夜のことを口外しないという約束までしたのだから、男としては何としても最後までやり遂げたいのだろう。他にどんな意図があるにしろ、未成年相手にそこまで執着が湧くのは悍ましい。性欲とはここまで人を愚かにさせるのか。愛する父のためでなければすぐにでも警察に突き出してやるのに。
心の内でひたすらに男を扱き下ろし、やや冷静になった千鉱は、腕で顔を隠しながら、閉じていた脚を開いた。言葉にはしなかったが遊び慣れた男には十分だったようで、再び男の指が千鉱の中を侵す。
「ぅ……ぁっ、ふ、ぅぅ……ッ」
「上手だ。深く呼吸して」
腕で視界を遮っているのでよく分からなかったが、ぞっとするほど優しい声色だった。先程から垣間見せる、場所と行動に見合わぬ張りぼての善性は、この男の不気味さを色濃くした。
千鉱の呼吸に合わせて、指がゆっくりと出たり入ったりを繰り返す。時間をかければ慣れるもので、体感数分後には不快感は無くなった。
「もう一本増やすぞ」
虫の息にも似た痛苦な呼吸が消えたのを見計らって、男が二本目の指を挿れる。再び圧迫感に襲われるが、何度か荒く呼吸をするうちに慣れた。
ゆっくりと、粘膜の壁を探るように広げるように動く指の感覚を追う余裕すら出てきた頃。
「んっ、あっ♡!」
ある一点を押された時、反射的に溢れた声。自分の喉から出てきたとは思えないその音は、確かに快楽に浸ったあえかな声だった。
信じられない。どうして。冷や汗がつっと流れる。羞恥で顔を赤くする千鉱に、男は至極楽しそうに言う。
「ここが良いみたいだな?」
「ひ……っ♡ ち、が……ぅっ♡!」
「なんだ、存外才能があるじゃないか。時間がかかるかと思ったが……」
指の動きが早くなる。にゅぷ、と潤滑油が抜けていく水音が聞こえて、千鉱は死にたくなった。それでも男の指がしこりを擦るたびに下腹の奥から強烈な快感が立ち昇ってくる。
「うぁ゛ッッ♡♡!! っ、ぅ゛〜〜……っっ♡♡!!」
声が漏れ出るのを防ぐため、咄嗟に視界を防いでいた腕を下ろし、口を手で覆った。
「聴かせて欲しいんだがな」
男は苦笑するが、あえかな声を聞かせまいとするいじらしい姿は欲を誘う。男は中をぐっと指で押し込むのと同時に、刺激で緩く勃ち上がる陰茎を扱いた。
「ぅ〜〜〜っっっ♡♡!?」
「同時にされると気持ちがいいだろう?」
「んぅッ♡♡、うぅ゛……ッッ♡♡!!」
「もうそろそろか」
気持ちいい、気持ちいい! 高まった快感が絶頂に達しようと言う時、男は陰茎からパッと手を離した。昂る寸前だというのに射精感が遠のく。まだ中の刺激だけではイけない千鉱に、じわじわと炙るような快感だけが与えられるまま。
こんなんじゃ生殺しだ。男を睨むが、男はニヤニヤと笑うだけでそれ以上触れようとしなかった。
「ゆくゆくは使えなくしたいんだ。潮と尿しか出せなくなれば警戒対象も少なくなる」
その言葉の意味を理解する前に、男の指が増えた。三本目は流石に圧迫感と不快感が蘇ったが、それでも前立腺を擦られると快感が昇って、不快感から逃れるためにそれを追うとやがて快楽だけが残った。潤滑油が足され、更に水音が鳴る。バラバラに動く指がぞわぞわとした快感を生んで背筋を伝う。
「ふ〜〜っ゛♡、ぅ〜〜〜〜ッッ♡♡♡!!」
気持ちいいのに決定的なものが足りない。燻り続ける快感は苦痛だ。もういらない、逃れたい。声は聞かせたくないのに完全に封じ込めることは出来ず、脚を閉じることも出来ない。中を侵す手と反対の手は千鉱の右脚を掴み、動きを封じている。
もう嫌だ、苦しい、助けて父さん。ごめんなさい、許して。本当にただの出来心だった。いつもだったらこんなことしない。ただ不安だっただけ。いつか父のような刀匠になりたいという無垢な夢を、父が肯定してくれなくなった時から、千鉱はずっと不安なままだった。
「一度抜くぞ」
後悔と懺悔でぐちゃぐちゃだった頭の中に、男の声が入る。
宣言通り、ずる、と指が抜けた。抜く時もしこりを引っ掛けるのを忘れない、不埒な指だった。
ぶぴゅ、と水音と空気の抜ける音がして、怪訝になってその音を探した。見れば、千鉱の脚の間で男が自身の陰茎に潤滑油を塗りたくっていた。形も色も大きさも千鉱のものとは違う。特筆すべきは何よりもその大きさで、これが尻の穴に入るとは到底思えなかった。それでも男は挿れようとしていて、穴に陰茎をピタ、と這わせてくる。
「む、むりだ……」
こんなの挿れたら死ぬ!
「絶対挿入らない……」
「大丈夫」
「いや無理だろ、無理、大きすぎる、絶対無理、死ぬ、裂けて死ぬ……!」
「死なないから。落ち着け」
「落ち着いてられるか!」
普段より重く感じる身体を無理矢理動かして、ベッドから降りようとする千鉱を、男が腕を掴んで止めた。ベッドから逃げることは出来なかったが、膝を抱えて防御姿勢を取る千鉱に、男は今度こそ心から呆れたような表情を浮かべた。
「千鉱……」
「それ」
「ん?」
「名前、なんで知ってる。教えてないだろ」
「そうだったか?」
「とぼけるな」
「はは……まあ、大したことじゃない。お前にとってはな。だから気にするな」
そう言うと男は、千鉱を自分の元へと引き寄せた。膝を抱える千鉱を安心させるかのように抱きしめて、額に唇を落とす。次に頬、唇とキスをしようとして、けれど唇に落ちる前に千鉱がフイと顔を逸らす。素っ気なくされても尚、男は自らの腕の中にいる少年を見て酷く満足げにしている。呆れたり笑ったりと、意外にも感情豊かな男に千鉱はたじろいだ。
離れようとする素振りを見せた途端、男は千鉱の太腿に立派に勃ち上がった陰茎を擦り、耳元で囁く。
「これ以上抵抗するとどうなるか分かるな?」
遠回しに脅しをかけられ、びくりと身体が震える。口角は上がっていても、男の目は笑っていない。怒りとは違うだろうが、けれどこれ以上逆らっても良いことはなさそうだ。
逃げられないことはとっくに分かっている。
千鉱は嫌々ながら男にキスをした。作法など分からないので触れ合わせるだけのキスだったが、それが精一杯のおべっかだ。
ちら、と男の顔色を窺う。千鉱の突然の行動に、そう悪い気はしていないようだ。剣呑な雰囲気が霧散したのを見て、更に男の薄い唇に吸い付いた。幼子に似たそれは無知な生娘の媚びへつらいそのもので、千鉱の経験の少なさが窺い知れる。
ちゅ、ちゅ、と可愛らしいキスをするも、男の反応は鈍い。ただされるがままになっている……と見せかけて、千鉱が誘うのを待っている。
だが言葉になど死んでもしたくない千鉱は、男の首に腕を回し、まるで子供が甘えるようにぴとりと抱き付いた。
男の生温い温度はやがて千鉱の高い体温と溶け合って、同じ温度になる。これはある種、男にとって理想的なものであった。
だが妥協によって為された接触は拙く、また子供の愛らしい傲慢さを残していた。
「これだけか?」
欲に塗れた男を前に児戯の延長線の触れ合いは、悪くはないが満足とは程遠い。
「子供じゃないんだ。ちゃんと口にしないと」
男は千鉱の胸をするすると撫でた。少年の瑞々しい肌と老いが始まった自身との差は顕著だ。
どうしようもない年齢差に嘆くのはとうの昔にやめた。今はただ、この好機を最大限利用するだけ。
「幽」
男が告げる言葉に、千鉱は怪訝となり顔を上げた。
「俺の名前だ」
千鉱の頬に手を添えて、目元をなぞる。無い傷を悼むかのような慎重な仕草はどうも擽ったい。
男──幽が顔を寄せてキスをする。先程の千鉱と同じように触れるだけだったが、啄むような軽いものではなく、わざとらしいリップ音すら聞こえるほど深く長い。
「名前を呼んでくれ」
千鉱を脅し、ホテルに連れ込んだ暗闇の似合う男が健気に乞うている。それを無視できるほど千鉱は鬼になれず、加えて裸に剥かれたせいか警戒心も揺らいでいた。
「……幽」
おずおずと躊躇いながら呼ぶと、あっという間にベッドに押し倒された。
上にのしかかられる体勢に戻り、うっと不安が押し寄せる。
「思っていたよりクるな」
酷く嗜虐的な笑みを浮かべながら、幽が千鉱を見下ろす。その声色は僅かに高揚が染み出していて興奮を隠せない様子だった。
脚を開かされ、再び幽の反り勃った陰茎が這わされる。ああ、今度こそ挿れるのだと察した千鉱は、現実から目を逸らすためにぎゅっと目を閉じた。
早く終わればいい。この苦痛が過ぎ去ることをひたすら祈った。
──けれど現実は無情だ。
ピリリリリリ。互いの息遣いしか聞こえなかった室内に、スマホの着信音が鳴った。
聞き覚えのあるそれは千鉱の端末に設定してある着信音だ。マナーモードにするのを忘れていたらしい。あまりにもなタイミングに千鉱の心臓が震えた。
すると、何を思ったか幽がベッドから降りて、音の鳴る方へ足を向ける。二人掛けのソファに無造作に置かれたショルダーバッグを、持ち主の許可無く探り音の発信源を取り出すと、状況を掴めていない千鉱へスマホを見せた。
「お前の父が心配しているようだな」
画面には父の名前が表示されている。そういえば、今日は友人と遊ぶと言って家を出た。遅くなる前に帰るつもりだったが、すでに二十二時を回っている。きっと心配で電話をかけたのだ。
プツリ、着信音が切れる。時間切れで不在着信になってしまった。
「早く返せ……メールするから」
連絡を返さなければ父は怪訝に思うだろう。大事にはなりたくないし、何より初対面の男と金をもらってセックスするなんて知られたくない。その理由が父にあることも。
千鉱はスマホを取り返そうと手を伸ばすが、予想に反して空を切った。
「おい……!」
「助けを呼ばれると困る」
「そんなこと……っ、今更するわけない……!」
その選択肢を奪ったのはお前だと殴り飛ばしてやりたかった。千鉱は幽を睨み付けたが、スマホを返してくれる様子は無い。
早くしないと大事になる。きっと父のことだから、警察より先に自分の友人たちに助けを求めるだろう。千鉱がそれこそ物心着く前から良くしてくれる父の友人たちは、必死で千鉱を探してくれるに違いない。
でもそんなことをされるくらいなら嘘を重ねた方がマシだ。
「助けは呼ばない。そんなに心配なら目の前で電話してやる。だから早く返せ」
「……そうだな。ここで電話してもらおう」
幽は少し考える素振りを見せた後、スマホを千鉱に返した。ホッと安堵しつつ、この男に父と会話している姿を見られるのはなんだか嫌だった。
とは言え、これ以上贅沢は言っていられない。千鉱はアプリを開く──すると突如、手からスマホが奪われる。
「なっ……なにする……!?」
あまりにも唐突な出来事に混乱していると、その隙をついて幽が千鉱を押し倒した。そして千鉱の頭の横にスマホを置くと、画面をタップしてスピーカーにした。
『……もしもしチヒロ? 全然帰ってこないけどどうした? なんか事故でもあったか?』
──父の声だ。数時間ぶりに聞いた、電話越しの声。
何か答えないと。ちゃんと言わなきゃ。早く、怪しまれる前に。
どくどく、ばくばく。鼓動は痛いほど震えていた。
冷や汗がどっと流れる。
「あ、ご、ごめん、連絡、遅くなって……」
『いいっていいって。それよりどした? ハクリくんと遊びに行くんだったよな? 電車遅延とかなら父さん迎えに行くぞ、軽トラで』
「い、いや……っ!?」
千鉱が震えを誤魔化しながら必死に話す最中、幽が千鉱の脚を上げた。ギシ、とベッドが軋む音がして、千鉱の緊張は最高潮に達する。
いやだ、やめて。こんな、すぐにでもバレてしまいそうな距離で何を考えてるんだ。
「っ……!!」
『……ん? 誰かいるのか?』
「いない! なんでもない、ごめん……」
穴に硬いものが当てられる。中に入ろうとしているものが何かなんて見えなくても分かる。千鉱は幽の肩を手で押し退けようとするが、あまり動きすぎるとバレてしまう。そう思ったら力も入らなくて、ろくに抵抗できやしない。
『そんでどうするよチヒロ。迎えに行こうか?』
「え、ど、どこに」
『うーん、とりあえず最寄りの駅来れるか? てかどこで遊んでんだ? 近いとこならそこでもいいけど』
「い、いや、あのさ、ぁっ…………♡!!」
膨らんだ亀頭がぐぷぐぷ♡、とゆっくり呑み込まれていく。音を立てないよう気をつけているのか、それとも千鉱を慮ってかは分からないが、慎重に奥へ奥へ進んでいく。
こんなの嘘だ。父さんと電話してるのに、父さんの声がするのに──愛する父のそばで、千鉱は男に蹂躙されてる。
圧迫感と、快感と、これまで抱いたことのない怒りと憎しみ。色々なものがぐちゃぐちゃに混ざって頭の中が混乱する。
「父さん、あの、さ、むかえ、いらない……っ、から……〜〜〜っっ♡!!」
『えっ、そうなのか?』
「うん、うん……っ! とまるから、迎え、いらない……っぅ゛♡!」
亀頭が中のしこりを掠めると声が出そうになる。口元を手で覆って必死に声を抑えるが、それでも電話をしなきゃいけない以上、いつまで我慢できるだろうか。
千鉱の懸命な努力を無視するかのように、幽は更に奥へと押し込んでいく。キツく締め付けてくる腸壁は僅かに痛みを齎したが、それは幽が今まさに奪っている純潔の証そのものだ。
父親と電話をさせながら処女を穢している。
本当は今すぐにでも思い切り突き上げてあられもない声を聞かせてやりたい。
今、自分はそれができる状況にあるのだ。
『ハクリくんの家泊まるのか?』
「うん、そう……ハクリのとこ、泊まる……っ」
『……チヒロ、さっきからたまに声おかしくなるけど、本当に大丈夫か?』
「大丈夫だよ、本当に……ぃ゛っ♡♡♡!?」
めいっぱい奥まで進んだ剛直がずるずると浅いところまで抜かれ、再び奥へと侵入される。幹のように太く硬い肉棒がピストンしているだけの、到底快楽に結び付くとは思えない行為なのに、千鉱の身体はまるで作り変えられたみたいに快感を拾った。
奥まで入りこんだ亀頭がぐりぐりと奥を捏ねる。シーツに縋る手をきつく握り、荒く息を吐いてやり過ごそうとするが、電話越しの父を思うと会話が途切れるのは変だ。
「もしかしたら電波悪いっ、の、かも……っ♡、ハクリの家だからっぁ゛……っ♡!」
『へーそうなのか。父さんスマホとかよくわかんないからなぁ。あ、そういや今度柴が仕事用にタブレット? くれるって言ってたんだけど、Wi-Fiってのに繋げないとネット使えないんだってよ。だから次の休みに買いに行こうと思うんだけど、一緒に行くか?』
「う、ん……ぃ、いく、いぐっぅ゛!!♡♡♡」
『おー、じゃあ昼飯どっか食いに行こう。何がいい?』
「っ゛〜〜〜〜♡♡!! ……っどこでも、いいよ……っ!♡、父さんの、すきなとこ、で、いいからぁっっ゛♡♡!」
とちゅっ♡、とちゅっ♡! 一定の間隔で突き上げられ、千鉱はもう我慢の限界が近い。
やばい、気持ちいい、奥突かないで、やだ。
拒絶したいのに何も言えない、力も入らない。せめてもの抵抗で幽を睨むが、奴はただ愉快そうに笑っているだけ。興奮してる。なんて悍ましい、化け物だ。
あ、あっあっ、だめ、やめろ、もう奥のところ擦らないで。電話切らなきゃ。じゃないと聞かれる。
父さんに、声が。
「もうっ゛♡、もう切る、電話……ッッ♡♡!!」
『ん? そっか分かった。家の人によろしくな! 迷惑かけちゃダメだぞ〜』
「ぅ゛んっ、うんっ♡♡! あ、ありがと、ぉ゛ッッ♡♡♡!!! 〜〜〜ぃ゛ぐぅっ♡♡♡!!」
頭の中で電流がパチパチと弾けたと錯覚するほどの衝撃。無意識に背中が弓形に反れて、下腹から背筋を駆け上がる快楽の絶頂。自分の陰茎からは蛇口を捻ったみたいに精液が漏れており、湿った感覚が少し気持ち悪かった。
足先をぎゅっと丸めて痺れに似た下肢の快感をやり過ごす。
「ぁっ……♡♡、ふっ……♡、ふっ、ぅ♡♡」
射精し切った後も余韻に身体中が溺れていて、無意識に腰がカクカクと揺れる。
「ははっ」
少年の痴態に、男が笑う。嗤っている。
自分が穢した少年を見下ろす。
「たまらないな」
ああ、このまま馬鹿みたいに腰を振って種付けてやりたい。頑固に閉じている奥の行き止まりまで全部挿れて、それこそ孕ませるみたいに精液を擦り付けてやればどれだけ気持ち良いだろう。想像するだけで射精してしまいそうだ。
衝動に身を任せるが如く、幽は再び腰を突き上げた。激しさを増したピストンは肌が打ちつけ合う音を部屋中に響かせ、聴覚的にも興奮を齎した。
「少し乱暴にするが、許せよ」
「っあ゛ッッ♡♡!? も、やだ、あっ♡、おわりだから、もう……っ♡、抜けよ……ォ゛ッ♡♡!」
「まだ俺はイってない」
「お゛ぉ゛ッッ♡♡!! 奥、グリグリすんのッ、ぉぉ゛〜〜ッッ♡♡、やべ、ろぉッッ♡♡! やっ、あぁっっ〜〜〜♡♡♡!!」
ごちゅッッ♡、ごちゅッッ!♡、と奥を蹂躙する水音さえ聞こえてくるピストンは、つい先程まで処女だった生娘には過分な快楽だった。
ついさっき射精し、萎えたはずの千鉱の陰茎がもたげ始め、それが生理的な反応だと知りつつも、身体が快楽を求めていることに愕然とする。
「あっあっ♡♡! なんでっ♡♡、ぅ゛っ〜……ッッ♡♡!! ふぅ゛、ッ♡!! そこッ、おォ゛ッ〜……っっ♡♡!! ィぐっ、やだぁ゛♡、ぅ〜〜〜ッ♡♡!!」
千鉱の前立腺を擦りながら奥を突く幽は、嫌嫌と嘆く嬌声が愛らしいとばかりに腰を止めることはなかった。というか、出来ない。
快感を得ているのは千鉱だけではない。幽もまた、蹂躙に慣れ始めた腸膣の締まりによって欲が高まってきている。
「ひッ、ふぐぅ〜〜〜っ♡! んゥ゛ッッ!! なん、きゅ、にぃ゛っ♡♡! はげしッい゛〜〜……ッッ♡♡! ゃあ゛っ゛♡♡! とまっ、て……っ〜〜♡♡! あ゛ぁッッ〜〜〜♡♡!!!」
「っ、は、このまま……ッ」
「あ゛っん゛♡♡! あ゛っ、ぁ゛ぁっ〜〜ァ゛♡♡♡! や、ぬぃッ♡♡、ぬけよ、お゛ォっ゛〜〜♡♡!! ぉ゛ぐぅッ♡♡♡!! こわ、れるぅッ♡!! ごわれるッ♡♡!」
激しくなった抽挿に、幽もまた限界が近いのだと千鉱は悟る。一切抜く気配が無い腰の動きは大きな快楽を齎し、出し切ったはずの陰茎からとぷ、と先走りが溢れる。本来の用途を果たすことのない哀れな性器は、最早千鉱の快感の度合いを表す指標となっているだけで、千鉱の中を犯す陰茎とは比べるまでもなく違う。
千鉱は生まれて十八年の間、恋人などいなかったし、欲しいとも思わなかった。女性経験なんてもちろん無いし、愛想の無い表情と同じで欲にも淡白だった。けれど男に犯され飾りとなっている陰茎に何も思わないほど、男の自覚が無いわけではない。
悔しい、憎い、死ねばいい。
だけど、どうしようもなく気持ちいい。
雌にされて、よがって、あえかな声をあげて、このままイきたい。
「千鉱……」
「んぅ゛うッ♡!? ふぅ゛〜〜っ♡♡、う゛ぅっ〜〜ッッ゛……♡♡♡!! んちゅ、ふっ♡♡、ぅ゛ふッ〜〜〜……♡♡♡!」
嬌声すら飲み込まれるほどの深いキスは息苦しかったが、比例して快感が更に強まっていく。後孔だけでなく口腔をも犯され、上と下とで絡み合い快楽は絶頂へ達した。
「ふぅ゛ッッ〜〜〜〜……っ♡♡♡!!! ん、ふう゛♡♡、ッッ〜〜〜……♡♡!!」
熱い飛沫は一滴も余すことなく注がれ続け、びゅうびゅうと音すら聞こえてきそうなほど長かった。中出しの最中にも深まるキスは頭を痺れさせ、千鉱は無我夢中で幽と舌を絡ませ合った。
先走りを溢れさせる千鉱の陰茎を幽がこちゅこちゅと扱くと、すぐに薄くなった精液が出た。出した後もやんわり扱かれたが、射精させるというより快感を与え続けようというその手付きに千鉱は強請るように腰を揺らした。
「ふっ、ぅ、んぅ……♡♡」
もっと、もっとして。
蕩け切った顔で千鉱は幽の首に腕を回し、積極的にキスと快楽に溺れる。今はどこを触られても気持ちがいい。けれど幽は名残惜しくも千鉱の腕から離れ、陰茎を抜いた。栓を失った穴から白濁が溢れていく様子は倒錯的で、これだけでまた射精してしまいそうだった。
ぼんやりとした頭で千鉱は呼吸を整え──恐ろしいことに気付く。
──父との電話を切った覚えが無い。
すぐに身動いでスマホを探す。画面は真っ暗だった。
「安心しろ、お前がイく前に切っておいた」
幽は悪びれなく言うと、猫のように千鉱の首筋に擦り寄って肌に吸い付いた。
「続きをしよう。二十万も払ったんだ、朝まで付き合ってくれるな?」
快楽に溺れていた頭は込み上がってくる怒りでいっぱいだ。
自身の首筋に顔を埋める幽を引き剥がすと、千鉱は幽の整った──それすらも薄気味悪い顔目掛けて思い切りぶん殴った。
「このクソ野郎!! 殺してやる!!」
先程の出来事を思い出すと憎悪が湧く。もう少しでバレるところだった。父の前で辱められた。悪趣味さに反吐が出る。こんな男に自分は犯されたのか!
「……そのクソ野郎に犯された気分はどうだ? 六平千鉱」
殴られても尚、幽は嗤う。殴られた際に切れたのか、口元には血が滲んでいた。
「さて、気が済んだろう? 次は後ろからだ。淫乱なお前なら多少乱暴にしても気持ちいいはずだ」
「誰が……っ! ぐっ……!?」
押し倒されうつ伏せにさせられると、幽の腕が千鉱の頭をベッドに押し付ける。無理矢理服従させるかのような体勢は屈辱で、それ以上に恐怖だった。背後で幽が何をしてくるか千鉱には分からないからだ。
「二度と閨で逆らわないように躾けてやる」
酷く楽しげに嘯く男の目は、未だ情欲の炎が消えない。
最悪な気分の千鉱と裏腹に、幽は鷹揚な微笑みを浮かべていた。
「また連絡する」
スマホに新しく追加された連絡先へ、千鉱は憎々しいとばかりに視線を落とす。
想定外な水揚げをする羽目になった悲劇の夜にも、朝日は必ず昇る。二十万もの大金を払った男は、その金額に見合う時間と質量で千鉱の身体を蹂躙していった。振り返ってみれば、処女相手に優しかったのは精々前戯の間くらいで、破瓜の瞬間を経てからは遠慮無しに、色々としてくれたものである。途中で何度か気絶するように眠ったものの、その度に突き上げられ泣かされ、結局一晩中付き合わされ続けた。いくら疎い千鉱でも、幽が異常な精力を持っているのは分かる。コイツもう人間じゃない。
「ところで……父親にはなんて説明するんだ?」
幽はおかしそうに笑う。誰のせいで、と詰めてやりたかったが、今の千鉱にはそれが難しい。
「……っ、うるさい……」
「ああ、声が掠れてしまったな」
ベッドに座ったままの千鉱の隣に腰掛けると、幽はまるでそれが自然であるかのように肩を抱いた。
「腰は大丈夫か? まだ辛いならしばらく休んでいこう」
不本意ながらこの男の言う通り、千鉱の腰は全然大丈夫じゃなかった。無理な体勢のし通しで、腕やら腰やら下半身やらがとにかく痛い。普段使わない筋肉を使ったせいだ。
「触るな、もう帰る」
「跳ね除ける元気も無いじゃないか。遠慮するな、昼まで延長しても俺は構わない」
「帰る」
痛みを堪えて立ち上がると、ほんの少しふらついた。それでも構わず足を踏み出す前に、すかさず腰を抱かれる。
「強情だな」
「誰のせいだと……」
「もちろん、俺のせいだ。俺が悪い。だから存分に頼ってくれ」
白々しいほど殊勝な口振りのくせに、うざったいほど清々しい表情だった。とうとう怒りが限界値を超えた千鉱は心を無にすることで、腰を抱くだけでは飽き足らず頬にキスまでしてくる厭わしい男への衝動的な殺意を堪えることに成功した。これはノーベル平和賞に匹敵するほど偉大なことだった。
「車を呼んである。本当は家の前まで送ってやりたいが、それは困るだろう? 近くまで送る」
上辺だけでも気遣いが出来るなら、こんなになるまで抱き潰さないでほしかった。
さもありなんとした恨みを抱きながら、千鉱は鋭い目付きで幽を睨み付ける。
「それより、ちゃんと約束は守るんだろうな」
今回の件──千鉱があわやパパ活をしようと目論んだことと、実際にそうなってしまったこと。この両方を誰にも口外しないという約束を、千鉱は身体を繋げる前に懇願した。そうしなければセックスしない、という文句を添えて。幽はあっさりと了承し、事に及んだわけだが、果たしてこの男は本当に約束を守ってくれるだろうか?
「当然だ。俺たちのことは誰にも言わない」
千鉱の疑心にも幽は気にした様子を見せず、嘘も真も覗かせない眼差しで確と誓った。未だ疑いは晴れないが、リスクを背負ったのは向こうも同じだ。
腰を抱く手を叩き落とすと、千鉱は部屋を出た。痛みはまだ続いていたが、幸い我慢出来ないほどではなかった。
暗い廊下を歩き、エレベーターを待つ。隣には喪服のような黒スーツの男が一人。足音も立てずに、幽は影のように千鉱のそばに寄った。
「次はいつ会える?」
「……次なんてあるわけない」
「そう難しく考えなくていい。気持ち良かっただろう? 父親の名誉を守るついでに、発散して金を貰うだけだ。何も悪いことなんかひとつも無いさ」
昨夜のことを思い返す。
電撃のような快楽、全てを曝け出す暴力的な解放感。
大好きな父のためにやりたくもないことをやった。そのはずなのに。
それでもこの男との関係は、泥濘と同じくらい抜け出せないものになると予感がした。
**
朝帰りした千鉱を友人宅への外泊と信じて疑わない父は、普段通りの様相で「おかえり」と出迎えてくれた。それに千鉱は酷く安堵した。もしあの電話を不審がられ勘付かれでもしたら、今すぐにでも死んでやろうと思っていたからだ。
身体の痛みもあり、そのまま家で休日を過ごした。翌日には学校へ行き、帰宅して家事をして、火曜日と木曜日はバイトへ行って、終わったら帰って家事をして──まるであの一夜が無かったことのようにいつもの日々が過ぎていく。
あまりにも普段通りすぎて、拍子抜けするほどだった。夢だったのではと錯覚してしまいそうになるが、あの日無造作にパーカーのポケットに詰めた二十万円は、押し入れの一番奥に仕舞ったままである。確固とした物証がある以上、都合の良い妄想を信じ込むのは憚られた。
そうして二週間ほど経ったある日、見慣れぬ連絡先からメッセージが届く。
『今度の金曜日に会いたい』
一方的な文面に返事を送るか悩んだが、結局、千鉱は是と返した。
二度目のセックスも、前後不覚になるほどの快楽を植え付けられ、その後は泥のように眠った。三度目もまた同じ。毎週呼び出されてしまっては、友人とお泊まりという言い訳も使えない。どうしたものかと悩んでいたが、そもそも毎度宿泊なんぞしなくても良いのではと気付き、四度目からはチェックインを自分でやった。休憩三時間を選ぶと背後から不満げな視線を感じたが、無視してやった。
呼び出される回数が五度目を超えたあたりで数えるのはやめた。この頃から幽は金の他に服や鞄など物を贈ってくるようになった。たまに食事に行くようにもなったが、最終的にはホテルでセックスするのがお決まりだった。
まるで本当にパパ活をしている気分だった。秘密という約束の対価としてセックスをしていたはずなのに。金と物を惜しみなく与えられ、自室の押し入れに仕舞い込んだそれらは、見つかれば最早弁明のしようがない。
薄氷のような安寧が日常となりつつある。それは千鉱にとって不安の種でしかなかった。
「……チヒロ、聞いてる?」
思考の渦に陥っていた千鉱を掬い上げたのは、友人の伯理だった。
「あ……悪い、考え事してた」
「良かった、体調悪いのかと思った」
千鉱の返答に、伯理はほっと胸を撫で下ろす。不義理をした千鉱にも、真っ先に身を案じてくれるのが伯理という少年だった。
冬の暮れは早く、放課後の時間にはすでに沈みそうな夕焼けが赤々と目に眩しい。
赤く染まった夕日に照らされる放課後の教室には、千鉱と伯理の二人きり。二階の窓から見えるグラウンドでは、寒空の下でも部活に励む生徒たちの奔走する姿が窺える。
クラスメイトのいなくなった教室でどうして二人きりなのかと言うと、本日日直だった伯理の仕事に千鉱が付き添っているからだ。伯理は日誌を書くのが苦手なようで、毎度苦戦している。すぐに終わるはずが会話を繰り広げるうちに遅くなってしまい、最低でも二行は書かなければならない日直所感の欄は今も真っ白だ。
「ハクリ、そろそろ書かないと。帰るの遅くなるぞ」
「うっ、ごめんなさい……」
進み始めたシャーペンを無意識に目で追っていると、伯理がアッと声を上げ、「そういえば!」と話の続きを始めた。気の多さに呆れつつも千鉱が大人しく続きを待つと、伯理は鞄から一枚のプリントを取り出す。
「見ろよチヒロ、多分ビックリするぜ」
言われた通りプリントの中身を見る。それは千鉱も帰りのホームルームで渡された、今年度最終の模擬試験の結果だった。
元々勉強自体嫌いではなく、常日頃から好成績を残している優等生の千鉱はA判定で返ってきた。では伯理の結果はどうか。
「これ見ろ! B判定!」
「すごいな、前の模擬はE判定だったのに」
「へへっ、チヒロが面倒見てくれたおかげだよ」
照れ臭そうに頬を掻く伯理に、千鉱も我が事のように嬉しくなった。まだ油断出来ないが、このまま継続出来れば合格圏内に入れるだろう。
「帰ったら弟にも報告しよ。ずっと勉強教えてもらってるし」
「弟に……」
「頭良いんだアイツ」
千鉱は以前、伯理の家に遊びに行った時に紹介された利発そうな少年の姿を思い返した。二人の仲はあまり親しい風には見えなかったが、年頃の男兄弟は案外そういうものかもしれない。
何はともあれ、今は日誌を書かせねば。伯理に記入を促し、最低限の二行に到達させた後は職員室に行って日誌を提出した。担任には呆れられていたが、提出が遅い生徒は珍しくないためか、怒られることは無かった。
いつもより遅い時間の下校になってしまったが、剣道部に所属していた千鉱にとっては慣れたものだった。千鉱は夏休み中の総体で引退したが、夏休みを明けてからは伯理の勉強やら用事やらに付き合い、結局帰りが遅い。だが決して苦ではなく、親しい友人と気兼ねなくいられるのは、千鉱にとって充実した時間だった。勉強も、他人に教えることは良い刺激になる。
「遅くまで付き合わせてごめんな、チヒロ……大丈夫だった?」
「金曜はバイトのシフトも入れてないし、平気だ」
「あはは、なんか凄く変わったな。最初は父さんの世話があるからって遊んでくれなかったのに」
「……まあ、うん……」
それは知り合った当初、伯理の積極的な距離の縮め方に嫌気がさしていた千鉱が使っていた断り文句だったのだが……これは言わぬが花だ。
父子家庭の六平家は父が金を稼ぎ、千鉱が家を回している。家事のほとんどは千鉱、家計簿を付けるのも千鉱、父の確定申告のために収入や領収書などを記帳するのも千鉱。それらを学業や部活と並行して行い、高校に進学するとアルバイトも追加される。大好きな父のためならこれくらい、と世話焼き根性が身に付いている千鉱に大きく『待った!』を突きつけたのは、父の友人にしてマネージャーの柴だ。
『あかんでこれヤングケアラーや!! 今すぐ自立しろ六平!!』
『すまァんチヒロ!! 俺が間違ってましたァ!!』
柴の一喝で反省し、父さん無限甘やかしマシンと化していた息子を解放せんと、父は出来る家事を増やし、千鉱の負担を削ることに成功した。もちろん、本当は千鉱が被る負担を全て引き受けることが理想なのだが、本人の家事不適性が原因で結局「父さんお願いだから座って」とストップをかけざるを得なくなる事態が発生するのである。ちなみに、確定申告の件は柴にバレて親子共々めちゃくちゃ叱られ、以降は父がやっている。当然だ。
高校に進学したばかりの頃は父の家事能力も頼りなく、本当に世話が必要な状況だったので、伯理への断り文句も全くの嘘ではない。それが今や、こうして夜遅くまで外出しても問題無いと言えるほど成長するようになるとは、少し感慨深い。アラフォーのくせに茹で卵レンチンして電子レンジぶっ壊してたのに。
肌寒い木枯らしが吹き荒ぶ中、最寄りのバス停には千鉱と伯理の他にも、同じ学校の制服を着た生徒が数人。
冬空の下、寒そうに鼻を赤くする伯理は千鉱に小さく話しかけた。
「なあなあチヒロ、腹減らね? 帰りにどっか寄ろうぜ」
時刻は十七時二十二分。確かに腹が減る時間帯だ。体力有り余る健康優良児の千鉱の腹も、空腹を訴えていた。
しかし、今日は金曜日である。
「悪い、用事がある」
「そっか、残念……」
しゅんと落ち込む伯理に申し訳なく思った千鉱は、「また今度行こう」と約束を交わす。
そうこう話しているうちにバスが到着する。予定を五分ほど過ぎているがいつものことだった。バスに乗り込み、十五分ほど揺られた先にある最寄りのターミナル駅で降りる。千鉱と伯理が利用する路線は別々のため、改札前で別れた。
「また来週な!」
羨ましくなるほど溌剌な伯理に、小さく手を振って応える。今日を終え、土日を挟んで、また月曜日。また伯理に会える日が待ち遠しい。伯理は千鉱に日常を思い出させてくれる。
家に帰るのも、これから起こることも、今の千鉱には憂鬱で煩わしい。
改札を通り、目的のプラットホームへの階段を登る。帰宅ラッシュ真っ只中なこの時間は、どこのホームも長蛇の列を作っている。列に並び電車を待つと、遅延無く、予定時刻ピッタリに到着した車両に鮨詰めにされつつ乗り込む。登下校に必要とは言え、こればっかりはいつまで経っても慣れない。発車してから一つ目の駅で、降車客の波に逆らわずに車両を降りる。中と外の気温変化は堪えるが、鮨詰めよりマシだ。
降り立った駅は千鉱の自宅からの最寄り駅だ。通退勤のラッシュ時の利用客は多いが、駅自体は然程大きくない。周囲は市街地に囲まれており、駅前は車の乗降用にと広々としているが、それだけだ。飲食店も商業施設も無いので活気は少なく、ただ電車に乗るという本来の目的一つで成り立ってる駅だ。反対方向の伯理の自宅周辺とは違い、ここら一帯は郊外で田舎だった。
駐輪場から自身の自転車を回収し、ペダルを漕ぐ。もうすっかり日は落ちていて、電灯や車のライトがチカチカと光っている。自転車に乗って冬の冷気を顔いっぱいに浴びているうちに、鼻の奥がツンと痛む。吐く息すら透明になるほど冷えてしまったが、それよりも、千鉱は家に帰った後の方がずっと悩ましい。それでも自転車を漕いでいれば自宅に着いてしまう。
千鉱の自宅は、古きと新しきが混在し建ち並ぶ住宅街の中でも比較的広い敷地を持つが、その広さに反して二人暮らしのため、十分に管理しきっているとは言えないのが現状だ。外から見える分は綺麗にしているつもりだが、春や夏になると雑草やらが生えてきて困るし、ここらは治安も良いとは言え防犯の面も気がかりだ。
鍵を挿して、磨りガラスが大部分を占める昔ながらの玄関の戸を開ける。「ただいま」と一声かけて靴を脱ぎ、閉められた扉越しにテレビの音が聞こえるリビングを通り過ぎて台所に行くと、そこには父が居た。
「ただいま」
「おっ、おかえりチヒロ!」
「うん。……何してるの?」
「飯の準備。あとで柴が来るって」
「そう」
「チヒロも食うか? 用意するぞ」
「いや、これから友達とご飯行くから大丈夫。明日ご飯作るから、作り置きは全部食べていいよ」
「ありがとございまァす!! いつもチヒロさんのおかげで美味しいご飯食べれてまァす!!」
「声大きい」
いつものようにハキハキ喋る父は、覚束ない手付きで白菜を切っていた。今日は鍋にするつもりなのだろう、冬の定番料理だ。切って煮るだけの簡単な料理なので、千鉱もよく作るし、冷凍庫には丸めた鶏団子がストックされている。作り置きの常備菜は保存と酒の肴に困らないよう味付け濃いめに作ってあるし、冷凍庫には枝豆もある。柴が来れば高確率で酒を飲むだろうが、おつまみの心配は必要なさそうだ。
一度自室に戻り、適当な服に着替えた。私服が黒色ばかりなのは千鉱の趣味で、奇抜なセンスのシャツを好む父と真反対だ。黒が似合わない人はそういない、という単純で面白味のない理由で、似たような服を選んでしまっている。
箪笥の中に取り付けてある壁掛けラックからショルダーバッグを取り出し、荷物を詰めて肩にかける。滑らかな黒本革で仕立てられたそれは、年若い自分には到底手が出せない代物だ。デザインもシンプルで洗練されており、ブランド物だが外見から主張しないところは好感が持てる。しかし正直なところ、千鉱の趣味ではない。鞄なんてもっと安物でいいし、まだ成人すらしていない一般人が高級品を持ち歩くのはちぐはぐで不自然だ。分部不相応という言葉がよく似合う。
それで言えば千鉱と同じ学年の伯理の私服や私物はハイブランドばかりなのだが……そもそも伯理の家は四百年続く由緒正しい名家とかいう裕福なご家庭なので、ある意味一般人の域を超えている。スーパーで売っている卵を「色が薄いけど食べて大丈夫なやつ?」と素で不安がる男、それが伯理だ。
台所に戻ると、父は具材を切り終えて鍋に詰めていた。鼻歌を歌いながら肉や豆腐なんかも入れている。しらたきは少し切ったほうが食べやすいと思うが、やりたいようにやらせるのも技術の習得に必要なことだ。千鉱は言葉を飲み込んだ。
「それじゃあ、行ってくるから。十時までには戻る」
「いってらァ!! 夜道には気を付けろォ!!」
家を出ると、自宅から十分歩いた先にあるバス停に向かう。ここらは中途半端な田舎ではあるが都市部に近いので、十九時台のバスが最終便だ。乗車客が少ないので停まることもなく、また車通りも少ないため大きな遅れも無いまま終点の最寄駅に着いた。先程来た場所にもう一度行くというのは効率が悪いにも程がある気がするのだが、制服では出歩けない所に行くので仕方がない。
いつもとは反対方向の電車に乗り、十五分ほどで目的の駅に辿り着く。学校の最寄駅とはまた違ったターミナル駅だが、こちらは地下鉄があるため、人の活気はより優れている。
金曜日の夜に羽目を外そうとする人間は多い。駅周辺にはあちこちに飲み屋があり、特に密集している歓楽街は、人目も憚らずはしゃぐ輩や、無法にも歩き煙草を吹かす不届者など、たくさんの人間で溢れている。千鉱は吸い殻やゴミで汚れた歩道を歩き、ボロボロになった青い広告募集の看板がかけられている廃れたビル前に向かう。そこには数人の若い女たちが壁にもたれてスマホをいじっていた。
スマホで時刻を確認する。現在、十九時三十九分。
「遅かったな」
背後から突然、声をかけられる。
驚いて、びくりと体が震えてしまった。
嫌な気分になりながら後ろを振り向くと、そこには喪服のような黒スーツの男が一人。
「夕食は食べたか? まだなら先に食事に行こう」
男──幽の言葉に、千鉱は首を振る。
「行かない……けど腹は減ってる。先にコンビニ寄りたい」
「そんなに焦らなくてもいいだろう。それとも、俺に抱かれた後に用事があるだなんてつれないこと言うんじゃないだろうな」
「……食事だけで済むならそれでもいい」
ホテルに行かず食事だけ。いわゆる『健全』と呼ばれるものにこの男が頷くはずがない。そうと見越しての提案だったが案の定、幽は不敵に微笑み、いやらしい手付きで千鉱の腰を抱いた。
「単なる食事会にも心惹かれるが、それはまた今度にしよう」
「…………」
「今のは失礼なことを考えてる顔だな? すぐにでも取って食べたいくらい可愛いが、やめてくれ」
「スケベ親父だなと思った」
「口に出さなくていい」
腰の手をはたき落とし、近くにあるコンビニに入る。飲み物と軽食をレジに通すと、千鉱が財布から金を出す前に背後から「カードで」と店員に告げる声。不気味で剣呑な雰囲気の男にも動じない店員によってあれよあれよの間に会計が済み、店の外に出ると、千鉱はムッと悔しそうな顔で言った。
「金返す」
頑なに施しを拒む千鉱に、幽はなんてことないように嘯く。
「金よりも行動で返してくれ。例えば……お前からねだる、とか」
やっぱりスケベ親父じゃないか。
借りを作りたくない気持ちと、この男に遠慮とか必要無さそうというぞんざいな気持ちとが拮抗し、天秤がぐらぐら揺れている。
いくら千鉱が言ったところで、幽は決して金を受け取りはしないだろう。そして、千円と少し程度の貸しでとやかく言うような男でもない。このまま千鉱が金を返さずとも、ベッドの上でねだらなくとも、幽は何も言わないだろう。
その余裕綽々とした態度に心底腹が立つ。
「……そんなことしたくない」
「無理にとは言わないさ。今のままで十分だ」
貸しをそのままにするのは据わりが悪い。しかしここで礼を言うのは違う気がする。全ての元凶はこの男だ。
胃がムカムカする。食欲よりも怒りと嫌悪が上回る。
何も考えたくない。それはとても難しいことだが、千鉱は唯一その方法を知っている。
**
「これから誰と会う気だ?」
快楽中枢をぶっ飛ばすようなセックスの残り香をやんわりと纏いながら、幽は千鉱に問うた。
時刻は二十一時十三分。父に『帰るの遅くなる』とメッセージを打っていた千鉱は、やや掠れた声で答える。
「お前には関係ないだろ」
実際に、千鉱の言葉の通りだ。密約と金だけの関係の男に、行動を逐一報告する必要は無いのだから。けれども幽は尚も詰問する。
「本当に会うつもりか」
文面を整え、千鉱は父へメッセージを送信した。今頃、柴と酒盛りしている最中だろうか。あの二人は酒に強いが酒癖が悪いので、気分良くなって次から次へと瓶を開けないといいのだが。
「俺に抱かれた後で、誰と会うんだと聞いている」
目の前に真っ暗な影が差す。ベッドに腰掛ける千鉱が見上げると、幽が居る。短いシャワーを終え、すでにジャケットを羽織っている姿は今日最初に会った時とそう変わらないが、髪の毛先が少し湿っている。
幽はまるで千鉱を非難するかのような表情を浮かべ、独占欲を口ずさむ。
それが本心か、単なる性欲なのかを見極めてやりたいのだが──生憎と、先程まで過剰な官能を与えられ神経がぶっ飛ばされた心地を味わった千鉱は、心身共に疲弊している。幽の面倒くさい問答にまともに付き合える状態じゃない。隠さない気怠げは信頼の証などではなく、これ以上踏み込むなという拒絶の現れだ。
いくら待っても千鉱は答えない。否応にも認めた幽が深くため息を吐く。
「その顔を見ると、道のりは遠いな」
「何の話だ」
「もういい、分かった」
帰りは送る、と幽が言うので、千鉱は素直に頷いた。これもまたお決まりのパターンで、事が終わると自宅近所にあるコンビニまで送って行ってもらっている。電車やバスを乗り継ぐよりも早く帰れるから丁度良い。近所まで送り届けさせることは苦渋の決断に等しかったが、コンビニから自宅までは歩いて十分と多少距離がある。直接住所を知られているわけではないから、と利便性を取ってしまうのは、疲れ切った頭ではまともに考え事など出来ないからなのかもしれない。
ホテルを出て駅まで歩く。近くのコインパーキングに停めてある黒塗りのセダンはいつ見ても綺麗で、フロントグリルにはシルバーの三叉の星が光沢を放っている。いかにもな車に乗り込み、座り心地の良いシートに身体を沈めた。
「このままいつものところまで送るか? それとも、直接送ってやろうか」
「直接ってどこに」
「この後に会う男のところに」
「またその話か……」
まだ諦めていないことに辟易する。しかも会うのが男だと勝手に決めつけ始めている。
あまりの鬱陶しさに折れた千鉱は正直に白状した。
「今日は父の友人が来ているから早く帰りたいだけだ」
柴が金曜日の夜に来る時は大抵泊まりで、陽が登ると帰っていく。酒盛りの後の片付けをしなくてはいけないし、朝食も作ってあげたい。ヤングケアラーだと戦々恐々とする父と柴だが、世話を焼くことを千鉱は全く苦に思っていない。むしろ自分の仕事を奪わないでくれとまで思う。
高校で部活を続けると決めたのはつくづく失敗だった。学業、部活、アルバイト、家事──全てを両立させるのは本当に難しい。喫茶店のバイトは週に二、三回のことなので大したことないが、問題は部活だ。千鉱になまじ素質があったおかげで、周囲からの期待も大きかった。
ああでも、どうして部活を続けると決めたのだったか。あれは確か……そうだ、父だ。剣道は中学までにすると言った千鉱に、勿体無いと説得してきた父に勝てなかった。いつだってそうだ。千鉱の頑なな我はいつだって父に阻まれる。
家に帰る頃には二十二時を過ぎるだろう。父は不思議と寛容で、千鉱が夜遅くに帰っても何も言わない。友達と遊んでいるという方便を信じているのだ。父が鈍いのか、嘘が上手くなったのか──どうか後者であってほしい。
高級車だからか、音と揺れの少ない車内にはラジオも音楽も流れておらず、静かな車内は沈黙だけがそこにある。ふと思い立った千鉱は、ちらりと隣を見遣った。運転席に座る幽は何を考えているのかよく分からない冷めた表情でハンドルを握っていた。
破滅を招きそうな妖しい雰囲気ではあるものの、端正な顔立ちだ。女には困らないだろうし、実際に会話の中で過去の女性遍歴を漏らすことがあった。この男はいわゆるバイセクシャルなのだろう。そうでなければ千鉱に手を出す必要性が無い。そうと信じなければ、では一体、この男の目的は何だ?
眠気で回らない頭では物事を精査する事もできない。窓ガラスに映る、隣の車線を行く車のライトを目で追っていると、千鉱はいつのまにか意識を手放してしまった。
「千鉱」
酷く優しい声に呼びかけられ、ハッと目を覚ます。冷や水を浴びせられたが如く覚醒した意識は、千鉱に窓ガラスの向こうに何があるのかを理解させた。
ここは深夜にも煌々と辺りを照らす二十四時間営業のコンビニなどではない。
六平家──千鉱の自宅の前だ。
「よく眠っていたようだから、途中で起こすのは忍びなくてな。疲れただろう? ゆっくり身体を休めるといい」
うっそりと笑い、善意で飾った言葉を吐く男が気持ち悪い。
「家の場所、教えてない……」
後を尾けられていた? いやそんなはずない、調べられたのだ。
よく考えれば分かることだ。幽は父の素性を知っていた。現代刀剣の世界において、『六平国重』は有名人だ。名が売れるほど情報は広まりやすい。この男がどれだけの情報網を駆使したかは知らないが、住んでいる場所も、息子の名前も、調べるのはそこまでの労力でなかっただろう。
呆然とする千鉱など知らぬ素振りで、幽は戯けた様子で答える。
「そうだったか?」
「教えるわけないだろ!」
「そんなに興奮するな」
ちら、と幽が千鉱の背後に視線を送る。そこに何があるか知っている千鉱は、酷く狼狽し振り向く。
視線の先、磨りガラスの玄関扉は灯りもつかないまま閉じているばかりであった。
「大声を出したら聞こえるかもしれないだろう?」
焦る千鉱を嘲笑うかのように、幽はしぃ、と人差し指を口に当て、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
頭の中が怒りと憎悪で溢れんばかりだったが、それが一周回って千鉱に冷静さを取り戻した。スッと冷めていく思考は、ある一つの答えを導く。
「……何が目的だ」
「俺はただお前の全てが欲しいだけだ」
「本当のことを話せと言ってる」
「話してるさ。俺の目を見ろ、嘘を言ってるように見えるか?」
「ふざけたことを……!」
このまま幽を問い詰めてやりたいが、家の前に車が停まり続ければ流石に怪しまれる。一緒に居る所を見られれば言い訳も難しい。
チッ、と舌打ちし、腹立たしさも言いたいことも全て飲み込んで千鉱はドアノブに手を掛ける。
「またな」
いつものさよならの挨拶が、今はより一層不気味に聞こえる。
千鉱は振り払うかのように車から降りた。ドアを閉めて離れると、何事もなく車は去って行く。車の走行音が遠ざかっていくのを確認して、千鉱はようやく安堵することが出来た。
『お前の全てが欲しい』
人を脅した口で甘い言葉を吐く男を、どう信用しろと言うのか。
けれど、おかげでハッキリと分かった。
千鉱の推測通りなら、幽の『目的』は父──六平国重だ。おそらく千鉱に接触して来たのは、目的達成の段階に過ぎないのだろう。毎秒更新されていくSNSの膨大な投稿メッセージの中から千鉱をピンポイントに見つけることが出来たのは、事前に目を付けていたからに違いない。
では幽の『目的』は一体何だ?
息子の弱みを握ることで国重を操ろうとしている? それとも、醜聞を持って国重の名誉を完全に消し去ろうと言うのか?
『最近の刀匠会は彼を無監査刀匠に推し進めようとする動きがある。それを息子のお前が原因で無かったことになれば……今度こそ六平酩の刀は値が付かなくなるかもしれないな』
脅し文句を考えるに、目的は後者──父を貶めることだろう。
六平国重の個人情報のみならず、身内の身辺すら探った周到な男。
ならば当然、持っているはずだ。
カメラやビデオで記録した『六平国重の息子』のあられもない姿を。
「最初から、全部、仕組まれてた……」
貞操を捧げれば守れると思っていた。勝手に身体を売って、勝手に守った気になって、実際は全部無駄どころか餌を与えただけ。
身体が震えるのは寒さだけが原因ではない。千鉱は自分が犯したとんでもない愚行がどんな結果を生むか想像して、背筋が凍るほど恐ろしくなった。
今すぐ過去に遡って自分を殺してやりたい。
何が不安だ、愛してもらってるくせに。
それだけじゃ満足出来ないなんて浅ましい。
お前のせいだ。全部。お前だけが間違っている!
「……ごめんなさい」
軒先で蹲り、小さな声で懺悔する。
きっと、父は許すだろう。なんてことないみたいにワハハと笑って、千鉱の頭をくしゃくしゃに撫でてくれる。
どんなに愚かな息子でも、父は愛してくれる。
容易に想像出来て、やっぱり、自分の醜さが心底嫌になった。
**
玄関の戸を開けると、ボソボソと話し声が聞こえてきた。父と柴だろう。時折笑い声も混じっているので、お酒を飲んで気分が良くなっているらしい。
本当は、柴に挨拶をするべきだった。
こんばんは、来てたんですね、おつまみ足りてますか、二人とも飲み過ぎないでね。そういう声掛けをしなければならない。何故ならそれは普段千鉱がやっていることで、二人に怪しまれないためには、必ずしなければならないことだった。
しかし、今は二人に会って嘘をつける気力が無い。騙せれるとも思えない。千鉱は父と柴が居るリビングを通り過ぎ、自室に引っ込んだ。
着替えすらも出来そうにない。電気も付けず布団に倒れ込む。
スマホのメッセージアプリを開く。半ば強引に交換された相手とのチャット欄を開いて、キーボードを打ち込もうと指を置くが、千鉱は何をどう書けば良いのか分からなかった。
簡単なはずだ。何を企んでいるのか、どんな弱みを握っているのかを聞けばいい。しかし、幽が素直に教えると思えないし、もし教えたとして、決定的な証拠──例えば、最中の写真や動画を持っているとハッキリ明言されるのも恐ろしかった。
一眠りしたせいで眠気はすっかり消えてしまい、胸中の不安と恐怖は増殖していくばかり。今こうしている間にも幽の目的は達成されているのかもしれない。そう考えるだけで身が竦む。
すると、ぎしぎしと廊下の床が軋む音が聞こえてきた。規則的で、大きな音を出すそれは父の足音だ。
「おーい、チヒロ。もしかして体調悪い? 熱出たかァ?」
心配そうに襖の外から声を掛けてきたのは、やはり父だった。千鉱は今すぐ泣きたくなってしまうのを必死で堪え、声を上げる。
「っ……平気、大丈夫」
「それならいいけど。無理そうなら早く言ってくれると父さん嬉しいな」
「うん、ありがとう」
酒を飲んだからか、普段より父の声色が弾んでいる。やはり何も言わず部屋に戻ったのは怪訝に思われたようだ。千鉱は僅かに後悔が頭に浮かんだが、顔を合わせれば何事だと問い詰められるのが目に浮かぶ。様子がおかしいと思われる程度ならば、まだ大丈夫。
「ごめん、今日はもう疲れてて……話があるなら明日でもいい?」
「おー、ゆっくり寝ろ寝ろ。おやすみなさァい!! 父さんたちはもうちょっと起きてる」
「分かった。飲み過ぎないでね、柴さんのこともちゃんと止めてよ」
「ダイジョーブ! ちょっとしか飲んでないから」
そうは言うものの、父も柴も酒豪のため、どこまで信じて良いものか。普段の酒癖の悪さを知っている千鉱は少し呆れつつも、今はむしろ、ベロベロに酔ってくれた方がいいのかもしれないとも思う。そうやって酒に溺れて、千鉱のことなど頭の隅にでも追いやってくれれば、少しは気が休まる。
「……じゃあ、おやすみ、父さん」
「おう! おやすみ、チヒロ」
パタパタと遠ざかる足音に、ほっと胸を撫で下ろす。
怪しまれているのは変わらずだろうが、それも心配から来るものだろう。やり過ごすのは案外容易だった。明日、理由を聞かれたら遊び疲れたと言おう。体力を消費したのは本当だし、疲れているのも本当。嘘を吐く時は真実を織り交ぜるのがより効果的だと千鉱は学んでしまった。
けれど千鉱は、あとどれだけの間、こうして父を騙し、やり過ごせば良いのだろうか。まさかこの先ずっとこうだとは考えたくない。
幽の目的が父で、自分がまんまとそのための餌になってしまったのなら、千鉱がやるべきことは一つだけ。
千鉱は再び、スマホのメッセージアプリを開いた。幽とのチャットは今日の夕方に送った、待ち合わせの予定時刻が最後だ。
キーボードに指を置き、今度は迷うことなく文章を打つ。
『話がしたい』
すると、まるで千鉱からの連絡を待っていたかのように、すぐに返信が来た。
『分かった』
『いつにする?』
『すぐにでも』
『じゃあ明日十時にいつもの所で待っていてくれ』
約束を取り付けると、いくらか気が楽になった。心の内は不安と後悔が変わらず渦巻くままだが、千鉱には予感があった。
おそらく、話があるのは千鉱だけではない。すぐに返信を寄越したのがその証左だ。まだ幽の動機も判明していないのだから、交渉の余地は十分にある。
いずれにせよ千鉱は、今回の事態を招いた責任を取らなければならない。
たとえ父を苦しめる結果になろうとも。
あの暗闇の似合う男を、父から遠ざけるために。