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泡は、止まらなかった。
朝になっても、 昼になっても、 夜になっても。
静かに、確実に 自分の一部が、零れていく。
「……」
誰にも気づかれない。
それが、少しだけ救いだった。
知られたくなかった。 こんな終わり方を。
こんな、情けない姿を。
ある日。
廊下の奥で声がした。
「――式は、来月に」
足が止まる。
聞きたくなかったはずなのに。
耳が、勝手に拾ってしまう。
「急すぎませんか」
「これでも遅い方だ」
彼の声。
変わらない。
落ち着いていて、迷いがない。
「準備は整っています」
婚約者の声。
静かで、穏やかで
優しい。
「……そうか」
短いやり取り。
それだけで、すべてが決まっているとわかる。
終わる。
何もかも、 ここで。
「……」
息が、うまくできない。
胸が痛い。
どうして。
どうして、こんなに―― 苦しいんだろう。
気づいた時には。
手に刃物を握っていた。
台所から持ち出した、小さなナイフ。
重くもないのに。
やけに、存在感があった。
「……」
足が動く。 止まらない。
向かっている先は、わかっている。
婚約者の部屋。
扉の前で立ち止まる。
心臓がうるさい。
手が震える。
でも、 離さない。
これを―― 終わらせれば
全部、なかったことにできる気がした。
彼は自由になる。
自分の隣に、戻るかもしれない。
そんなこと、 ありえないと
わかっているのに。
それでも、 願ってしまった。
「……っ」
扉に手をかける。
開ける。
中には婚約者がひとりでいた。
書類に目を落としている。
静かな空間。 何も知らない顔。
「……どうしました?」
顔を上げる。
すぐにこちらに気づいた。
その目は穏やかで 何の警戒もない。
「……」
歩み寄る。
一歩、 また一歩。
足が痛む。
でも、止まらない。
ナイフを握りしめる。
距離が縮まる。 届く距離。
その喉元へ――
「……?」
婚約者の表情が、わずかに揺れる。
でも、逃げない。
ただ、こちらを見ている。
その目が… あまりにも、まっすぐで。
優しくて。
――嫌いになれなかった。
「……っ」
手が、止まる。
これ以上、進めない。
どうして…
どうして、できない。
奪えばいいのに。 壊せばいいのに。
それで、全部
自分のものになるかもしれないのに。
それなのに――
浮かんだのは、 彼の顔だった。
あの人が、悲しむ顔、 苦しむ顔。
そして壊れてしまう顔。
それを、想像してしまった。
「……」
力が抜ける。 ナイフが、床に落ちた。
乾いた音が、響く。
終わった。 何もかも。
「……あなたは」
婚約者が静かに口を開く。
怒りでも、恐怖でもなく。
ただ――
どこか、理解しているような声音で。
「……優しい方ですね」
その言葉に
胸が、ひどく痛んだ。
違う。
優しくなんて、ない。
ただ――
壊れきれなかっただけだ。
中途半端に。
どうしようもなく。
「……」
言葉は、やっぱり出ない。
何も言えないまま、 背を向ける。
逃げるように、部屋を出た。
気づけば、 外にいた。
風が強い。
空は、どこまでも広くて――
息が、苦しい。
でも――
足は止まらなかった。
向かう先は、ひとつ。
海。
あの場所。
すべてが、始まった場所。
波の音が聞こえる。
近づくほどに、はっきりと。
懐かしい。 痛いほどに。
「……」
砂浜に立つ。 足が、沈む。
冷たい。
でも―― 安心する。
ここは、自分の場所だった。 かつては。
もう、戻れないけれど。
ここで、終わるのがいいと思った。
「……」
手を見る。
また、泡が浮かんでいる。
もう止まらない。
あとどれくらい、残っているんだろう。
自分という存在が。 この気持ちが。
どれくらいで、消えるんだろう。
足音が、した。
「……お前」
振り返る。
彼がいた。
息を切らしている。
ここまで、追ってきたのだとわかる。
「何してる」
問いかける声。
いつもと同じ。
なのに、 少しだけ焦りが混じっていた。
それが、嬉しくて。
同時に――
どうしようもなく、苦しかった。
「……」
何も言えない。
ただ、見つめる。
これが、最後かもしれないと。
そう思いながら。
「戻るぞ」
手が伸ばされる。
あの時と同じ。
差し出された手。
掴めば、また隣にいられる。
少しの間だけでも。
でも――
「……」
首を横に振った。
初めて自分の意思で、 拒んだ。
彼の目が、わずかに見開かれる。
「……どうした」
わからない、という顔。
当然だ。
何も、伝えていないのだから。
伝えられないのだから。
それでも、 これだけは 伝えたかった。
ゆっくりと。
一歩、後ろへ下がる。
波が、足に触れる。
冷たい。 懐かしい。
「……おい」
声が少しだけ強くなる。
でも――
もう、止まらない。
止まれない。
笑おうとする。
うまく、できているかわからない。
それでも 最後くらいは。
ちゃんと――
送り出したかった。
あなたの幸せを、 壊さないまま。
守ったまま。
「……っ」
声は出ない。
それでも、口が動く。
ありがとう、さよなら、と。
伝わらなくても、 それでも。
体が軽くなる。
泡が、増えていく。
足元から。 指先から。
少しずつ… 消えていく。
それでも、 最後まで 目を離さなかった。
―好きだった人から。
――それが、選んだ結末だった。
篝火

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