彼らにとってその洞窟、マルガ洞がどういうものであるのか、ユカリにもある程度は分かる。
信仰対象。神聖な存在。神に通ずる虚ろな偶像。当然無闇に立ち入れば反感を買うだろう。しかし洞窟の奥に座しているであろう魔導書については何も分からない。
経験則から考えれば、魔導書についての経験則などほとんど役に立たないということだけが分かる。どのような魔法を秘めているのかを、これまでの魔導書を頼りに推測することなどできない。全てが別物だ。共通点がないわけでもないが。
人を呑み込む『這い闇の奇計』という呪いが魔導書に関係しているのかどうかも分からない。カルストフも魔導書には言及しなかった。闇といえば、ミーチオン地方で封印した魔導書の一つに闇を操る『闇覆う魔法』があったことを思い出す。闇を呼び寄せる方法も心の内で呪うことだった。ただし、あの魔法はただの闇であり、光を消すが、人を食べたりはしない。
まずは魔導書のあるこの土地ラゴーラのこと、そしてラゴーラ領に住む人々のことを知る他ない。
ひとまずは誘いに乗って、ユカリは彼らの居住地へ向かうことにした。
異国の地の奇妙な景色を前にして、ユカリが最初に気づいたことは、人々の歩き方だった。
神官たちの佇まいは堂々としたものだが、信徒たちは恭しげに俯き、そして手を繋いで何人かの塊になっている。窶れた信徒たちがお互いの体を支えているのか、それとも教義か何かなのだろうか。当然皆の歩みが遅くなる。まるで崖のそばを歩いているかのように一歩一歩を探るように歩いている。しかしそれではその歩き方の違和感を上手く言い表せていないようにユカリは感じた。理由を尋ねるのはもう少し様子を見てからにする。
マルガ洞前の祈りの広場から、石切場に挟まれた道がまっすぐに続いていて、そこを出るとすぐに人跡を見出した。苔生した皿のような緑の太陽のせいで妙に色づいて見えるが、畑らしきものが広がっている。おそらく芋か何かの根菜だろう。しかし土を覆う葉の具合だけ見ても発育不良だと分かる。痩せているうえに、畝の間でもないのに土が見えるくらい葉が少ない。葉を覆う奇妙な斑点はそういう品種だと信じたかった。
そして略奪者も見過ごしそうな貧相な畑の向こうには侵略者も憐れむ不景気な集落がある。それをユカリは、羽根が抜け落ちて腐りゆく死骸を観察するような気持ちで眺めた。
クヴラフワ衝突の前までは立派だった街だ。忌まわしい年が訪れるまでは活気に溢れ、東西から集まった行商人の溌剌とした呼び声と様々な図柄の銀貨が飛び交っていた。蛇か蚯蚓のようにのたくった長屋の間で、永遠を信じる素朴な子供たちがさんざめいて駆けまわる。行き交う幌馬車、辻に立つ占い師、神々のための祭りの日には派手な衣装の大道芸人と古い夢を携えた吟遊詩人がやってきて街を賑やかしたのだ。
しかし戦後、呪いに苛まれた長い年月、街は邪な風雨と奇妙な陽光に晒され、今では朽ちるに任されている。保全の叶わなかった建物は高い建物から順に崩れていった。神々に捧げられた鐘楼は圧し折れて、祈りの届かない土地に現れるという不吉な鳥が飛び交っている。枯れた貯水池の水門は崩れ、渇いた水底の罅からは誘うような囁きが聞こえた。為政者の逃げ出した屋敷には、クヴラフワの外であれば沼沢に隠れ潜んでいるだろう化生の輩が我が物顔で棲み着いている。
死んで、斃れて、魔性に啄まれる街に、それでも人々は苦汁を舐めて生きている。荒れた大地の痩せた芋を齧り、枯れた川床を掘って泥を啜り、馬鹿げた太陽もどきを頼りに、呪いを退けているという洞穴に祈りを捧げながら。
カルストフ含むシシュミス教団の神官たちはあいかわらず疑わしげな眼差しをユカリに向け、監視しているようだった。元々彼らは誰かや何かを警戒しているのか、あるいは単にこのような土地にふらりと立ち寄ったなどと嘘くさい説明をする旅人を用心しているだけなのか。ユカリには判断がつかない。
何はともあれ、遠からずマルガ洞に侵入することになるだろう、とユカリは考える。場合によっては隙を見て、忍び込むことになる。それまで無闇に彼らの警戒心を高めても仕方がない。
「ここは何という街なんですか?」と誰にとはなしにユカリは尋ねるが、誰も答えてくれない。
助けを求めるように視線を彷徨わせ、たまたま目のあった老人が尋問に屈して観念したかのようにぽつりぽつりと答える。
「金槌の音の街と。もう街を訪ねる者もありませんが。そのうち私らも忘れてしまいそうだ」と老人が言うと周囲で喘息のような笑い声が漏れる。
「いったいどこから来たんだろう」「東と仰っていた」「東にあるのは忌々しい残留呪帯だけさ。北も南もだがな」
「あの年で魔法使いとは」「あの年で旅人ってことの方が驚きさ」「まだ旅なんてものがあったのか」
「クヴラフワを救うとよ」「解呪するってな」「外がまだあったんだね」「教団さんの話に聞いたろ」「それも聖地の話だけ」
独り言のようにも聞こえたが、ユカリは辛抱強く相槌を打ち、問われたと見なして答え、時に励ました。多少は心を開いてくれたようにユカリは感じた。
一方で、外であれば働き盛りの世代、呪われたクヴラフワしか知らない世代はまるで御伽噺でも聞いているかのような反応だ。老人たちよりはクヴラフワの外に関心を持っているようだ。しかしながら老人たちよりも強い警戒心を持ってもいるようで、聞き耳を立てつつもユカリから距離を取っている。子供はあまりにも少ない。
ユカリと話している時よりも住人同士で話している時の方が余所余所しい振舞いであることにユカリは気づく。何故だろう。警戒の故だろうか。
元は何かの小動物を飼っていたらしい腐朽した小屋の前を通りかかる。その時、うら寂しい廃墟の物陰から黒い影が飛び出してきた。這いずる闇としか形容しようのない、心胆を寒からしめる何かだ。それは両目に緑の光を灯し、全身を蠢かせ、集団の方へ這いずってくる。ユカリは驚き、杖を構えるが、周りの誰も何の反応も示さない。悲鳴をあげるどころか、存在に気づいていない様子だ。
「何? 何ですか?」
ユカリが驚きのあまり言葉を見つけられないでいる内に這いずる闇は集団から距離を取りつつ回り込み、後ろの方を進んでいた子供を一人呑み込んで這いずり去った。
しかし誰も何も言わない。
「あれはなんですか!? 『這い闇の奇計』じゃないんですか!?」呆気に取られていたユカリもようやく怒鳴るように尋ねる。「子供が一人無理矢理攫われたように見えたんですけど!?」
少し前を行くカルストフが驚いた様子で問う。「『這い闇の奇計』が見えるのですか!?」
「立ち向かう!? ドークがいない!?」と攫われた子供よりは年上の若者が叫んだ。
問答している場合ではないようだ。ユカリは元来た道を戻って駆けだす。神官たちが何人かついてきた。しかし信徒たちの方はようやく騒ぎに気づいた様子だった。
かつてメグネイルの街の郊外だった最も外側の廃墟、街と荒野の境界まで戻った辺りで、どよめく怒声のような甲高い悲鳴のような声が聞こえた。声の聞こえた方向に目をやるが薄暗い荒野には何も見えない。ユカリは魔法少女の杖を踏みつけて、神官たちを置いて上空へと飛び上がる。
遥か高みからようやく見つけたドークの姿は上半身だけだった。もがいて暴れるドークの下半身は地面を波打つ闇に呑まれ、闇は暴走する獣のように石切場の方へと急ぎ、ドークを運び去ろうとしている。
まさに『這い闇の奇計』と呼称するに相応しい呪いだ、とユカリは思いながらドーク目掛けて獲物を見定めた猛禽の如く斜めに降下する。杖に膝をかけ逆さまになってドークに両手を伸ばす。ドークは飛来するユカリに気づき、驚き、しかし迷わず手を伸ばして、ユカリにつかまった。
ユカリがほとんど抵抗なくドークを引っ張り上げると『這い闇の奇計』は感情の読めない緑の光の眼を洞窟の方へ向け、這いずり去っていく。
ユカリはドーク少年を杖の後ろに跨らせて、その体の軽さに驚く。ユカリと歳も近く、未だ芯は細いが、呪いの土地でなければ次第にその瑞々しい肌を張り詰めさせ、臓腑の奥懐の青々とした魂に熱が籠り始める年代だ。暗い面差しだが絶望は感じさせない。その眼差しはずっと遠くを、行くべきところを見つめている。
「大丈夫?」とユカリは尋ね、少年の両足が無事にぶら下がっていることを確認する。
「ああ、助けてくれてありがとう。ユカリさん。あんたに質問したいことが山ほど思い浮かんで、つい油断しちまってたよ。油断してなくたってどうしようもないけどね」
「それは、なんか申し訳ないね。あれが『這い闇の奇計』で良いんだよね?」
「ああ、そうさ。たぶんね。時々やってきて、人を攫うらしい。あるいは呑み込むらしい」
「らしいらしいって、今まさに攫われてたでしょ?」ユカリは呆れた風に首を傾げる。
ドークは曖昧な笑みを浮かべて答える。「まあ、そうなんだろうけど。闇の中の闇なんて見えないからな。戦時中にライゼン大王国が敵兵の視界を奪うために放った呪いらしいけど」
「闇の中の闇? どういうこと?」ユカリは八つの太陽もどきを仰ぎ見る。「この緑がかった明かりは弱々しいけど、闇というには大袈裟だよ」
「何だ? 嫌みか?」ドークが唇の端を吊り上げる。「俺は神官じゃなければ、あんたみたいな魔法使いでもない。『這い闇の奇計』も空も地面も何も見えねえよ」
ようやくユカリは全てに合点がいく。彼らの振る舞いは、歩く姿や目を合わせない様は盲いた者のそれだ。実際には目が見えないわけではなく、闇の呪いによって見えないのだ。当然闇の中の『這い闇の奇計』も見えないという訳だ。
八つの緑の太陽も薄暗い空も寂れた街も全てが、この土地に住む人間にとっては暗闇の向こうに隠れているのだ。それはきっと松明も蝋燭も無力となる呪いなのだろう。
なぜそんな大事なことを教えてくれなかったのか。それは、たとえ余所者でも、この土地を訪れておいて、そんな大事なことを知らないはずがないから、だろう。
魔法少女ユカリはその事実をきちんと理解するために変身を解いた。するとユカリの本来の姿が顕れる時と同様に、一瞬の内に辺りが暗闇に包まれた。呪いの暗闇だ。魔法少女に変身していたからこれに気づかなかったのだ。
ドークが慌て、ユカリの背中に縋りつく。「おいおい、どうした? 突然光を消しちまって、それに体が大きくなったな。魔法の力が切れちまったのか?」
ようやく事態を理解し、ユカリは再び魔法少女に変身して、縮んだ体でため息をつく。「ごめん。ちょっと勘違いしていたみたい。このラゴーラ領は闇に呑まれているんだよね?」
「ああ、そうだが。それを知らないでいたのか? ラゴーラを旅していて? 逆にすごいな」
死にかけたかもしれない、にしてはドークは既に落ち着きを取り戻し、朗らかに話している。
「失礼に聞こえるかもしれないけど、あまり怖がっている風には見えないね。辺りが見えないことも攫われたことも」
ドークは豪快に笑った後、少し寂しげに返す。「怖くないわけないさ。お客さんの前だから強がってるってのもある。慣れてしまってるってのもある。今までにも沢山消えちまったし、生まれた時から神官以外何も見えないからな」
暗闇に対する恐怖は鈍麻しているらしい。クヴラフワ衝突の後の世代、ドークたちにとっては生まれてからずっとこうで、これが当たり前なのだ。暗闇は不便かもしれないが、彼らの『這い闇の奇計』の受け止め方は、時折人の野を荒らす天災に対する感じ方と変わらないのだろう。
「そうそう、さっきは言い忘れたけど、攫われたうえで数日後か数か月後に戻ってくる奴もいるな」とドークはなんでもないことのように伝える。
「その人たちは攫われた先で何か見聞きしたの?」
「いいや、誰も何も」ドークはユカリの為に役立ちそうな知識を懸命に思い出そうとしてくれている。「ただそういう人たちは特に敬虔になるな。神様が助けてくれたんだとさ。笑えるだろ? こんな真っ暗闇に閉じ込めておいて助けるも何もあるかってんだ」
ドークを連れてメグネイルの街へ戻ると皆が喜んでくれた。喜んでくれたのだが、その喜びにさえ活力を感じない。当たり前の日常だとでもいうのだろうか。人の命が助かったことがささやかな幸せだとでもいうのだろうか。
改めて人々をよく見る。見る限りでは、ドークが最年少のようだった。
皆に合流する前に、「『這い闇の奇計』はいつも西から来るの?」とユカリはドークに尋ねた。
「ああ、そうだよ」とだけドークは答えた。
『這い闇の奇計』はマルガ洞から来ているのではないか、とユカリは考える。石切場の方へ逃げたのだ。他に考えられるはずもない。