テラーノベル
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昼休みの休憩室は、奇妙なほど平和だった。外のフロアで響く怒号の残響は届かない。自販機の低い振動音、電子レンジの規則正しい回転、プラスチック容器の蓋を剥がす乾いた音――すべてが小さな静寂を作り出していた。壁一枚隔てただけで、まるで別の建物に移動したかのようだ。
彼女は窓際の席に座っていた。紙コップのコーヒーを両手で包み、視線は宙の一点に固定される。外の光が柔らかく差し込み、紙コップの輪郭をわずかに光らせる。彼は少し迷い、それから向かいの席に腰を下ろした。椅子の脚が床をかすかに擦る。その微かな音が、二人の間の沈黙を際立たせる。
「……今日、大変でしたね」
できるだけ自然に、軽く声をかける。彼女は目を上げ、穏やかに微笑んだ。
「慣れてますから」
いつもの言葉。しかし、通話中よりもわずかに柔らかい。微かな弾力を帯び、空気に溶け込む。
「ブラックリスト最上位、ですよね」
「ええ」
「四十五分……」
「そのくらいでしたか」
まるで天気の話のような調子で交わされるやり取り。その間にも、視線や微細な呼吸が互いに影響し合う。彼はコーヒーの蓋を指先でなぞる。円を描くように、ゆっくりと。
「私、見てました」
彼女の指が、わずかに止まる。
「……そうですか」
「すごいなって、思ってました」
本心だ。しかし、それだけではない。言葉の裏に、彼女を理解しようとする意志が含まれる。
「でも」
彼女がゆっくり視線を上げる。真正面からの視線は、逃げ道を与えない。
「……少し、嬉しそうでした」
沈黙が落ちる。電子レンジの終了音が遠くで鳴る。彼女は瞬きをする。
「嬉しそう、ですか」
「違いますか」
問いというより、確信の確認。その視線の圧力に、言葉の端が揺れる。彼女はコーヒーを一口飲み、時間を稼ぐ。微かな動作が、彼女の内面を測る手がかりになる。
「怒鳴られて、嬉しい人はいませんよ」
正しい答え。しかし、彼は引かない。
「口元、緩んでましたよ」
彼女の喉がかすかに動く。吐息の震えは微細で、見過ごせる程度だが、彼には明らかだ。
「……気のせいです」
「よだれも出てました」
静かに、しかし決定的に言葉が落ちる。彼女の呼吸が止まり、視線はテーブルに落ちる。否定は出てこない。代わりに、長い吐息が空間に広がる。
「見られてたんですね」
観念した声だった。彼は頷く。責めるつもりはないが、曖昧にはできない。
「どうしてですか」
問いは、彼女の胸の奥に直接触れた。彼女は両手を組み、しばらく動かない。言葉を選んでいるのではない。言葉にしてしまえば、後戻りできないことを知っているのだ。
「……怒鳴られている間だけ」
ゆっくり口を開く。
「自分が、空っぽになれるんです」
彼は息を呑む。
「空っぽ?」
「はい」
視線は上がらない。「期待も、評価も、信頼も――全部、剥がれていく」その声音は穏やかだ。役に立たないと否定されるたび、少しずつ軽くなる感覚。
「”鬼”って呼ばれるの、重いんです」
初めて聞く本音。強いとか、すごいとか、期待されるほど息が詰まる。しかし怒鳴られているときは違う。役立たずで、最低で、頭がおかしい人間でいられる。その瞬間、何も背負わなくてよい。
「踏みつけられてるほうが、気持ちいいのです」
小さく、静かに告げる言葉。卑屈でも自虐でもない。ただの事実として、彼女は語る。
「……それって」
彼は言葉を探す。異常か、危険か。彼女は首を横に振る。
「分かってます」
少しだけ自嘲が混じる。「普通じゃないですよね」
「普通かどうかは……」
基準が急に曖昧になる。怒鳴られている間だけ愉悦に浸れる。それが彼女にとって、唯一の安息であり、均衡の取り方なのだ。
「終わると、寂しくないですか」
気づけば彼は聞いていた。
「少し」
目を伏せ、わずかに間を置く。「もう少し続いてもいいのに」と素直に思う瞬間。
この告白は、思いのほか無防備で、冷たいものが彼の背筋を走らせる。これは一時的な癖ではなく、習慣でもない。依存だ――怒りという圧力に身を預ける依存。
「誰にも言わないでください」
不意に、彼女がまっすぐ視線を向ける。
「引かれるのは、いいんです。でも、距離を置かれるのは……きつい」
腫れ物のように扱われる未来。それだけは避けたい。彼はゆっくり頷く。
「報告はしません」
「ありがとうございます」
その一言で、彼女の肩がわずかに落ち、安堵が生まれる。しかし同時に、彼は気づく。自分は今、彼女の秘密を守る側に回ったのだと。
チャイムが鳴る。昼休み終了。二人は立ち上がり、出口に向かう途中、彼は小さく言った。
「無理は、しないでください」
彼女は振り返り、静かに微笑む。
「大丈夫です。そして、こうやってバランスを取っているだけですから」
壊れているわけではない、と言外に示す。しかし彼には分かる。これは均衡だ。怒りで削られなければ保てない、危うい均衡。フロアに戻ると、着信音が再び鳴り響く。彼女は席に着き、ヘッドセットを装着する指先がわずかに速い。
次の怒号を、待っている。彼は隣のモニターを見つめ、あの番号が表示されないことを祈りながら――同時に、もし表示されたなら、彼女がどんな顔をするのか知りたい自分にも気づいていた。
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