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──とぷん
鈍く
しかし澄んだ水音が鏡の奥から響いた。
鏡面の水が波紋を描くと同時に
黒く揺れるその中心から──
白く細い腕が、するりと伸び出す。
ライエルの前に突き出されたその腕は
まるで蛇のように滑らかに動き
彼の手首を掴んだ。
「まって、アライン!何を──⋯っ!」
掴まれた瞬間
水面が液体から深淵へと姿を変える。
次の瞬間
鏡の中の闇がライエルの身体を飲み込み
足元から肩まで
静かに、確かに引きずり込んでいった。
その意識もまた、水底に沈むように
深く、深く──消えていく。
そして、水飛沫のように一瞬の光が跳ねる。
水面を突き破って
逆に現れたのは──
アラインだった。
表情は微かに微笑み
濡れたような髪の隙間から
アースブルーの瞳が光る。
その姿には
もはや戸惑いも哀しみもなかった。
あるのはただ──
ー確固たる〝自分〟という意志のみー
⸻
室内に紫煙の香りが満ちる。
まだ月明かりのみの薄暗い時刻。
ソーレンはスマートフォンを手に
無言で画面を眺めていた。
薄明かりの中で浮かび上がるその横顔は
何を見るでもなく画面を見つめている。
そして、その肩に──
小さな頭が寄りかかっている。
青龍だった。
病み上がりのせいか
珍しくソーレンに凭れかかり
スースーと寝息を立てていた。
それを追い払おうとする素振りもなく
ソーレンはただ無言のまま肩を貸している。
その穏やかな情景にそぐわぬものが──
静かに、シーツの下で蠢いていた。
ベッドの中。
眠っていたはずのライエル──
その口元が⋯⋯ゆっくりと歪む。
ほんの一瞬、笑みが弧を描いた。
そして、その指が──
パチリと音を立てて鳴った。
⸻
翌朝。
居住スペースのリビングは
朝の光に照らされていた。
キッチンから漂う
焼きたてのパンと香ばしいコーヒーの香りが
空間を柔らかく包み込む。
ダイニングのテーブルには
手の込んだ朝食がすでに並べられていた。
その中央で、時也はいつものように
丁寧な所作で最後の仕上げに手をかけていた。
そこへ──階段を降りてくる気配。
時也は振り向き、穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます。〝アライン〟さん」
階段を降りてきたのは
長い黒髪を一つに束ねた青年──
アースブルーの瞳をした
どこか妖艶さすら漂う男だった。
「ふぁー⋯⋯おはよう、時也。
〝今日も〟美味しそうな朝食だね?
ボクも食べていっていいかい?」
屈託のない笑みと共に椅子を引き
テーブルに着くその仕草には
何の曇りも躊躇いもなかった。
「もちろんです。
バーのお仕事も忙しい中で、昨夜は⋯⋯
〝フリューゲル・スナイダー討伐に
ご尽力いただきまして〟
ありがとうございました!」
時也の声は変わらず丁寧で
しかしどこか、深い敬意を込めていた。
「⋯⋯はよ」
ソーレンが
ボサボサの髪を掻きながら
無愛想に挨拶を返す。
「おっはようございまーす!」
レイチェルは明るく
朝の空気そのもののような声で
挨拶を響かせた。
「おはようございます、お二人とも」
時也は降りてきた二人に視線を配りながら
温かく応じる。
「おはよう。眠そうだねぇ、ソーレン?
二日酔いかい?」
アラインがにやりと笑う。
「おめぇが酒強すぎんだよ⋯⋯
でも、時也とお前がハンターの
〝親玉をぶっ飛ばした〟話は面白かったな」
ソーレンは苦笑しながらコーヒーを手に取る。
「アリアさんが危険な状態だって
急に時也さんが桜になって消えちゃって⋯⋯
私とソーレンはお留守番だったもんね」
レイチェルが
スプーンをくるくると回しながら笑う。
「時也様⋯⋯
此処を襲撃された際に、私が倒していれば⋯
本当に、申し訳ございません」
青龍は、膝を揃えて正座し
まっすぐに頭を下げた。
「⋯⋯青龍、もう良いんです。
全員、無事だった。それが何よりですよ」
時也は柔らかく返す。
朝の光が、皆の顔を優しく照らしていた。
テーブルの上の湯気。
並ぶ皿。
そこには、昨日の悲劇など──
ー最初から、なかったかのようにー
けれど、そこにいる
〝アライン〟の瞳だけは──
まるで深い湖の底のように
何も映さず、何も語ってはいなかった。
「では、僕は
アリアさんをお迎えに行ってきますね」
朝の空気が柔らかく流れる中
時也は静かに立ち上がり
足音を立てぬように階段を上がっていった。
食卓に集う皆の穏やかな空気を背に
彼の歩みには慎重な気遣いが滲んでいた。
⸻
二階の寝室の扉を開けると
白い陽の光が
カーテン越しに差し込む部屋の中
アリアはすでに目覚めていた。
ベッドサイドに腰を掛け
薄い寝間着の裾を整えるその姿には
昨日までの傷の名残すらなかった。
繋ぎ目も消え
肌にはまるで傷一つ無かった。
血の匂いすら、もうどこにも残っていない。
「アリアさん⋯ご気分はいかがですか?」
その問いに、彼女は何も言わなかったが
瞳を伏せて小さく頷いた。
それだけで
時也の胸にあった緊張が、ふっと和らぐ。
「さ、朝食にしましょう」
手を差し出すと
アリアは躊躇うことなくその手を取った。
柔らかく、しかし確かに温もりがある。
時也は、そんな小さな当たり前に
静かに感謝しながら
彼女を部屋から連れ出した。
⸻
リビングに降りてきた二人に
朝の空気は変わらず穏やかだった。
レイチェルが明るく笑い
ソーレンは気怠げにそれに応え
アライン──今そこに座るその男も
穏やかな笑みを浮かべて
紅茶を楽しんでいた。
アリアの深紅の双眸が、彼を見据える。
だが
その表情はいつも通りの無表情で
感情の判別はつかない。
笑ってもいない、怒ってもいない
ただ静かに──深く観察していた。
誰もが平常通りに過ごしている。
その空気を感じ取ったアリアは
時也に促されるまま
黙ってテーブルについた。
やがて、アラインが
まるで当たり前のことのように
話しかけてきた。
「ねぇ、時也?」
「はい、なんでしょう?」
「ライエルがアリアと話したいらしいんだ。
朝食の後、二人きりにしてもらっても⋯⋯
良いかな?」
その口調は
いつもの軽薄な調子でありながら
不自然なほど穏やかだった。
「かしこまりました。
ライエルさんも
〝アラインさんの中に目覚めてから〟
積もるお話があるでしょうからね」
「助かるよ、時也」
言葉が交わされる中で
アリアは一言も発さず
ただ静かに
ナイフとフォークを動かしていた。
その姿は機械的ですらあったが
瞳の奥では
決して言葉に出さぬ警戒が渦を巻いていた。
⸻
そして、朝食が終わり
時也たちが喫茶桜の開店準備のために
席を外すと
リビングには二人だけが残された。
アリアと、アライン。
しばしの沈黙を破ったのは──
アリアだった。
「⋯⋯⋯⋯⋯どういう心算だ」
その声には、鋭い刃はなかった。
だが
ただの一言で
室温が数度下がったように感じられた。
アラインは
まるでそれを待っていたかのように
微笑を崩さず応じる。
「安心してよ。
彼等に危害は加えていない。
死んだ本当の姿のボクの記憶をそのままに
彼等には〝敵を倒した〟
⋯⋯そう思わせただけさ」
まるで〝親切心〟のように語られる事実。
「敵であるボクがまだ生きてて
その存在が不老不死になった⋯⋯
その現実のままじゃ
キミの旦那は精神を狂わすだろうからね?」
その言葉に、アリアは何も返さなかった。
言葉よりも
沈黙の方がはるかに冷たく、鋭く──
アリアの紅の瞳は
ゆっくりと彼を見据えていた。
その深淵には、感情も意思も揺るがない。
そこには
かつて陵辱され
怒りの炎で焼き尽くされた女王が──
いま、再び〝審判〟の目を向けていた。