テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
【現実世界・オルタリンクタワー/深部・裂け目の前】
裂け目は、扉じゃなかった。
壁が割れているわけでも、床が抜けているわけでもない。
“ここから先が別の場所だ”という規則だけが、先に存在している。
白い廊下の匂い――焦げと、冷たい粉の匂い。
それが、裂け目の縁から静かに漏れていた。
覗き込むほどの穴じゃないのに、
目の奥が勝手にその先を探ろうとして、気持ち悪い。
「見るな」
リオが短く言う。
言われなくても分かっているのに、言われると余計に意識してしまう。
「見ないで“進む”のが、いちばん難しい」
セラが淡く言い、
いつもの距離を保ったまま裂け目の横に立った。
彼女は近づかない。
近づけば、こちらの確定に巻き込まれる。橋渡しの癖だ。
アデルが剣を構えた。
「入る。先頭は私。次にリオ。後ろは――」
「俺が真ん中」
ハレルが言うと、サキが即座に袖を掴んだ。
「私、離れない」
拒む言葉が、喉まで出かけて止まる。
もう、ここに来た時点で巻き込まれている。
それに、サキのスマホはさっきから異常なほど静かだ。
静かなのが、いちばん怖い。
バッグの中で、薄緑が弱く揺れた。
日下部のコア。薄緑は固定。
なのに、光が薄い。
黒い粒が混ざり、脈が――とぎれかける。
(ここまで来て、まだ引っ張られるのか)
(器が、向こうにある……)
アデルが裂け目に踏み込んだ。
剣の刃先が、空気の膜を切る。
次の瞬間、アデルの外套の裾が、白く一拍だけ“洗われる”。
白が、赤黒い紋の上に薄く降りて、すぐに消えた。
「――来い」
アデルが振り返らずに命じる。
リオが続き、ハレルとサキが同時に踏み出す。
靴底が、床に触れたはずなのに、音が遅れて耳の奥に落ちた。
それだけで、空間のルールが変わったと分かる。
視界の端に、数字みたいな光粒が舞った。
白い廊下の粒と、塔の赤い粒が、同じ速度で落ちる。
混ざって、ほどけて、また分かれる。
(……境界が、遊んでる)
セラが低く言う。
「気をつけて。ここは“奪われた座標”の入口。
杭が折れても、中心はまだ生きています」
「中心」
サキが小さく繰り返す。
その声が、震えていないのが逆に怖かった。
裂け目の向こう側は、廊下ではなかった。
狭い通路。金属の壁。配線。
現実の設備導線のはず――なのに、床には赤黒い紋が染みている。
紋の上を、黒い影が薄く流れる。
黒ローブの“気配”だけが、まだ残っている。
「……残り香だ」
リオが吐き捨てる。
「本体は奥」
アデルが、通路の角を曲がる。
その瞬間。
上から、軽い音がした。
拍手じゃない。硬い金属片が転がる音。
なのに、背筋が凍った。
“それ”は音で知らせている。ここにいる、と。
ハレルは反射で見上げそうになって、噛み殺す。
見るな。固定するな。
だが“見られている”感覚は、視線とは別の場所から来る。
――皮膚の裏。
――脳の底。
――息のリズム。
主鍵が、じわりと熱を増した。
熱が、嬉しそうに脈を打つ。
まるで誰かの指が、こちらの心臓を叩いているみたいに。
サキのスマホが、一度だけ震えた。
画面が勝手に点く。
《回収対象:707》
《照合:進行中》
《……目を閉じても、見られる》
「……っ」
サキが息を呑む。
ハレルは、咄嗟にスマホを覗き込まないようにして、サキの手首を軽く押さえた。
「読むな。全部、読まなくていい」
「でも……」
サキの唇が揺れる。
怖い。――それでも、手を放さない。
セラが視線を通路の奥に向けたまま言った。
「“707”は、あなたたちが奪われた番号。……彼の器の座標です」
日下部の病室番号。
第七特別病棟の、あのベッド。
それが、こんなふうに“回収対象”として表示される。
(父さんのアプリだとしても)
(――誰かが、使ってる)
ハレルの胸に、嫌な確信が沈む。
父が残したものは、橋のはずだった。
なのに、橋は両側から使われる。
こちらのためだけに存在しない。
「来る」
アデルが呟いた。
通路の先。
暗がりが、ひとつ“伸びた”。
黒ローブではない。
もっと重い影。
人の形をしているのに、人の温度がない。
足音が、遅れて落ちる。
コツ、ではなく、鈍い“ぺたり”。
床に貼り付くような歩き方。
「……代用」
リオの声が低くなる。
サロゲート。
カイトの身体をベースにした、寄せ集めの意識。
“ボク”と名乗る、あれ。
だが、まだ姿は見えない。
影だけが、角の向こうで揺れている。
見せない。見せないのに、こちらを測る。
セラが囁いた。
「姿を見せないのは、あなたの“観測”を誘うためです。……我慢して」
「分かってる」
ハレルは短く返した。
分かっているのに、心臓が速い。
目が、勝手に角を見ようとする。
見れば、確定する。確定すれば、実験が進む。
サキが、小さく言う。
「お兄ちゃん……私、怖い。……でも、離れない」
「うん」
ハレルはそれだけ答え、サキの肩に手を置いた。
触れたことで、二人の歩幅が揃う。
揃うことが、鍵になる。――そう言われた気がする。
アデルが剣先を少し上げた。
「ここを抜ける。中心へ」
リオが腕輪に魔力を通す。
鎖の術式が、床を這い――角の向こうへ噛みつく準備をする。
その瞬間、通路の天井の配線が、一拍だけ“光の糸”に変わった。
現実のケーブルが、異世界の魔術回路みたいに見える。
そしてすぐに戻る。
世界が、まだ揺れている。
同調は成立した。
けれど安定はしていない。
むしろ、ここからが本番だ。
◆ ◆ ◆
【現実世界・雲賀兄妹の通う学校周辺/夕方】
校門前の道路は、いつも通りのはずだった。
部活帰りの生徒。自転車。コンビニ袋。
夕陽の角度が変わるたび、アスファルトがオレンジに光る。
――ただ、影がひとつだけおかしい。
街路樹の影が、伸びる。
伸びるのに、揺れない。
風が吹いても、葉の影だけが揺れて、幹の影が揺れない。
それを、誰も気にしない。
気にしないように、目が滑っていく。
校門の反対側。
古い電柱の陰に、黒い服の人物が立っていた。
フード。スカーフ。細い肩。
顔は見えない。
見えないのに、目だけがこちらを見ている気がする。
その人物の足元で、アスファルトの表面が一拍だけ“石畳に見えた”。
次の瞬間、元に戻る。
誰かが瞬きした程度の一瞬。
黒い人物は、スマホを取り出した。
画面をタップする指先が、軽い。
遊ぶみたいに。
そして、校門の内側――中学校側の敷地に向かって、何かを“置く”ような仕草をした。
置いたものは見えない。
見えないのに、空気だけが少し冷えた。
遠くで、チャイムが鳴る。
いつもの下校放送。
なのに、音の奥に、別の鐘の余韻が混ざった。
誰かが笑った気がした。
笑い声じゃない。
“笑われている”という感覚だけが、空気に残った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/深部・通路】
ハレルの背中に、遅れて寒気が走った。
理由が分からない。
分からないのに、主鍵が一拍だけ熱を上げる。
(……今、どこかで)
(境界が――)
考える暇はなかった。
角の向こうの影が、こちらへ一歩ぶん近づいたからだ。
「来るぞ」
リオが短く言う。
アデルが、息だけで命じた。
「怯むな。見るな。――折るのは、真ん中だ」
ハレルは頷き、サキの手を強く握った。
バッグの中で薄緑が、途切れそうな脈を打つ。
見られている。
見られているのに、見返せない。
それでも、進む。
奪われた座標の中心へ。