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退院の決定は、静かに告げられた。
派手な達成感も、解放感もない。ただ、「今日は帰れます」という一言が、いつもより重く胸に落ちた。
りつは荷物をまとめながら、病室を見回す。
長く過ごしたはずなのに、驚くほど物は少ない。
代わりに、ここで交わした言葉や表情が、やけに鮮明だった。
「忘れ物ない?」
ドアのところに立っていたのは、叶だった。
「大丈夫です」
「……“大丈夫”の使い方、少しは上手くなった?」
その問いに、りつは少し考えてから答える。
「前よりは」
叶は小さく笑った。
「次無茶したらただじゃおかないからね」
「はい」
病院の出口には、葛葉がいた。
もう見慣れた光景なのに、今日は少しだけ違う。
「やっと出てきたか」
葛葉が腕を組んで言う。
「でも、今日から“完全復帰”じゃないからね」
叶がすぐに釘を刺す。
「分かってます」
りつはそう答えたが、二人は納得した顔をしなかった。
「言葉じゃなくて、行動な」
葛葉はそう言って、りつの頭を軽く小突く。
「倒れた前科、忘れんな」
「忘れません」
それは、誓いに近かった。
帰り道、三人は並んで歩いた。
話題は他愛もないことばかりだ。
最近の配信、先輩たちの企画、どうでもいい雑談。
それでも、りつは思う。
この“どうでもよさ”が、どれほど大切か。
別れ際、叶が足を止めた。
「……明日、復帰配信?」
「はい。短めで」
「無理したら、途中でも切れ」
「切ります」
即答だった。
叶はそれを聞いて、ようやくうなずいた。
夜。
自宅の部屋は、久しぶりだった。
配信機材はそのまま残っている。
マイク、モニター、椅子。
倒れた日のまま、時間が止まっていた。
りつは椅子に座らず、床に腰を下ろす。
深く息を吸い、吐く。
「……戻るんだな」
怖くないと言えば嘘になる。
また、同じように期待されることも。
また、無理をしてしまうかもしれない不安も。
それでも――
話さなければならない。
すべてを、ではない。
だが、嘘をつかない形で。
スマートフォンに、メモを書き出す。
・心配をかけたこと
・活動休止の理由(体調)
・これからの活動ペース
・約束
最後の項目で、指が止まる。
「……約束」
誰に?
リスナーに。
先輩に。
そして、自分に。
そのとき、スマートフォンが震えた。
葛葉からのメッセージ。
〈明日、見てるから〉
少し遅れて、叶からも。
〈無理しない配信、期待してる〉
りつは画面を見つめて、静かに笑った。
「……怒られる未来しか見えない、笑」
でも、それでいい。
机に向かい、椅子に座る。
配信開始ボタンの位置を、指でなぞる。
胸に手を当てる。
鼓動は、落ち着いている。
医者として、分かる。
今は、話していい状態だ。
「大丈夫」
その言葉は、もう逃げではない。
りつはライトを消し、布団に入る。
明日は、戻る日だ。
全部を抱え込んでいた“前”とは違う形で。
怒ってくれる人がいて、待ってくれる人がいる場所へ。