季節の巡りに見守られてきたのどかな街があった。性急に拡大する都市から遠く離れ、黄昏と国境を接する古い街だ。日々訪っては去っていく時季を歓待し、世話を焼き、見送る人々の営む街だ。
街の外れの丘の間の木立のそばには繰り返し踊る娘たちがいる。春迎えの祭祀で行われる舞踊の予行演習を重ねていた。往古の約束を示す花冠をかぶり、春のもたらす爛漫な景色を体現した衣装を纏う娘たちは蝶のように軽やかに跳ね、微風に揺れる花々のようにすらりと伸びた若い手足をはためかせる。直ぐそばには師を買って出た上の世代の女たちが見守って、娘たちに言葉と動きで春への感謝の仕方を教えている。
さらに離れた木の陰に花々を愛するという名の娘がいた。蜂蜜色の髪は優雅に風を孕んでいるが、踊り子たちとは違って、地味な普段着と土汚れの残る靴を履いている。
迎春の舞いを披露する娘たちと同世代だが、ただじっと娘たちの踊る様子を見つめていた。歯痒そうに唇を噛み締め、眉間に皴を寄せ、時折重苦しい溜息を漏らす。右手に握った新しい杖で地面を抉り、忌々し気に右足を睨む。
「アフトリア? 怪我は大丈夫なの?」
突如呼びかけられ、アフトリアは顔を上げる。さっきまで木立ちのそばで踊っていた娘の一人が窺うようにアフトリアの足と顔を交互に見る。踊る娘たちの中でも特別に華やかな冠をかぶっている。
「練習は? いいの? 銀の足」喉から出てきた荊の声に自ら驚きつつもアフトリアは声色を変えられなかった。「まだまだ、全然なのに」
「うん」レクシアは寂しげに微笑み、頷く。「アフトリアみたいには踊れないみたい。だから沢山練習しなくっちゃ」
アフトリアは自嘲するように一息の笑みを零す。「練習で怪我した私への嫌味?」
「違うよ。そんなつもりじゃなくて」レクシアは正しい答えを見つけようと視線を彷徨わせる。「ただ、皆が見たかったのはアフトリアの踊りだろうから、私は……」
「終わったみたいに言わないで」
アフトリアは足を引きずってその場を離れる。レクシアが何か言ったようだが、聞こえなかった。
それからずっと歩いて、アフトリアは街を挟んで反対側の沼地にまでやってきた。やんちゃ盛りの少年たちを除けば、丈の高い葦に覆われ、泥の深い沼に近寄る者はいない。虫や蛙や水鳥の他は、忘れ去られた者たちや遠い昔に眠りについた者、固い大地を嫌う者といった魔性の類だけが棲んでいる。好奇の目も、憐憫の眼差しもこの沼地の葦の向こうにまでは届かない。
一人でいたいとは思えないが故に一人でいたい時にうってつけの場所だ。
足の取られる湿った土を歩き続けていると、いつの間にかアフトリアの足は疲れて動かなくなり、乾いた大きな、それでいて平らに近い岩を見つけるとそこに寝転がった。一度だけ誰かに名を呼ばれたが答えず、見つけられることもなかった。
目が覚めると、早春の夜と星々が空を覆っていた。大きく傾いた秤座に、青い目の不眠鳥座。見落とされがちな川蝉座も今は強く輝いている。沼地は不気味なほどに静まり返り、時折番を求める蛙が野太い声で鳴き、何かが跳ねる水音の他は星々よりも穏やかな静寂に包まれていた。
もう帰らねばならない。帰ったところで既に父に叱られる時間だ。アフトリアは重い足を持ち上げ、大きな岩の寝台を降りるが、ふと街とは別の方向に惹きつけられる。奇妙な気配が肌を摩る。風も吹かないのに葦が騒めいている。
アフトリアは花の香りに引き寄せられる蝶のように気配で匂いたつ葦へ、そろりと近づく。そしてゆっくりと葦を掻き分ける。掻き分けて進み、葦群の中で立ち止まる。目に入った光景に魂が囚われ、その憐れな下僕たる足はそれ以上進むことも戻ることもできなかった。
舞い踊っている。誰かが。そこで。夜の星々の下で。宙を舞う手は蛇のようにしなやかで、体を浮き上がらせる足は羚羊のように力強い。確実に獲物を射抜く矢を放つ弓のように大きく反ったと思えば、赤子の気を引き付ける鈴のように細やかに震える。静寂の中にあって雄大で、泥の沼地を舞台にしながら星々の巡りの枢軸として天体の運行を主宰しているかのようだ。
どうやら人間ではないらしい。形は概ね人の輪郭だが、体は泥でできていて、魚の鰭のようなものが背中や腕についている。
しかしアフトリアは、その情熱は、確かに心の内にある怖れを押しのけて、その魔性に語り掛けた。
「あなたは何者ですか? どうしてここで踊っているのですか?」
踊りの中で確かにその魔性と目が合った。しかし舞い踊る魔性は止まることはなく、ただただ美しい舞踊を披露し続ける。
相手は人間ではないのだ。はなから言葉など知らないのかもしれない。少なくとも逃げも追われもしないならば、とアフトリアは話しかけるのをやめ、その魔性の踊りを鑑賞しつづけることにした。
その魔性の踊りに比べれば自身の踊りなど児戯に等しい。しかしその踊りの一端でも自分のものにできたならば、怪我を治した暁には、来年の春には容易く主役の座へと返り咲けることだろう。
アフトリアは何も見逃すまいと魔性の舞い踊る姿を見つめる。それを盗むのは簡単なことではないとすぐにでも分かる。
一つ一つの動きが巧みな上に、それが同時に行われる。舞い落ちる木の葉のように両の掌と二十の指がひらひらと踊っている時、大海原を征く軍船を進める櫂の如く両の足が力強く舞っている。首筋から背中、腰にかけて霊妙な弧を描く時、尻から太腿、脹脛は上品にうねり、常に瞬間の美を称えているのだ。
アフトリアは葦群の中で魔性に釣られるように身を揺らしていた。その時、初めてこの舞踊に楽の音がついていないことに気づく。それでいて、その催しは確かに豊かだった。踊る手足に揺れる葦、踏みつられける地面の濡れた音、蛙と名も知らぬ虫の鳴き声、楚々とした微風、盛大な星々の巡り、夜と、なお主張する静寂、その全てが舞い踊る魔性を中心に律動し、調和している、はずがないのにそう思わせる。
だからこそ、その舞い踊りにアフトリアは惹きつけられたのだ。その踊りの巧拙を身に着けたならば、怪我をしていてもなお主役の座に返り咲けるだろう。体で覚えるべく、全身で受け入れる。
魔性の小指が鉤のように折れれば沼地に棲む者が走り抜ける。二度跳ねると星影が揺らめく。首を捻れば寝ぼけた水鳥が飛び立つ。腕が波打つ。蜘蛛の巣が解れる。腰が回る。鬼火が閃く。宙を蹴り上げる。家々の窓の灯が消える。ぬるい風がさざ波を立てると全身が伸びる。雲と星雲が混ざり合うと発条の如く跳躍する。アフトリアが瞬くと魔性は素早く回転し、開脚する。
気が付けばアフトリアはその場にじっと立ち尽くしたまま、魔性の躍動のただ中にあった。星々とぬるい風、人々の祈りと縁のない沼地に棲む者たちと共にあった。全身で感じている。見えない何かたちと共にある。ずっと共にあったのだ。
「冬が去る。春が来る」と水鳥が羽ばたいた。
「見送ろう。迎えよう」と魔性が飛び跳ねる。
静寂に満ちていたはずの夜の沼地が喧騒に沈む。
「芽吹きだ。再誕だ」と水面が泡立つ。
「歌おう。踊ろう」と魔性がくねる。
そこにある全てが語り掛けている。語りの中に全てがある。
「始まりだ。終わりだ」と銀河が渦巻く。
「祝おう。祈ろう」と魔性が回る。
アフトリアの魂に聞き慣れないことばが響き渡る。
「私にも! その踊りを! 教えてください!」とアフトリアは言った。
「舞え! 踊れ!」と魔性は舞い踊る。
「でも、今は怪我していて」とアフトリアは言葉にした。
「構うものか!」と魔性は舞い踊る。
「私は踊りたいけど、足が……」とアフトリアは口籠った。
「何するものぞ」と魔性は舞い踊る。
通じているようで通じていない。通じていないようで通じている。
ただ魔性と対話するならば、同じことばを使わなくてはならないのだろう。
アフトリアは杖から手を離し……。
背の高い葦の向こうで誰かが踊っている。アフトリアはゆっくりと近づき、葦を掻き分け、その姿を盗み見る。舞い踊る者がそこにいる。
あの魔性だろうか、それともレクシアだろうか。あるいは……。
いずれにせよ、舞い踊る者は遠ざかっていった。回転し、跳躍し、誘いかけ、しかしただ覗き見るしかできないアフトリアから遠くへ離れていく。
気が付けば乾いた大きくて平らな岩の上でアフトリアは伸びていた。全身が痛く、しかしそれは筋肉痛などではない。ただ単に硬い岩の褥の上で眠っていたために痛めただけのことだ。
それから何とか家へと帰り、父に叱られながらまた気を失った。
目覚めた時には再び夜だった。いつの夜かは分からない。窓は締め切られ、灯りは何もない。暗闇の向こうから父の寝息が聞こえる。あれほど喧しかった夜が嘘のように静かだ。
天井も見えない暗闇の中で、アフトリアは自身の内から踊りが消えてなくなっていることに気づいた。静寂の内に、娘は失ったものを思って啜り泣く。







