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「あんたが触ったものをあたしによこすんじゃねえ!」
「沙智、なんてこと言うの? お父さんに謝りなさい!」
「やだ! 絶対に謝らない!」
あたしはお母さんにそう言って、あいつが手渡してきた白い箱を床に叩きつけ、足の裏でぐりぐりと踏んづけた。十一月二十六日、あたしは今日で十五歳になった。中学三年生。来年は高校受験。
ちなみに、あいつは四十歳。お母さんは五歳年上の四十五歳。専業主婦。
お母さんは美人だ。ストレートロングの豊かな髪をなびかせて授業参観に来ると、サッチのお母さん美人だねって必ず友達に言ってもらえる。あたしの自慢のお母さん。
一方、五歳年下のあいつの職業は高校教師。四十歳で学年主任を任されている。仕事はできるみたいだけど、妻を性欲処理係としか見ていない時点で家族としては認めることができない。顔は一言で言えば普通。見た目は可も不可もなし。だけど心は最低で腐ってる。早く死んでほしいと心から願っている。
金曜日の夜、ちゃぶ台を家族五人で囲んでいる。みんな座っていて、あたしだけ立ってあいつのくれた誕生日プレゼントを足で踏みつけている。
あいつはあたしに大声で叱るでもましてや手を上げるでもなく、ただ悲しそうな顔をしていた。理解ある父親の振りが本当にうまい。お母さんもお兄ちゃんも詩織も、今ここにはいないおじいちゃんもおばあちゃんも、みんなあいつに騙されている。あいつが性的異常者だという証拠を突きつけて、今日こそみんなの前で化けの皮をはがしてやる!
「いいかげんにしろ!」
お兄ちゃんが隣から怒鳴りつける。お兄ちゃんは広道という名前で、あたしより二つ年上。十七歳で高校二年生。顔はあいつにそっくり。でもそれはお兄ちゃんの罪じゃないから、お兄ちゃんを嫌ってるというわけではない。
「沙智の誕生日にプレゼントくれるなんて、いい父親じゃないか! 何が不満なんだ!」
不満というなら、〈沙智〉というあたしの名前からして不満だ。あいつの名前の漢字が一字入っているから。
妹はいいな。妹はあたしより二つ年下で〈詩織〉という名前。十三歳で中学一年生。お母さんの名前の漢字の〈詩〉という字が入っている。名前を交換してほしいくらいだ。
ちなみに、詩織はあいつ似だけど、あたしはお母さん似。本当によかった。あいつに似てたら自殺していたかもしれない。
「不満? 不満っていうか大っきらいなの!」
「だからなんで?」
「何度も言ったでしょ! 夫婦って対等なんじゃないの? どんな弱みを握ってるか知らないけど、お母さん、あいつの言いなりじゃん! お母さんがあいつの言うことに逆らったところなんて生まれてから今まで一度も見たことない。お金には困ってないくせに、お母さんのものは何も買ってやらないし。実際、お母さんが今着てる服って、あたしが幼稚園に行ってたときから着てるよね? 化粧品だってなんにも持ってないよね。だからどこに行くにしてもすっぴんのまま。お母さんはお母さんで、そういう異常な状況から抜け出すのをすっかりあきらめちゃったのか、文句一つ言わない。話した友達がみんな言ってるよ。そんなのありえないって! 脅されたり洗脳されたりしてるんじゃないのって!」
「脅されてる?」
「お母さん、遠くから来たから、このうちを出ても行き場がないんでしょ? ずっと専業主婦だったから外で働くのも大変だろうし。だから、〈少しでも逆らったら離婚する、おまえだってその年で路頭に迷いたくないよな?〉って裏であいつに脅されてるんじゃないの? 大丈夫だよ。お母さんが離婚してこのうちを出ると言うならあたしもついてって、あたしが外で働いて、お母さんを食べさせてあげる。あたしは高校行かずに中卒で働いたっていいって思ってるんだ」
「ふうん。じゃあ、洗脳っていうのは?」
「お母さん、あいつより学歴も下で、ずっと専業主婦だったから、おまえはダメなやつだってきっとあいつに言われ続けてきて、いつのまにか自分でもそう思うようになったんじゃないかなってこと」
「ふうん。とりあえず、沙智の考えは分かった。でもただの勝手な思い込みだな。だって全部想像だろ? お父さんがお母さんにひどいことしてる場面に一度だって出くわしたことあるか?」
「は? あるよ、しかもほぼ毎日」
あたしがそう言うと、お兄ちゃんと詩織はまさか! と驚きの声を上げ、お母さんとあいつは顔を見合わせた。どうせずっといつか言ってやろうと思っていたことだ。あたしはあいつにはっきりと言ってやることにした。
「あたしがあんたを毛嫌いしてる一番の理由は実は今までの話の中にはなかった。あたしだって女子だから言い出しにくくってずっと言うのを我慢してたけど、この際はっきり教えてやるよ!」
あいつは何を言われるんだろうと困惑した表情。お母さんはその隣で怒った顔であたしを見上げている。お兄ちゃんと詩織は空気。ごめん。あいつをやっつけたら、また仲良く一家団欒するからね。
待ってて、お母さん! あたしが今、お母さんを生き地獄から救ってあげるから!
「あんたさ、毎日お母さんにセックスさせてるよね? 築八十年の古い家で音や声がだだ漏れだから今日も始まったんだなってすぐ分かる。あたしもお兄ちゃんも詩織も、ずっと気を利かせて知らんぷりしてたけどさ。友達がみんな言うんだよね。四十歳にもなって、しかも結婚して十八年目の夫婦が毎日って異常だよって。みんな口にしないだけで自分の親がどれくらいの頻度でセックスしてるか知っててさ。月に一回か二回ってのが一番多かったかな。多いうちでも週一。毎日ってなんだよ? ケダモノかっての! あんたが性欲モンスターなんだとしても、お母さんに毎日セックスを強制するな! 多くても週一くらいに減らしてやれよ! どうしても我慢できなければ、トイレかどこかで一人で処理すればいいだろ! こっちだって一人で処理したなって気づいても知らんぷりくらいしてやるからさ。あんたさ、あたしの大好きなお母さんをなんだと思ってるの? お母さんはあんたの性欲処理のために生きてるわけじゃねえんだよ!」
小学生の頃から絶対いつかぶちまけてやろうって決めていたことをとうとう実行できた。両親の寝室と子ども部屋二室のあいだに居間と客間が挟まっている。それでも両親の行為が始まれば声と物音と振動ですぐに分かる。
あたしはまだ処女だけど、セックスを汚らしいと思ってるわけじゃない。仲いい夫婦ならするのが当然だと思ってる。むしろ愛し合って結婚したくせにセックスレスになる方が信じられない。そんな状態が何年も続くくらいなら離婚すればいいのにって思う。
セックスがダメだって言ってるわけじゃない。お母さんは良妻賢母の見本のような清楚で物静かな人だ。あいつに口答えするのを一度だって見たことない。
しかも口癖は、
「お父さんに決めてもらいましょう」
あいつはお母さんが自分の言いなりになってるのにつけ込んで、お母さんを性のはけ口にして有無を言わせず毎晩犯している。絶対に許せない!
あたしはそんな性犯罪者と十歳になるまで一緒にお風呂に入っていた。絶対に性的な視線で見られていたに違いない。結果的にあたしの身は無事だったけど、あたしの人生一番の黒歴史だ。
もう高二だけど部活一筋で彼女の一人もできたことのないお兄ちゃんが、顔を赤らめておずおずと反論する。
「毎日したっていいんじゃないか。お父さんの相手をするお母さんさえそれでよければ、おれたち外野がどうこういう問題じゃないと思う」
「それは夫婦が対等の立場の場合でしょ? お兄ちゃんも聞いてたよね。昨日、セックスの途中で、お母さんが突然謝りだして、三十分も泣きながらごめんなさいって言い続けてたよね。昨日ばっかじゃない。そんなことが今までだって何度もあった。そんな力関係で、あいつに求められたとき嫌ですってお母さんが言えると思ってるの? 力関係を利用して何十分も謝らせるなんてパワハラだよ。嫌がる相手にセックスを強要するのはセクハラだよ。お母さん、離婚して! 今までのあいつの横暴に対する慰謝料がもらえてももらえなくても、一日でも早くこのうちを出よう。貧乏になったっていい。あたしはお母さんについていくから」
「セックスを無理にお願いするのってセクハラなの?」
お母さんがあたしに尋ねる。
「そうだよ! 夫婦だから求められたら応じなければいけないってわけじゃないの! 気が進まなければ断る権利があるんだ! お母さん、今までよく我慢したなって思うよ。あたしはもうお母さんにあいつの言いなりになってほしくないんだ!」
お母さんが何やら考え込んでいる。いいことだと思う。今まで自分の頭で考えようとせず、何から何まであいつの望むとおりにしようとしていたのと比べると格段の進歩だ。お母さんの本当の人生が今始まったんだ!
もうすぐお母さんに捨てられようとしているあいつを、あたしは追撃した。
「あんたさ、とりあえず今までのセクハラやパワハラを謝れば? それでお母さんが許してくれるとは思えないけど、お母さんがこのうちを出たら二度と謝るチャンスもなくなるんだよ」
「許してくださいっ!」
やっと観念したか、ざまあ…………え? なんでお母さんがあいつの前で土下座してるの?
「私とのセックスが大好きだって君も言ってくれてたから、毎日セックスをせがんでも許されるのかと思い込んでました」
「あなたにせがまれるのはうれしいですけど、もう少し回数を減らしてもらえると助かります。僕も四十代、もう若くないので」
なんなの、この会話? これじゃまるでお母さんが毎日のセックスをあいつに強要してたみたいじゃない!
土下座なんてやめて下さいとあいつに言われて、お母さんはようやく元の姿勢に戻った。
「私、自分でもほかの人より性欲が強いのかなっていう自覚は前からあったけど、好きな人と毎日抱き合いたいって思ったらダメなのかな? まさか娘に性欲モンスターって思われてたなんて……」
性欲モンスターとはあいつのことで、お母さんのことを言ったわけじゃない。でも、毎日セックスしたいと望んでいたのがお母さんの方なら、お母さんが性欲モンスターだってこと? 嘘だ! そんなこと絶対信じない!
「下手な芝居はやめて! 全部分かってるんだよ。お母さんはあいつを無理やりかばってるだけ。もしそれを責められることがあれば、おまえが罪をかぶれってあいつに頼まれてたんでしょ? じゃあ、お母さんに聞くけど、昨日セックスが始まったと思ったら、三十分以上あいつに謝り続けてたよね? あれはなんなの?」
「お父さんを傷つけることを言ってしまったから……」
「〈この異常性欲者が!〉とか? そんなのもっと言ってやればいいんだよ」
「そうじゃないの。前にもあったけど、行為中、無意識にほかの男の人の名前を呼んでしまって……」
「ええっ、それは確かにひどい! っていうかほかの男って、お母さん、あいつ以外に恋人がいたの!?」
「お母さんの恋人は今までお父さん一人だけ」
と言われてホッと胸を撫で下ろしたけど……
「お父さんと知り合うずっと前、もう二十五年も前のことだけど、お母さんには快楽だけのセックスに溺れていた時代があった。彼らはお母さんを性欲処理に利用するだけで、決して愛を与えてはくれなかった。恋愛関係ではなかったから彼らは恋人じゃなくてセフレって言うのかな。当時、お母さんにはそういうことをする相手が同時に十二人もいた。お母さんは二十歳の頃サセ子と呼ばれていて、毎日そのセフレたちの誰かとセックスしていた。昨日、無意識に名前を出してしまった男もそのセフレの中の一人だった」
「セフレ……? サセ子……?」
あたしは泣きそうになった。お母さんがかつてサセ子と呼ばれ、セフレたちに性欲処理の道具として利用されて、しかもお母さん自身も彼らとの快楽だけの愛のない行為に溺れていた? 大好きなお母さんがそんなだらしない女のわけがない……
「セフレたちにはお母さん以外にそれぞれ本命の恋人がいた。彼らは本命の恋人にはできないようなアブノーマルな行為を、セフレのお母さんとは遠慮なく楽しんだ。お母さんも楽しんだ。どんな過激な行為を持ちかけられても、ほとんど拒否しなかった。拒否したのは複数の男を同時に相手するプレイくらいかな。三人でのセックスを経験した直後に次は四人でしてみたいって言われて、それをしたら次は五人でってなるのかなってうんざりしてさすがに嫌だと言った」
清楚なはずのお母さんの口から〈三人でのセックスを経験した〉という恐ろしい言葉まで出てきた。あたしは悪い夢を見てるのだろうか? でも嘘を言ってるようには聞こえない。淡々と事実を語っているだけのようだ。
人に言えない過ちを過去に犯した人が少なからず存在して、その人たちの多くが今このときを精一杯誠実に生きている、ということは理解している。しかも二十五年も前の話なら時効と言ってもいいかもしれない。でもお母さん、今の話をあいつに聞かれたら、お母さんの過去を今になって知って激怒したあいつからどれだけ熾烈な制裁を受けることになることか……
そう心配したけど、あいつは心の痛みに耐える人のように唇を噛んで押し黙るだけだった。まさか知っていた? お母さんの過去の過ちを許した上で結婚した? そんな聖人君子みたいな男がこの世にいるのだろうか? ましてやあたしの大好きなお母さんを自分の言いなりにして、奴隷のように服従させようとしている鼻持ちならないあいつが? そんな馬鹿な!
「沙智、昨日あなたが大好きなお母さんがお父さんに無意識になんて叫んでしまったか教えてあげる。〈元気さんのおしっこ、詩音に飲ませて!〉って叫んだ瞬間しまったと思った。〈僕の名前は元気ではないし、僕は愛してるあなたにそんなことをしたくない〉って、お父さんにも泣かれてしまった。謝っても許されることではないけど、私にできるのは謝ることだけだから、お父さんの顔を私の胸に押し当てながら、お父さんが泣きやむまで私は謝り続けた」
そりゃ泣かれるよね……。無意識に叫んでしまったということは、お母さんは過去にそういうことを何度もしたことあるということだ。あいつが泣いた理由も分かる。そう言われたことが悲しかったのではなくて、そう言われた瞬間お母さんがセフレのおしっこを飲んでいる様子を想像してしまったせいだろう。あたしもそれを想像して、今吐きそうになっている。
「詩音さん、あなたの過去の話は子どもたちには教えないで墓場まで持っていこうって決めてましたよね?」
あいつからの問いへの回答を、お母さんは毅然とした口調であたしに返した。
「お母さんがかつて子どもたちに知られてはいけない恥ずかしい生活を送っていたのは事実。だからお母さんはいくら嫌われても軽蔑されてもかまわない。それはお母さんの過去の罪に対する当然の罰だと思うから。でもなんの罪もないお父さんを嫌わないで! 軽蔑しないで! 毎日セックスを強要していた性欲モンスターはお母さんなの! もとから人より性欲が強かった上に、かつて毎日のようにセフレたちと過激な行為を繰り返してるうちに、お母さんは一日セックスしないだけで耐えがたい苦しさに襲われるような、そんなセックス依存の体にされてしまった」
アル中の人がお酒を飲めないときに現れる禁断症状が、お母さんの場合、セックスを一日しないだけで現れるということ? 信じられない! というか、お母さんから生まれて、兄弟の中で一番お母さん似のあたしもやっぱりそういう性質を受け継いでるんだろうか……
そんなことより、これ以上あたしの中の清楚なお母さんのイメージを汚すような話を聞きたくなかった。
分かってるよ。あたしが勘違いからお父さんにひどい態度を取り続けるのをやめさせようとして、お母さんが恥を忍んで過去の過ちを告白したということは。お母さんにそんな過去があったとしても、お父さんがそれを承知で結婚したのなら、あたしたちの出る幕ではないということも――
過去がどうであれ、現在のお母さんはお母さんとして完璧だ。三人の子どもの中に、〈そんな恥ずかしい過去を持つ人をお母さんとは認められない〉と怒る者はいないはずだ。あたしを含めて。
「それから、お母さんが新しいきれいな服を着ないで、ほとんど化粧もしないのは、お父さん以外の男の人にお母さんを性の対象として見させないようにするため。もう二度と過ちは犯しませんという心の中の決意を行動で示したものなんだ。お父さんには、〈その気持ちだけ受け取るよ、あなたの服を買いに行こう〉って結婚してからずっと言われてるけど、お母さんは自分の浮気性がよく分かってるから、その申し出は死ぬまで受けないつもり」
それは聞いておいてよかったかもしれない。これからお母さんに何かプレゼントするとき、服や化粧品をあげちゃいけないことは分かった。
「最後に、お母さんがお父さんの言いなりになってるという件だけどね。別に言いなりになってるわけじゃないの。実際、服を買ってくれるという申し出にうなずいてないでしょ。お父さんはお母さんの過去の過ちを知った上で、お母さんと結婚してくれた。いくら感謝してもたりないほど感謝してる。セフレたちから離れるとき、お母さんは大学を退学して教師になるという夢も捨てて、それまで住んでいた街から逃げ出した。〈こんな汚れた女を愛してくれる人は体目当ての軽薄な男だけだ。私は一人寂しく朽ち果てるように生きていくしかない〉 お父さんと交際を始めるまで、お母さんはすべてに絶望していた。お父さんは今までの男たちと違ってお母さんの体目当てじゃなかった。お母さんを本気で愛してくれて、真剣に交際して結婚もして子どもまで産ませてくれた。お母さんはお父さんを心から尊敬してる。自分の方が五歳も年上なんてのは関係ない。尊敬してるから、よほどおかしなことを言い出さない限りお父さんの意見を尊重しようと決めていた。男たちの性欲処理の道具として使われていた二十歳の頃。それからお父さんと交際を始めるまでの、知り合いのいないこの街で一人ぼっちで生きてきた七年間。その頃のことはトラウマのように今もときどき思い出す。そのたびに思うんだ。愛する夫や子どもたちに囲まれてる今が、お母さんの人生の中で一番幸せなときなんだって。だからね、沙智、あなたの幸せをあなたが決めるように、お母さんの幸せもお母さんが決めるの。勝手にお母さんを不幸だって決めつけて、離婚だのうちを出るだのと口にしないでほしいんだけど」
「ごめんなさい!」
お母さんに深々と頭を下げた私に、お母さんは冷たく言い放った。
「あなたが謝る相手はお母さんじゃないんじゃないの?」
分かってる。分かってるけど、ずっと前からさんざん悪態ついてきたのに、今さらどんな顔をすればいいの?
「こんなときだけど、お父さんに一つ聞いていいかな」
そう言い出したのはお兄ちゃん。
「ああ、いいよ」
「お母さんの話を聞いてびっくりしたけど、お父さんにもお母さん以外に恋人やセフレがいたの?」
「お母さんはお父さんにとって初めての人だった。そのとき、〈僕の初めての人になってくれてありがとう〉って言ったら怒られてさ。〈君にとって私は初めての人でしかないの? 私にとって君は最後の人だと思って抱かれたのに〉ってね。もちろん、〈僕にとってもあなたは最後の人だって誓います〉って謝った。それから十八年、僕はその誓いを一度も破ってないよ」
「大智君、ありがとう。でもごめんね。私はさんざんほかの男と遊んできたのに」
「遊んできたといっても、詩音さんはそのせいで大学を辞めて、夢も捨てて、そのあとの七年間という長い時間も棒に振ったじゃないですか。ちっともうらやましいと思えません。僕は女の人はあなたしか知りませんけど、それで十分幸せだから別にいいです。これで欲をかいて浮気なんかしたら、バチが当たって今あるすべての幸せを失うような気がしてならないんですよね」
「そのセリフ、二十歳の頃の、セフレたちに出会う前の私に聞かせてあげたい。確かに私はバチが当たったんだと思う。君と出会わなければ私は今生きてられたかどうかも分からない……」
お母さんが顔を手で押さえて泣き出した。その様子を見るとお母さんの言葉に嘘はないと思える。お父さんと出会わなければ、お母さんはきっとまだ一人ぼっちだったに違いない。
「お父さん、私も一つ聞いていい?」
今度は詩織が割り込んできた。
「ああ、いいよ」
「ここしばらくのお父さんに対するお姉ちゃんの態度は、そばで見ていてぶん殴ってやろうかって思うくらい最低なものだった。お父さん、高校の先生だから態度の悪い生徒がいたら厳しく指導してるよね。なんでお姉ちゃんにはそれをしなかったの?」
お父さんは頭をかきながら言った。
「心配かけてごめんな。実は分からなかったんだ」
「分からなかった?」
「誰も傷つけずに沙智の怒りと誤解を解く方法が。そうしたらお母さんが隠しておきたかった自身の過去を打ち明けることで、問題を解決してくれた。僕は何もしてない。父親失格だね」
考えるより先に体が動いていた。あたしはお父さんの前で土下座した。もちろん生まれて初めての土下座。
「お母さんがお父さんにいじめられてるって勝手に思い込んで、お父さんにひどい態度を取り続けてしまいました。お父さん、本当にごめんなさい! これからどうすれば許してもらえますか?」
「そうだね。とりあえず、今からでも誕生日プレゼントを受け取ってもらえるとうれしいかな」
「それはもちろん!」
さっき踏みつぶした箱を開けて、中味を確認した。ハートのネックレスと小さなクマのぬいぐるみ。
プレゼントをもらったときに箱を開けなくて本当によかった。そのとき箱の中味を見ていたら、きっとネックレスのチェーンを引きちぎっていただろうから。
「そのネックレスと同じものを、昔、お父さんがお母さんにプレゼントしたんだ。沙智はお母さんが大好きだから、お母さんの持ち物と同じものを持たせれば喜ぶかなと思ってそれにしたんだ。クマのぬいぐるみはお母さんが選んだものだよ」
お母さんが立ち上がり夫婦の寝室から何かを持ってきた。それはあたしの手にあるものと同じネックレス。
「お母さんもこれからこれを身につけるから、沙智もいいよね?」
言われるまでもない。あたしは即座にそれを首にかけた。
「お姉ちゃんばかりずるい! 詩織の分はないの? 詩織の誕生日、十月だから、誕生日まで待てって言われても困るんだけど」
「じゃあ、クリスマスプレゼントとしてあげようか?」
「OK! 楽しみ」
そんな会話を聞きながら、これがお父さんとお母さんが探し求めてきた幸せの形なんだろうなって気がついた。いつかあたしが二人から巣立つその日まで、あたしもわが家の幸せを構成するピースの一つであり続けたいと心から願った。