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その少女は冬に相応しい分厚い旅の装束を着ている。灰褐色のそれは鹿の毛皮だろう。そして売り子のような大きな手提げ籠を持っている。防寒帽から明るい茶髪が伸びていて、凛々しい眉の下の翳りない眼差しが真っすぐにユカリを見据えている。
ユカリが立ち上がって、その少女を出迎えた。
「いったいどうしてこんなところに? ええっと、お名前なんでしたっけ?」
やってきた少女は三人を一人一人じっくりと眺めた後、ユカリに言った。「あたしのこと、覚えていてくれたんだね。だけど前に会った時、お互い名乗ってないよ。オンギ村の背高の姉さん。三か月とちょっと振りだね。ここに来たのはたまたま、行商の途上だってだけさ。それより、火にあたらせてもらっていいかい? 寒いったらありゃしない」
誰かが何かを答える前に、少女は火のそばに行って腰を下ろし手をかざす。
レモニカは少女に近づきすぎないように、しかし無礼にならないように退く。突然化け物が現れて混乱を生まない例はない。
ユカリは忘れていたことを思い出したのか小さなため息をほっとついて言う。「そっか。名乗ってなかったっけ。あの時は助かりました。色々と、その、問題が解決しました」
自分から喋っておいてはぐらかすようなユカリの言い方に対して少女は目を細めて答える。「背高の姉さんが良かったなら良かった。あたしにとってもお駄賃分の働きができたってことさね」
「もちろん」そう言ってユカリは少女に手を差し出す。「わたしはユカリです。ミジームの街からここまでやってきたんですか?」
「へえ、ユカリ」少女は何か知ったような笑みを浮かべ、ユカリの手を握り返す。「ミーチオンの人間にしては珍しい名前だね」
「ミジーム?」ベルニージュが驚いて発し、そして少し警戒するように声を落とす。「ミーチオンからここまで来たって言うの?」
少女はベルニージュに目を向けて首を傾げる。
「おかしいかい? それはあたしとユカリでお互い様だよ。あたしの名前は紫燕。ミーチオンでは大して珍しくもないラミスカ。姉さんたちの名前も聞いてもいいかい?」
「ラミスカ、ですか」とユカリが呟く。他の三人の続きを待つ表情を見て、ユカリは慌てた様子で付け加える。「確かにミーチオンでは珍しくない名前ですね」
続いてベルニージュが名を名乗ったのち、レモニカは少し迷ってやはりケブシュテラと名乗った。
ラミスカは明確に疑いの目をレモニカに向ける。「ケブシュテラ? 本名? 忌み名? しかし何でまた焚書官様と一緒に?」
「ああ、いえ」ユカリが慌てた様子で答える。「たまたま道行きが重なって」
「へえ」ラミスカは目を眇める。「まあ、いいや。よろしく。ベルニージュとケブシュテラ。それにしても、あいもかわらず」
ラミスカは少し険しい表情になってユカリから視線を降ろす。足を見ているようだ。
「だって、ここは街中じゃないですし!」とユカリは何かを言い訳するように言う。
「いや、そもそも、姉さん、こんな季節にそんな恰好で寒くないのかい?」とラミスカは呆れた様子で言う。
この季節にしては、ユカリはとても寒そうな恰好をしている。狩り装束の裾をまくり、他には何も羽織っていない。見ているだけで震えてくる。
「まあ、冬ですから、寒いことは寒いですけど。まだ平気です」とユカリは答える。
平気なんだ、とレモニカは心の内で呟いた。ベルニージュは声に出して呟いた。
「それで良いのなら良いけどさ。あたしはもう何も言わないよ」ラミスカは観念したように言う。
「ラミスカさんは、行商人だったんですね」ユカリは安心したような落ち着いた声音に変わる。そしてベルニージュとレモニカに説明するように付け加える。「前に会った時は針と糸を売ってもらったんだよ」
「あと不思議な話を売ったね」とラミスカは言い足す。
「てっきり、ミジームの街で暮らしているのかと思ってました」とユカリは言った。
「親の代から行商人でね。生まれたのはミーチオンだけど、育ったのはグリシアン大陸中だよ」
「これからどこへ行くんですか?」とユカリは尋ね、北に目を向ける。「あっちから来たってことはマデクタ?」
「ご名答。街から街へ、港から港へ、気の向くままさ」ラミスカはそれが自分の逃れ難い宿命だとでもいうように語る。
ベルニージュが言葉を挟む。「つまりその籠に入った品を街で売り、売上から新たに商品を買って、次の街へってこと? そんな小さな籠で売れる商品の売り上げなんてたかが知れてると思うんだけど、本当に成り立つの?」
ベルニージュの疑いはもっともだとレモニカは思った。大陸を横断するような隊商をレモニカは何度か見たことがある。えてして多くの馬や駱駝を伴って大量の商品を運搬するものだ。
このような子供のお使いみたいな恰好で大陸を巡ることなど可能なのだろうか。あの籠に宝石が詰まっているのならともかく。
「目利きには自信があるんでね。どんな街にも何かしら掘り出し物があるものさ。何なら買ってってよ」そう言って、ラミスカは籠を差し出す。
ベルニージュが立ち上がり、挑むように籠を覗き込む。途端にその表情はめくるめくように様変わりする。甘い菓子を前にした子供のように、目を眇めて火の温度を確かめる鍛冶屋のように、金銀財宝の眠る土地の伝説を聞いた冒険者のように。
「綺麗な硝子筆。どこの品? それに屍の灯。よくもこんなの手に入れられたね。それに、これは……『工房構築論』!? しかも優しき御子の写本!? どうして? 巻雲都市焼き討ちで全て失われたとされてるのに。何でこんなもの手に入れられたの?」
「もちろんあんたに売るために頑張ったのさ」とラミスカはにやりとしておためごかしを言う。「安くしとくよ」
ベルニージュが勢いよくユカリの方を振り返って懇願する。「買ってもいい? ユカリ。絶対に今後二度と手に入らないんだよ! お願い!」
「え? 旅費から? いくらなの?」ユカリは驚きつつ、ラミスカの提示する金額を聞く。
そうして渋い顔をしつつもベルニージュの懇願を跳ね除けられず、『工房構築論』を買った。
ベルニージュは他に人がいることも忘れたかのように、子供のように喜び飛び跳ねながら再び倒木に座って、買ったばかりの本を開く。
売上を小さな背嚢に片づけながらラミスカは畳みかける。「姉さんたちも何か買いなよ。安くしとくよ」
「安くしなかったらさっきのはいくらだったんですか?」とユカリは愚痴る。「いや、いいです。言わなくて」
ユカリも籠を覗き込む。レモニカもラミスカに近づきすぎないようにしつつ、ユカリの横から覗き込む。
硝子筆は複雑にして流麗で、確かに特に目を引く品物だ。屍の灯は黄ばんだ蝋燭のことだろうか。それにベルニージュの気を引いた物以外にも様々な品があった。訳の分からない文字の書かれた布切れ。輝かしい紅玉の嵌め込まれた指輪。素朴な組紐。土の入った硝子瓶。干からびた魚。清潔な麻布。古びた革袋。前にユカリが買った物と同じ物かは分からないが針と糸もある。
ユカリはあまり関心を見せずに呟く。「何か買うとすれば色々と便利な麻布くらいですかね。その革袋の中身は何ですか?」
「砂糖だよ。甘いよ」
「間に合ってます。ケブシュテラは何か欲しいものある?」
レモニカは首を振る。欲しいものなど何もない。
「そういえば」とユカリは遠いどこかを見るような目で語る。「屍の灯はうちにもありましたね。灯すと白い人影が見えて、あれって何なんですか?」
ラミスカが黄ばんだ蝋燭を取り出して、目の高さに掲げる。
「これはね。亡くなった人の姿を見ることのできる魔法の蝋燭さ。もちろんただの幻だけれど、ある土地では故人を偲ぶのに使われるんだ。冒涜的だとして使用を禁じている街もあるけどね」
ユカリはさっきのベルニージュのように目を輝かせる。
「じゃあ、レブニオンやキミシュカの姿を見ることもできるんですか?」
キミシュカはレモニカも知っていた。グリシアン大陸南方の閉ざされた国狭いの古き英雄だ。妬みに憑りつかれた古王国や悪鬼の軍勢を滅ぼしたという戦士だ。
「その人が本当に亡くなってるならね」とラミスカは答える。
「本当に亡くなってるなら?」とユカリは繰り替えす。「本当に亡くなっている人しか見えないんですか? そして亡くなっている人の姿を必ず見れる?」
ラミスカは頷き、微笑む。「そうだよ。そういう魔法だもの」
「一つください」とユカリは迷いを振り払うように言った。「使い方を教えてくれますか?」
「まいどあり。使い方は簡単さ。故人を思い浮かべて火をつける。一本の蝋燭につき一人だけだからね」
ユカリは屍の灯を買うと、焚火の方を振り返り、跪く。屍の灯を握ったまま目を瞑って。故人を思い浮かべているようだった。そして決心したように、焚火にかざし、黄ばんだ蝋燭に火をつけ、倒れないように蝋を垂らして地面に据える。
すると蝋燭は黄みがかった大きな火をともし、勢いよく白い煙を吐き出す。煙は宙に散ることなく、意志を持っているかのように焚火の上で渦巻く。
レモニカもまた息を呑んで、ユカリのそばでその光景を眺める。ユカリの想う故人を他人の自分が見ても良いものか迷ったが、ベルニージュも本から顔を上げて成り行きを見守っていたので、良いだろうと思うことにした。
屍の灯は次々に白煙を追加し、空中に渦巻かせる。蝋燭は瞬く間に半分を消費していた。煙は塊になって蠢くばかりで中々形にならない。蝋燭を全て使い切るまでは煙が足りないのだろうか。そしてとうとう全ての蝋燭を使い切り、白煙は何の形にもならず、そのまま空中で霧散して消えた。
レモニカはどう思えば良いのか分からず、何もない空中からユカリの横顔へと視線を移す。するとユカリは両手で顔を覆い、腰を追って地面にひれ伏すようにして、さめざめと泣いた。
ベルニージュが本を片づけて、ユカリの元へ来て声をかけ、焚火から離れるようにして倒木に座らせた。その間、ずっとユカリは静かに泣き続け、倒木に座ってからもずっと胸を締め付けられるような声で泣いていた。