その広間の窓から差す灯りは日光ではなく、煤汚れ一つない硝子板の向こうに蝋燭が並んでいる。天井も壁も床も石材に覆われ、無骨な造りながら染み一つない清潔な空間だ。
広間は鉄格子によって二つに分けられており、一方には多数の魔術師たちが整列した机の間に姿勢正しく座り、もう一方には整然とただし所狭しと書棚が並んでおり、その中心には厳めしい直線的な意匠の教壇、そして教卓が据えられている。そこに座し、魔術師たちを見下ろすのは、今や廃止された最高位執政官の外套を身に纏った銀の像で、四方から照らし出す蝋燭の揺らめく光を反射して輝いている。
判ずる者。それがこの広間、教室の主であり、法と審判の魔術に精通した魔性の名だ。鏡面の如き表面のために細部は不明瞭だが、長い年月に耐えかねた老人のように背を曲げた女の姿をしている。
入れ替わり立ち代わりやってくる生徒たちのために、一日中鉄格子の向こうで法の魔術を教授している。柔和な声色で丁寧な物言い、控えめにただ知識を教え伝えることに注力する。
休息などしなくても疲れを知らない魔性だが、一日の終わりには生徒が誰もいない僅かな時間がやってくる。そういう時には書棚を巡り、古今の法制度を思索する。神とその代理人が規範を支える権威。目も手も霊感も辺境まで行き届かない執行機関。苛烈に過ぎて新たな不和を生む懲罰、制裁。
しかしその日は、一人の生徒が教室に残っていた。公正という若者だ。特別優秀な生徒で真面目かつ堅実、積極的だがそれ故に周りが見えていないことがある。授業の最中には授業の停滞を招くほどによく質問をするが、授業後に残っているのは珍しい。
教壇を降りかけたディカティラは座り直し、エクマティを見下ろす。
「どうかなさったの? エクマティさん。分からない所でもあったのかしら」
「魔法の誓いについてお教えいただきたいことがあります」
エクマティはディカティラの顔の鏡面に映る自分の顔を見つめている。
「法と契約の魔術師になろうという者が今更魔法の誓いを? 私の教室でも特に優秀なあなたが?」
「ええ。基礎中の基礎ですよね。であればこそ、世界最高の呪物、魔導書の一種とされる札に封じられた魔性であるディカティラ先生に教わりたいのです。およそこの世に存在するあらゆる審判の魔術を治める貴女に。かつては広範な審判の魔法により、我が国の法務を一手に引き受けていた貴女に」
ディカティラの表情を読める者などいないが、その鏡面に映るエクマティの像は確かに歪んだ。
「別に構いませんが、最初の授業に付け加えることなどありませんよ。魔法の誓いとは、法や契約に関するあらゆる魔術の中で最も強力なものです。魔術儀式の簡便さにそぐわない確実で絶対の効果があり、古代から多くの魔術師たちが利用し、研究してきた魔術です。魔術師が完全に魂から同意した誓約を結ぶことで成立し、罰は確実に実行されます」
「確実に?」
「ええ、確実に。宇宙の法とも称される魔術です。逃れられる者はいません。今のところ、そのような事例はありません」
「どのような事例があるのですか?」
エクマティが知らない訳もないが、試されているらしいことに腹を立てるほどのこともない。高い教壇の上でディカティラは目地に地下水の滲んだ天井をちらと仰ぎ見る。
「そうですね。有名なところでは、愚王統制者の行った国盗りの賭博。魔法の誓いを駆使して下僕を増やし、成り上がった海の魔女爪」
「戦士長生命の冤罪事件もそうですね」エクマティはディカティラの相槌も待たずに続ける。「ところで、ならば魔法の誓いで十分ではありませんか? 全ての民に法の遵守を誓わせれば、執行、制裁に労力を割かずに済む。他の魔術を使う必要がありません」
ディカティラは頷き、少しの沈黙の後、答える。
「確かに、理屈の上ではそうかもしれませんね。ただし魔法の誓いは高度な魔術であり、なおかつ魂の契約です。全ての市民にこの魔術を修めさせるのは難しいでしょう。それに魔法の誓いは、魔術の正確な理解と魂からの同意が必要となります。本心ではない、口から出まかせでは契約できません。つまり並の脅しでは誓いが成立せず、逆に魂まで脅せるなら魔法の誓いをする意味がありません。魔法の誓いで交わされる罰は自由に決められますが、一般的にわざわざこの魔術を使う理由は魂の譲渡が可能だからです。魂を失った者は操り人形と成り果てます」
自身の席にきっちりと納まり、教えを授かりながらも、エクマティは冷たい眼差しをディカティラに向けている。
「なるほど。だから貴女は偽証を信じてしまい、かの誤審をしてしまったのですね」
ディカティラは眼下の生徒を見つめ、小さなため息を漏らす。
「どうやら、向上心溢れる生徒の基礎的な質問は、復習が目的ではなかったようですね」
エクマティは立ち上がり、二人を分かつ鉄格子の直ぐそばまでやって来る。
「ええ、その通りです。あの事件の真相を知りたかったのです。何故、貴女は間違い、このような地下牢獄に投獄されることになったのか? その真実を知りたい」
ディカティラは銀の体の中で暫し黙考する。エクマティの思惑ではなく、どのように話すかを。
「まあ、構いません。貴方もいずれこの国の法を司る魔術師になるのですから、少し早く知るだけのこと。かつて私はある男、戦士長ロジーフに死刑判決を下しました。罪状は敵前逃亡及び自軍兵士の殺害。しかし後に、貴方もご存じの通り、ロジーフは無実であったことが判明しました。その冤罪の原因こそが魔法の誓いです。裁判は従来の通り、偽証防止魔術を二重三重に施された法廷で行われました。誰も嘘がつけず、真実だけが並べられ、結果、確実に正義が執行される。私を所有するこの国の、他国を凌駕する何よりの特権です。しかしその裁判では偽証が為された。偽証した者は魔法の誓いを違反し、魂を譲渡していた者です。偽証防止魔術は魂を持つ者にしか効かなかった。その男は、そもそも魂がないので真実でも嘘でもない、ただの伝言装置になっていました。そしてそのことが、冤罪が判明したのは戦士長ロジーフの処刑後でした。その後の捜査で、魔法の誓いの誓約相手が魂を奪った下僕を利用して戦士長ロジーフを陥れたことが明るみに出ました。そうして私はこの地下牢獄を住まいとすることになったのです」
エクマティは指が白くなるほど強く鉄格子を掴む。
「何故です?」
「何故か? ああ、罪深さに対する刑の軽さ、かしら? 私を死刑にする方法は判明していません。それが全てですよ」
「そうではありませんよ」エクマティの語気が強まる。「そこまでは私も知っています。問題は何故、この世に存在するあらゆる法と審判、監督と制裁、契約と誓約の魔術を自動的に把握できる貴女が、魔法の誓いを想定していなかったのか、です」
「私が!」ディカティラは教卓に乗り出し、天板を叩き、そののち声を静める。「……私が知りたいです。私はその時まで、偽証を信じ、誤審し、戦士長ロジーフを処刑し、後に冤罪が判明するその時まで、魔法の誓いの存在を知りませんでした。専門とする魔術の全てをこの身に修める魔性であるはずの私が、魔導書であるこのディカティラが魔法の誓いを把握できていませんでした」
エクマティは見定めるようにその魔性を、銀の像の魔術師を見つめる。
「何か前提が間違っていたのでしょうか? 貴女か魔法の誓いのどちらかが」
「そういうことになるのかしらね。私もこれまでこの地下牢獄の教壇で出来る限り、私と魔導書と魔法の誓いについて調べ、研究してきました。私のような魔性の魔導書は他にもいくつかいるようですが、私のような事例は一件たりとも見つかりませんでした。魔術の系統はそれぞれ違いますが、それらの魔性は誰もが確実にその魔術における最高の専門家です。私を除いて誰もが、一つの例外もなく専門とする魔術を把握しています。ですから一つの可能性は、私が失敗作であること、かしらね」
「でも先生はそうは思っていないんでしょう? 私もそのような例外が存在するとは思えません。つまり魔法の誓いの方に仕掛けがある。それは何なのでしょう?」
「考えられるのは、つまり魔法の誓いは魔導書に伍する魔法だということです。同等の力であれば打ち消し合うものです」
「神か、でなければ魔導書かと謳われる最高の魔法が、呪物に依存することなく、誰にでも使える魔法としてこの世に存在する、と?」
「可能性の一つとして頭に入れておいてください。いずれ法務を司る魔術師となる貴方が、私と同じ過ちを繰り返さないように」
エクマティは鉄格子から手を下ろし、今得た知識を頭の中で整理するように暫く目を瞑ると、ディカティラに一礼する。
「御忠告痛み入ります。それとお付き合いくださり、ありがとうございます。真実を知れて良かった。これで兄の墓前に報告できます」
エクマティは自席に戻り、鞄に筆記道具を片付け、教室を出て行く。







