テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
雅が私を避けていると確信したのは、私が家にいる時間から、彼の姿が完全に消えてしまったことからだった。
雅が本当に家に帰ってきているのか、それすら定かではない。ただ、洗面所の消耗品がわずかに減っていたり、脱衣所に彼の香水の残り香が漂っていたりと、家中のあちこちに雅がいた痕跡が残っている。
そんなことから彼が私のいない時間を見計らって帰宅し、仮眠や入浴を済ませているのだと推測した。
生活の気配はするのに、私が帰宅した時にはもうその気配はどこにもない。朝も夜も、雅に会えない日々が、何日も続いた。
どこで、誰と、どんな顔をして過ごしているのか。募る不安に耐えきれず、私は平日の夜、比較的空いている時間を見計らってバーへと足を運んだ。
扉を開けると、カウンターの向こうに雅の姿を見つけた。彼は接客中でこちらには気づいていない。客に向けるのは、見慣れた完璧な営業スマイル。
いつも通りの雅。いつも通りの光景。そのはずなのに、今の私にはどうしてもいつも通りには程遠く見える。
「あれ? 夏帆ちゃん。平日に珍しいね」
玲くんに声をかけられ、ようやく視線を彼の方へと向ける。
「……あ、玲くんか。久しぶり」
「久しぶり。とりあえず座りな?」
促されるまま、いつものカウンター席に腰を下ろす。玲くんは空いた時間を使ってグラスを磨いていたようで、フロアの対応はすべて雅に任せているようだった。
「何飲む?」
「カシスソーダお願いしても良い? ノンアルで」
「ノンアル? 珍しいね」
「うん。明日も仕事だから」
ドリンクを作り始めた玲くんに、私は力なく苦笑いを返す。
あの日以来、アルコールを喉に通す気にはなれなかった。それに、今日は雅と話すためにここへ来たから、素面で話し合いたかった。
雅は相変わらず女性客に囲まれ、好意的な視線を一身に浴びている。普段なら何も気にせず流せたはずのその光景が、今の私には胸に突き刺さった。
もう、見ていられなくて、私は一口もつけていないグラスを置いたまま席を立った。
「ごめん、玲くん。やっぱりそれ玲くんが飲んでくれる?」
「え?」
「お金、置いてくね。頑張って」
背後から響く玲くんの「夏帆ちゃん!?」と困惑した声を振り切り、一度も振り返らずに店を飛び出した。
復縁してから今日まで、これほど喧嘩が長く尾を引くことなんてあったか。復縁してから、というより大学時代からこんなに長引く喧嘩はなかったと思う。
雅が言った「ずっと我慢していた」という言葉が、頭の中で繰り返される。今まで私が自分らしく何も思わないまま過ごしていた時間は、雅の優しさの上で自由にやれていただけで、片方に我慢をさせたものだった。
何も無く私がありのまま過ごせることなんて、普通あるはずもない。
今さら、そんな当たり前のことに気づかされるなんて。
思えば、復縁するときも「都合のいい関係なら」なんて言った事も、自分の都合で転勤を決め、遠距離を強いたのも、休日だって予定があっても仕事を優先させてくれた事も、全て全て私都合で、最低な行為だったと思う。
まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
───本当のクズは、もしかしたら私の方だったのかもしれない。
今まで、どれほど雅の思いやりや気持ちを踏み躙ってきたか、突きつけられた罪悪感は、今の私には計り知れないほど大きくて、とても一人では受け止めきれそうになかった。
それから、週末の金曜日。
日付はとうに過ぎ、午前三時。暦の上ではもう土曜日になっていた。
あれから私はまともに眠れず、雅の帰りを待ち続けていた。だけど、今日もどこか諦めていた。雅はどこへ行っているのか、家には一度も帰ってこなかった。連絡を送れば返信は来るけれど、それは必要最低限なものだけ。
«今日は、帰ってくる?»
«帰らない»
画面に並ぶ、突き放すような短文。
それでも、いつかは帰ってくるかもしれない。そんな僅かな望みに縋って起きていても、玄関のドアが開く音は一度も響かなかった。
だけど、今日だけは違った。
帰らないと、確かに連絡があったはずなのに、玄関扉が開く音が聞こえ、私は寝室を飛び出した。リビングの明かりを点けると、そこには入ってきたばかりの雅が立っていた。
視線が、真っ直ぐにぶつかる。
「……おかえり」
「……わすれもん」
あいつはそれだけ言うと、私と目を合わせ続けることなく、寝室へ何かを取りに向かった。
通り過ぎる際、彼の左手の薬指に私とお揃いのリングが残っているのが見えた。だけど、今日も「ただいま」という言葉は聞こえない。
指輪だけはそこに残っているけれど、愛はもうとっくに冷めきってしまったのだろうか。
愛されていたことがどれほど贅沢で、奇跡のようなことだったのか。
失いかけて初めて気づく自分を、心の底から馬鹿だと思う。
寝室へ向かい、再び出ていこうとする雅の背中に、自分でも聞こえるか分からないほどの掠れた声で「……もう、一緒には住めないのかな」と零していた。
その独り言は雅の耳に届いたようで、彼はほんの少し意表を突かれた様な表情で振り返る。
「……ごめん。疲れてたみたい。気を付けてね」
「どういうこと。今の」
「何でもない、ごめんね」
今さら引き止めることも、話し合いたいと縋ることも、すべてが手遅れな気がした。これ以上、彼を繋ぎ止めるのは、雅の人生にとってマイナスにしかならないのかもしれない。
泣き出しそうな顔を見られたくなくて、逃げるように寝室へ戻ろうとしたその時、強引に腕を掴まれた。
「……何、出ていけって言いてぇの?」
「ここは雅の家だし、自由に帰ってきて。他の子の家に泊ってても何も言わないし。当然慰謝料とかそんな卑怯な話もしないから」
「は? 他の子?」
私の言葉を聞いた瞬間、雅の瞳にあの時と同じ、怒りが静かに宿されていた。表情こそ凍りついているけれど、その奥で煮え立っているのが、空気感で伝わってくる。
「本当、どうしたら分かんだろうな。俺、何か間違えてた?」
「……間違えてないよ」
「本当、うぜぇ」
吐き捨てるようにそう言い残して、雅は私の腕を乱暴に離し、そのまま玄関へと消えていった。
全部、どこかへ捨ててしまいたかった。制御できないこの感情も、積み上げてきた思い出も、全部なくなってしまえば、こんなに苦しまずに済むと思ったから。
あの日から、二週間は経っていたと思う。
私は逃げるように仕事に明け暮れ、休日さえも職場に籠もった。仮眠室やビジネスホテルを転々とする生活。特に忙しい時期ではなかったけれど、あえて仕事を前倒しに詰め込み、会社にいなければならない理由を無理やり作り出していた。
あの日以来、私から雅に連絡をすることはなかった。雅は時折家に戻っているらしく、私の生活感が消えた部屋に異変を感じたようだった。
通知欄には、彼からのメッセージが積み重なっていた。
«どこで何してんの?»
«会社? それとも実家? 友達の家?»
«何してんのかだけ言って»
«俺が悪かったから、一回話そう。避けてた理由も全部話すから»
並んだ言葉に既読を付ける勇気もないまま、私はただ画面を眺めることしかできなかった。
このままでいいはずがないことは分かっている。会わない期間が、私に考える時間を十分に与えてくれた。自分の中での答えはもう、とっくに纏まっていた。あとは、それを彼にぶつけるだけ。
だけど、私はどこまでも臆病で、その一歩を踏み出す度胸がなかった。
先延ばしにしても良いことなんて一つもないのに、ずるずると時間を引き摺ってしまう。
震える指でようやくメッセージ欄を開き«今日、帰るね。仕事でも待ってる»とだけ返信して、スマートフォンの画面を閉じた。
どうか、無事に終わらせてしまえますように。
コメント
1件
うわっ……今回、めっちゃ刺さった……🥀 夏帆が「本当のクズは私の方だったのかもしれない」って自覚し始めたところ、すごく重くて苦しかった。ずっと雅に甘えてたツケが回ってきた感じがする。 すれ違う二人の距離感がリアルで、指輪だけ残ってるのに愛が冷めたかもって思うシーン、泣きそうになったよ。 最後の「どうか無事に終わらせてしまえますように」って一文に、全部の諦めと怯えが詰まってて……もう、胸がぎゅってなった。 陽瀬さん、この重くて繊細な空気感、本当に丁寧に書けるんですね。尊敬します🖤