山の中はすこぶる不気味だった。
やはり昼間だというのに陽が差し込んでこないためか薄暗い。
何もかもが死滅してしまったかのように一切の音が聞こえてこない。唯一聞こえるのは、風がごうごうと唸る音だけだ。
慎重に足を運んで滑落や獣に備える。少しでも油断しようものなら本当に化け物でも現れて、とって喰われてしまいそうな物々しい雰囲気が辺りに立ち込めていた。
周囲を見回す。鬱蒼と樹樹が立ち並び、土や葉のにおいが鼻腔を刺激する。
ロウムは気分が悪くなった。
思い返せば、今朝方から不吉な出来事しか起こっていなかった。
リアム、アルゴ、リンの3人が山へ入ってしまった挙句、その山は因縁が付きまとっている。
化け物が棲むという名もなき山。
化け物は確かに存在した。あの日から、今に至るまで。
汗が額を伝って落ちてくる。暑さや疲労によるものだけではないだろう。その水滴は身体中がぞっとするような冷たさだったからだ。
「ギエエ、ギエエ」
けたたましく羽音が響いたかと思うと、枝がパキッと折れて葉がひらひらと舞い落ちてきた。
ロウムはぎょっとして身構えたが、枝に止まっていた鳥が飛び立っただけだった。
呼吸を整えてからまた歩き出そうとした。しかし、そこであることに気付いた。
「これは」
鳥が飛び立った木にはナイフで切りつけたような跡があった。
よく観察すると、その近くの木にも傷跡がある。地面には一定間隔で大きめの石が置かれていた。
「間違いない」
ロウムは歓喜した。これは道に迷わないためにリアムが残したものだろう。
これを辿っていけば、リアムの足取りが分かるということだ。
ロウムは登り続けた。
段々とクリプトンたちがいた辺りまで近付いてくる。
つまり、もう既に山の中腹まで来ているということだ。子どもの足では山頂に行くのも難儀だ。そろそろ姿が見えていい頃だが……。
不安はますます膨らんでいった。
その時。
「誰か助けて」
遠くから女の声が聞こえた。
ロウムはがむしゃらに走り出した。
「誰かそこにいるのか」
怒鳴りながら必死に声をかける。姿は見えない。
「返事をしてくれ」
「ここよ」
ロウムは立ち止まった。
正確には、動けなかった。何かに動きを阻まれたわけではない。
金縛りにでもあったように全身が硬直してしまったのだ。それはロウムの直感や本能といった無意識下による反応だった。
ロウムは思った。
なぜこんなところに。なぜこんな声がする。
だんだんと危険信号を発していることだけはわかる。
ロウムが感じたあらゆる一切の不吉な正体は、いま背後にいる。
女と思しき声は背後から聞こえたのだ。
口が渇いた。
「お前は、本当に人間なのか」
「はい」
声が返ってきた。さっきよりも近づいてきている。
「私はそうは思わない。人の声をした別物に聞こえるのだ」
声は返ってこない。しかし、気配がぴたっと止まったように思う。
「確かに言葉を喋っている。そして、私はその声を知っている」
空気がぴりぴりと緊張している。
「お前は何者だ」
ガサガサガサガサ。 地面に落ちる葉が騒々しく鳴った。勢いよく「何か」がこちらに走り出してきたことがわかった。
ロウムは振り向いた。
そして。
「お前は」
「リンよ」
声の正体はリンだった。
枝のように細い身体。しかし、目元ははっきりとした意志の強さが伝わる少女。
どこかかつてのコバルトを彷彿とさせる。
彼女も意外と頑なな一面があった……。
ロウムはリンと向き合う。
そして、言った。
「お前だったんだな」
「何が?」
「お前が、リアムとアルゴをここへ呼んだんだ」
ロウムは目を逸らさずに睨みつけた。 リンは顔色一つ変えない。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
無限のように広がる静寂。しかし、確かな答えが加速度的に伝達され続ける。
先に口を開いたのはリンだった。
「どうして?」
「お前は今、ありえないことをしたんだ」
「ありえないこと?」
「まず第一に、山へ一度も入ったことのない少女が中腹まで来られたこと。それも、陽が登っても薄暗い山をそう変わらない時間差で私より早く来ていた。これは、山は何度も入ったことのある者にしかできない芸当だ。山へ入ったのは一度じゃないな?」
リンは髪をいじっている。何の悪びれた様子もない。
ロウムは続けた。
「第二に、アルゴが山へ入ったこと。アルゴは化け物の噂を信じる迷信深い性格だ。それも占い師の婆さんからは忠告を受けている。とてもじゃないが、山へ入るような度量はない」
「それがどうしたの?」
「そそのかしたんだ。お前がな」
「私が?」
「そうだ。アルゴはお前のことを好いていた。そして、リアムもそうだった。それは、はたからみれば誰の目にもわかる。お前はそれを利用した。リアムは勇敢な性格だから化け物のことを知れば、必ず山へ入る。そして、肝心のアルゴを動かすにはどうするか。簡単さ。リン。お前が怯えさえすればいい」
「私が怯えたからと言って、アルゴが山の中へ入るとは思えないけど?」
「入るさ。なぜなら、勇敢なリアムが山へ行くことはアルゴにも容易に想像がついたからだ。そして、化け物がいることを信じていたアルゴに対して、化け物を退治してくれた勇敢な者にどれだけ感謝するか、どれだけ好きになるか話さえすれば良い。要はアルゴに対抗心を燃やさせたんだ。だからアルゴは次第に山へ入る恐怖心とリアムにリンがとられてしまう恐怖心に葛藤した。恐怖を闘わせた結果、アルゴはリンを選んだ。……あの時、お前はリアムとアルゴの両方に積極的に話しかけていたな。話した内容はそれぞれにしかわからない。だから確証はない。だが、こういった筋書きも考えられるわけだ」
「そう。何の確証もない。ねえ、それで何が言いたいの?」
ロウムは続けた。
震える声で。
「第三に、お前がクリプトンの娘だということだ」
「はあ。なんだ」
リンは冷たい声で言った。
「全部バレてたんだ」
ロウムはすべてを投げ出したくなった。
リンの生い立ちはよくわからない点が多かった。
誰の子か定かでなく、いつの間にか村の間で育てられた子であった。
しかし、それはある事実を意味していた。
誰もが深くは触れず、親元を明らかにせぬまま村人が協力して育てる子。
親元を触れるのは禁忌にされている子。
そんな口封じができるのは権力という名の秘密を握っていたクリプトンだけだった。
リンはクリプトンの隠し子。その事実は言葉にせずとも知れ渡っていた。
しかし、リンは表面上、親に似ずとても誠実な良い子として育った。
その心根を知る者は誰一人いなかったが、リン本人は自身の心中にどす黒い闇が広がっているのを自覚していた。
そう、あの名もなき山のように。
「リアムは、リアムはどうしたんだ」
ロウムは叫んだ。
「アルゴは? あの二人はどうなったんだ」
「死んだわ」
「何だと?」
「私が殺したの。二人とも」
ロウムは崩れ落ちる。なんてことだ。なんでこんなことに。
その様子を見てリンは鋭く言い放った。
「あなたが殺したからよ。私のお父さんを」
「あ、ああ…。なぜ、それを」
「私を誰の娘だと思っているの? 私はね。真実を知るためなら何だってしたわ。この山へ入るのも躊躇わなかった」
そこでリンは目を伏せた。
「唯一、私がお父さんと違ったのは、あんな迷信を信じていなかったってこと。でも、お父さんは違った。信じてしまった。あんなくだらない妄想を」
「まさか、だからアルゴを……」
「そう。そもそもあの占い一家のせいで私のお父さんは死んでしまったの。あんな迷信を広めたから、不幸になる人が増えるんだわ」
リンはため息をつく。何もかもが嫌になったような顔だ。
風が騒ぐ。葉がひらひら落ちてきた。
何もかもが落ち着かなかった。
「もちろん、リアムも許せなかった。あなたが私のお父さんや他の狩人を殺したんだもの。大罪人よ。当然の報いだわ」
「き、貴様」
ロウムは自身の怒りが間違っていることに気づいていた。当然、目の前にいるリンも歪んでいる。
しかし、何も反論できなかった。
リンの実の父を含め他の狩人を殺した挙句、そのことを今まで黙っていたのは真実なのである。一体、何と言えば良いというのだろうか。
それでもリアムを殺したというリンの言葉には我慢できなかった。
最愛の妻の死に加え、リアムまで……。
ロウムは手に持つ槍に力を込めた。
「私を殺すの? 別に良いわよ。それであなたが満足なら、私の計画は大成功よ」
「計画だと?」
「そう。計画。私はあなたに復讐がしたいの。私のお父さんを殺した報いを受けてほしいの。それともう一つ」
「もう一つとは、なんだ」
「あなたに絶望してほしいの」
その瞬間、後ろから草木を分ける音がした。かと思えば、ロウムは背中にナイフを突き立てられていた。
「ぐあっ」
後ろを振り返る。
そこにいたのは。
「リアム」
リアムは絶望していた。