「・・・・”おばあさん”、おはようございます」
空のビールケースが積み上げられた飲み屋の勝手口、その路地は薄暗く、突き当たりにはコンクリートに鼠色のトタンを貼り付けただけの小さな|小屋《事務所》が建っていた。
薄汚れたピンク色に色褪せた赤いハートが舞い散るその看板には、(株)ユーユーランドと黒いゴシック文字が並んでいる。
「はいよ、おはようさん」
部屋の奥から、まるで胡麻塩を振り掛けた髪を天辺で束ねたシワだらけの着物を着た貧相な顔の高齢女性がぬっと顔を出した。室内は埃の被った事務机や長年使っていないだろう椅子、ダイヤル式の黒電話が放置されている。昭和時代が積み重なったカビ臭い事務所だ。
朝の挨拶をしてぼんやりと立っているのは赤いノースリーブのワンピースを着た金魚だった。
「病院行って来たみたいだね」
「うん」
「タクシー代はどうした」
「チケットで払った」
「・・・・そうか」
大きく溜息を付いた高齢の女性は紙で出来た手元のバインダーをペラペラと見て金魚の顔を見た。
「今日の客は2人だよ、来て直ぐで悪いんだけど準備しておくれ。予約は11:00から1時間、セーラー服を着て来てくれとさ。昼間からいいご身分だね」
「わかった」
「金魚、薬はちゃんと飲むんだよ。勝手に止めないで病院は通う事、良いね?」
「わかった」
金魚は事務所の煤けたカーテンの陰で赤いワンピースを脱ぐと丁寧に畳んでピンク色のカラーボックスに片付けた。パイプハンガーに掛けられたコスチュームを手に取り、クンクンと臭いを嗅ぐ。
(前のお客さんの付いちゃったかな、臭い・・かな?)
するすると慣れた手つきでセーラー服のスカートを履きチャックを閉めた。少し前屈みになるとブラジャーの中で胸の位置を整え、ブラウスを頭から被り赤いスカーフを付ける。セーラー襟を桜色の指で摘んで形を整え、髪の毛をサッサと適当に撫で付ると、金魚は高齢の女性の前に立った。
「”おばあさん”。結んで」
女性は無言で金魚の制服のリボンを結ぶと彼女の顔を見上げ眉を|顰《しか》めた。
「あんた、本当はこれ着て《《学校》》に行ってた筈だよ」
「うん」
「父親の事は恨んじゃいないのかい?」
「わかんない」
「わからんか」
「うん」
表通りにブルンブルンとエンジン音が聞こえ、ベージュ色の軽トラックが停まった。背中がすっかり曲がってしまった肌着にヨレヨレの黒いズボン、長靴といった出立ちの高齢男性が金魚を呼ぶ。
「金魚ちゃん、迎えに来たよ!早くおいで!」
「はぁい」
金魚は赤いスカーフをひらりとさせながら空のビールケースを飛び越え、明るい通りへと歩いて行った。