それから僕と太齋さんは付き合い始めた訳だけど
いや、なんか恋人になったという実感が無いというか……まあ仮だし?
付き合う前とあんまり変わった気がしなくて逆に
困っている。
まず恋人ってなにするんだっけ…
前よりボディタッチが増えそうと思っていたのに、太齋さんから何かを仕掛けてくるような気配が全くしない。
だからこそ調子が狂う…
僕は放課後に図書室で、そんな恋愛初心者丸出しな悩みを、隣で本を読んでいる瑛太に相談することにした。
すると瑛太は、本から顔を上げずに、いつもの仏頂面のまま僕に言う。
『お前って本当にThe・童貞だよな』
「だ、だって仕方ないじゃん…….ショコラトリーのイベントでキスもしたしハグもしたけど、お試しで付き合うとか言われても…」
『そんなん簡単じゃねえか。お前が好きな相手としたいこととか、相手が喜ぶようなことをしてやればいいんだよ。だってあの人のこと好きなんだろ?』
「ま、まぁ、そうだけど…」
さらりと言ってのける瑛太に納得したものの
「それで、なんか思いつくもんはあんのか?』
という質問に、僕は頭を抱える。
太齋さんとしたいこと…
多分リスト化したらたくさんあるんだろうけど
今すぐ思い浮かぶものと言えば…と考えたとき、ハッと思い出した。
「あっ、誕生日…太齋さんの誕生日もうすぐだ……!確か10月15日」
言うと、呆れ顔で聞いてくる。
「それだ、つーかあと3日じゃねーか…一人で用意できんのか?」
そう言われると、素直に僕一人ですべてを決めるのは不安があるというものだ。
「3日もあればなんとかなるって!…と思ったけど、プレゼントとか僕一人じゃ絶対迷っちゃうからさ…瑛太、付き添ってくれないかな?」
そう頼むと、案の定瑛太は面倒くさそうにしながらも、しょうがないなといった様子で引き受けてくれた。
「ほんと?!助かる…!!」
翌日、瑛太に付き添ってもらい、ショッピングモールの一角にあるブランド店に足を運んでいた。
太齋さんへの誕生日プレゼントを買うために。
ショコラティエである太齋さんになにかをプレゼントするなら、店の雰囲気に合うようなタンブラーとか、洒落たものを安易に選べた。
しかし、恋人への誕生日プレゼントともなれば話は変わってくる。
カップルみたいにアクセサリーとかプレゼントするのもいいかも…?
といってもまだ冬だしマフラーあげた方が喜んでくれるかなぁ…
なんて考えながら歩いていると1つの商品棚の前で足が止まった。
僕と同じように瑛太も足を止めて、なんかいいのでもあったか?と聞いてくるので
「この、ネクタイとかどうかな…?」
目の前の︎︎"︎︎彼氏に贈るプレゼントにピッタリ!︎︎"︎︎というポップと共に置かれている、ネクタイを手に取ってみせた。
すると瑛太はいいんじゃねーか?あの人が持つとシャレオツだろうしなと得意げな表情で言った。
「だよね…!…うーん、でもこういうのって、高価なものの方がいいのかなって……」
そんな僕の迷いに呆れたように僕の持っていたネクタイを取り上げると
『ったく、これだから童貞は….」
僕が口を開く間もなく、瑛太はそのネクタイを僕の胸に押し当てるように渡してきた。
『こういうのは気持ちが大事なんだよ』
瑛太の言葉に、そっか、確かにそうかも…太齋さんなら笑顔で喜んでくれそう…と納得して口にする。
そうして僕はレジで誕生日プレゼントということをレジの店員さんに伝え
大人っぽいネービーブルーの布と、金色に近い黄土色のリボンでラッピングをして貰い、会計を済ますと
瑛太にお礼を言って駅で解散した。
家に帰って、太齋さんに渡すプレゼントを机の上に置く。
僕はお風呂に入った後、歯磨きをするとすぐ寝床に着いた。
(太齋さん喜んでくれたらいいな……)
そうしてついに誕生日当日を迎えた
大学に着いても、僕は自分の誕生日のようにそわそわしながら
先に着いていた瑛太の隣の席に座る。
いつも通り他愛もない話をして、授業までの時間を潰していく。
そうしていつものように迎えた放課後、ふとプレゼントのことを考えていると、あることを思い出した。
「あっ…そうだ…!プレゼントだけじゃ地味だし
メッセージカードとかも書いたほうが気持ちが伝わりやすいかもしれない…」
思い立ったが吉日、近くの雑貨屋でメッセージカードを購入し、帰路に着いたときのことだ。
突如聞き覚えのある甘い声が前方から聞こえ、顔を上げた。
するとそこには、店の前で数人の女性客から、紙袋や箱に包まれたプレゼントのようなものを渡されている太齋さんが立っていた。
女性たちは手ぶらの太齋さんにぐいぐいとプレゼントを押し付けて「受け取って!」と騒いでいる。
僕はそんな光景に思わず足を止めると、女性が去った後に僕の存在に気付いた太齋さんがこちらに駆け寄ってきた。
「あっひろくんじゃん、そんなとこで立ち止まってどしたの?」
その言葉に僕はハッとして、手に持っているものを見られないように体の後ろへ隠しながら慌てて言葉を発した。
「あっ僕は大学の帰りで、それより太齋さんは…今の、よかったんですか?全部拒否ってたみたいですけど」
そう答えると、太齋さんは『今日定休日でさ、ついでにレシピとか纏めて店出てたら、急に女の子に囲まれちゃってさあ、まあどうして俺の誕生日知ってんのかはわかんないんだけど』
と僕を見つめてきて、表情を量らせながら僕は苦笑いした。
きっと、今の女性たち以外にも太齋さんにプレゼントを私に来ている人はいるに違いない。
なにか貰ったんだろうな…
そう頭の中で思うと、胸がチクリと傷んだ。
そんな思いを振り払うように言葉を紡ぐ。
「誰か一人に教えて、それが伝染したとかじゃないですか?どっちにしろ全くモテモテですね!」
『小っさい頃はそうだったけど今はひろくんにモテないと意味ないっての~…まあ、だから、さっきの女の子たちからもプレゼント受け取らなかったんだよね』
その言葉に、ドキッとさせられる。
全てを見透かしてるように、僕に安心を届けてくれる。
続けて『てかさっき後ろに隠したものってもしかして…?」と聞いてくるから
やっぱり隠しきれてなかったのか…….と内心焦りながらも僕は平常心を装って答える。
「あっいやっ…太齋さんの誕生日プレゼントですけど…」
ああ、この人もしかしたら僕のこと気づいてたのかもしれない
それでわざとこんな意地悪く聞いてくるんだ
だから頭をフル回転させて言い訳を考えるなんてこともせず
ポロッと本音を零すと、太齋さんはクスッと笑みをみせた。
そして口を開いたかと思うと
『めっちゃくちゃ嬉しい、今受け取ってもいい?!』
そんな言葉に、僕はホッと胸をなで下ろすも
「まだ用意したいことがあるから、今日の夜の家来てくれませんか?」とお願いした。
すると太齋さんは嬉しそうに頷いてくれたので、それじゃあまた後で、と告げて別れ、帰路に着いたのだった。
数時間もすればあっという間に夜になり、太齋さんが僕の家にやってきた。
リビングに通して、先にソファに座っててくださいと促す。
その隙に自室に向かい、用意していたプレゼントの箱を取って戻ってくると、太齋さんの横に座って手渡した。
「あ、開けてみてください!」
言うと、太齋さんは膝の上でラッピングを解いて箱を開け、中身を確認する。
始めに、中に入れていたメッセージカードを手に取ってくれた。
するとそれを食い入るように
メッセージカードに書かれている︎︎"︎︎誕生日おめでとう︎︎"︎︎という直筆の文字を、どこか愛おしそうに淡い瞳で見つめている。
「なんか久々だな、こういうの…うれしい」
その子供っぽい仕草がなんだかとても新鮮で、思わず見薄れてしまっていた自分がいた。
そして次に本命であるプレゼントのネクタイを取り出した太齋さんは、僕の方を向いて言葉を弾ませる。
『このネクタイ、俺のために選んでくれたの……?』
そんな言葉に僕は照れながらも頷く。
太齋さんは、またネクタイに目を落とす。
少し頬を緩ませる太齋さん
その横顔は、まるで母親から初めて洋服を買ってもらった娘のようにキラキラと輝いているように見えた。
太齋さんは暫くネクタイを見つめてから、淡々と言った。
『……これ、店でも着けたいし一生大事にするよ』とネクタイを手に取りながら満面の笑みで伝えてきた。
そうしてもらえたら嬉しいです、と返し。
「あ、そうだ!あの……ケーキ用意してるんですけど、食べませんか?」と訊ねた。
すると太齋さんはまた子供みたいな笑顔を見せる。
「ひろくんが?!え、食べたい…!」
こんな顔で笑うんだ、とついこっちまでつられて笑顔になる。
そうしてケーキの用意をして、二人で夜ご飯を食べ終え、一息ついたころ。
時刻は21時
太齋さんはソファから立ち上がったかと思うと、キッチンで食器を片付けていた僕の側に寄り添い、口を開く。
『俺ほんと幸せ者だよ…ひろくん、今日は本当にありがとう』
そんな言葉に僕はまたドキッと胸を高鳴らせ、頬が緩む。
「へへ…僕一人じゃ決められないと思ったので、瑛太にも付き添ってもらったんですが、喜んでもらえたみたいで良かったです…!」
『ふーん…』
すると太齋さんは、後ろから僕の肩を優しく抱き締めてきた。
『…一応、今は俺がひろくんの彼氏なんだけど?』
かと思えば、顎を人差し指と親指で掴まれ、太齋さんの方に強制的に向かされる。
(や、妬いてる……?)
柔和な切れ長の目に見つめられると、言葉につまる。
その一瞬の隙に、太齋さんから頬に口付けを落とされる。
「だ、太齋さん…!」
太齋さんに目線を合わせると、慈愛に満ち溢れた眼をしていた。
『誕生日だし、許して。口以外ならいいんでしょ?』
この人、僕を落とす気満々だ…と本能で感じてしまった。
耳元で、太齋さんの甘ったるい吐息混じりの声を聞くと、また僕はドキドキしてしまい、身を委ねる他なかったのだ───。
それからというもの、僕と太齋さんは少しずつ確実に|恋人《(仮)》としての距離を縮めていった….。
そんなある日のことだった
約束のお試し期間1ヶ月が過ぎようとしてきたころ
その日は最寄り駅の近くに、新しく出来た水族館に行く約束をしており
デート当日の昼過ぎ、僕は待ち合わせ場所である駅の北側にある広場に来ていた。
約束の時間まで後5分というところだった。
太齋さんはまだ来ていないみたいだが、さすがに30分以上前に到着するのは早すぎたかな…….?
そんなことを考えながら身なりをチェックしていると、暫くして太齋さんが僕の前に姿を現した。
黒のパンツ、長袖のクールネックセーターの上にチェック柄のフード付きジャケットを着こなす太齋さんは、まるで芸能人のように見えた。
なにより周りの視線を感じると、僕みたいな人間がこんな美形と一緒にいるなんて……おこがましいとすら思ってしまう。
そんな僕の考えとは裏腹に、太齋さんは僕に優しい笑みを向けて、手を絡ませてきた。
思わず動揺してしまったが、感情が顔に出ていたのか「周りの目なんて気にしないで、今日はデートなんだし楽しも!ね?」と言ってくれる。
そのお陰で、少しだけ心が軽くなった気がした。
それから他愛も無い話をしながら太齋さんと歩を進めると、すぐに水族館に到着した。
新しく出来たということもあり、館内はすごく綺麗だ。
薄暗い部屋を照らす魚たちの周りにはカップルだらけ
というよりカップルや子連れの夫婦しかいなく、太齋さんとの正式なデートということもあり、緊張していた。
けれど隣に立つ太齋さんがさりげなく
「ねーひろくん、なにから見る?」
なんて無邪気な笑顔で言って手を引いてくれるから、そんな緊張なんてどっかに消えてしまって、自然体でいられた。
そうして僕らは、まず最初にクラゲを見に行った。
水槽の中で優雅に泳ぐ姿は、まるで別世界のようで、幻想的な光景に僕は言葉を失った。
その後イルカショーを観たが、イルカが芸を披露する度に太齋さんと共に、癒しの中にある気迫に目を奪われていた。
昼食は館内のカフェでオムライスを食べることに。
僕が注文したのはシンプルなケチャップでペンギンが描かれたオムライスだったが
太齋さんはエイが大きく描かれたオムライスを注文していたため、あまりにも可愛らしくてガン見してしまった。
「せっかくだし写真撮ろ!ほらひろくんもお皿持って~…」
幻想的な水族館をバックに撮影した写真は映えそのものがあり、何よりも太齋さんとのツーショットに胸が踊ってしまった。
なんにしろ、スプーンでひとくち口に入れると
当たり前だが、外はふわふわ中はトロトロのオムライスが口の中に拡がった。
頬が落ちるとはまさにこのことだな、と噛み締める美味しさだ。
しかし、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
最後に水族館内の大きな水槽のある部屋に行き、小さな魚から大きな魚まで様々な生物たちを見て回った。
そして最後にチンアナゴの展示室に行くと、色とりどりの様々な照明に照らされて、青や紫に光る幻想的な空間に見惚れてしまっていた。
僕よりも太齋さんの方が魅了されている様子で、水槽の中のクラゲをぼーっと眺めていた。
綺麗で僕はその姿にいつの間にか釘付けになっていた。
それからは館内を一通り見て回り終えた僕たちは帰路についた。
水族館デートを満喫し、駅までの道のりで、今日見た生物たちやショーで見たイルカの芸がすごかったこと。
終始笑顔で楽しそうに話す太齋さんを見て、同時に心から笑えるこの幸福感に気付いたとき
僕は改めてこの人と付き合えて本当に良かったと思った。
しかし、その帰りに突然の雨に降られた。
急いで近くの建物に逃げ込んだが、僕も太齋さんも傘を持ってきていなかったため、びしょ濡れ。
スマホで今の天気を確認すると、太齋さんは濡れた前髪をかきあげて口を動かす。
『んー、この様子だと深夜まで止まないってさ」
「そんなに振り続けるんですか…?!うーん、それじゃあ帰るにも帰れないし、今日はどこか泊まった方がいいですよね」
『だねぇ、どうせ明日も休みだし今日は泊まって
こっか』
そう判断し、スマホでホテルを探していると、駅から少し離れた場所にホテルがあるという情報を見つけ、それにしようと決めた。
そして程なくして見つかったホテルはビル街の外れにあり、まるで隠れ家のように建っていた。
外観はビジネスホテルのような落ち着いた雰囲気の建物だった。
僕と太齋さんはそのホテルに入るなりチェックインを済ませると、部屋に移動する。
入ると、高級感のあるベッドが二つあり、窓から縞麗な夜景も見え、風呂とトイレ別の快適な部屋が広がっていた。
荷物を端に置くと、太齋さんは僕に先にお風呂に入るように促してきたので、
遠慮しようとしたら、タイミング良く嚏が出てしまい、先に入らせてもらうことにした。
シャワーを浴びて、濡れた服からバスローブに着替える。
太齋さんに「お次どうぞ」と伝えると、太齋さんは「ん~ひろくんはバスローブ姿もかわいーね」なんていつもの調子でからかってくる。
「か、からかってないで早く太齋さんも入ってきてください!」
そう言いながら太齋さんの背中を押すと、わかったわかったって笑いながらシャワー室へ入っていった。
…それから数分、ベッドに座って太齋さんを待っていると、バスルームから出てきた太齋さんを見て僕は言葉を失う。
白地のバスローブから見える肌艶、長く綺麗な黒髪から滴る水はまるで宝石のように輝いていて色っぽい。
それがより大人っぽさを引き立てており、我を忘れたように見つめてしまっていた。
しかし、そのときだった
突然、机に置いていた僕の携帯から着信音が鳴り響き、ハッと我に返る。
時刻は夜十時を回っており、慌てて画面を覗くと、非通知からの電話だった。
嫌な予感がして拒否しようとしたのだが、誤って応答をタップしてしまい、聞き覚えのある男の声が耳に入る。
「よお|宏《ひろ》….久しぶりだな。元気にしてたかよ?」
体中の毛穴が開いたように、心臓が鼓動を早め、全身が震え上がった。
その声の主は、間違うはずもない、あの浜崎くんだった。
わざわざ非通知で僕に電話を掛けてくるなんて、きっと私怨でしかない。
すると太齋さんが僕の異変を感じ取り、心配そうに声を掛けてくる。
「ひろくん…顔色悪いけど…?」
僕は動揺しながらも耳からスマホを離して太齋さんに「大丈夫です!」と作り笑いをして
そのおかげで僕はなんとか理性を保つ。
しかしそれも虚しく、切る勇気もない僕は再び耳にスマホを近づける。
「まあ他の男と水族館に行くぐらいだしな?…なあおい、このまま幸せに過ごせるとか思い上がってんじゃねえぞ」
その言葉は僕の中に重くのしかかり、僕はまた絶望感に苛まれる。
改めて、浜崎くんの言葉は僕にとって刃物にしかならないと思い知らされた。
どうしてそんなことを知っているのか
付けられていたのか、もしかするとGPSなんて可能性もあったりして。
僕は浜崎くんから言われた言葉に動揺せざるをえ得なかった。
太齋さんと過ごす中でいつの間にか忘れていた感情…….いや、忘れてはいなかったのかもしれない。
心の中でずっと渦巻いていた不安や恐怖が一気に込み上げてくる。
その思いがどんどん溢れだし、気がつくと僕は鳴咽を漏らしてしまっていた。
そこで電話は切れてしまっていた。
目の前に太齋さんがいるのに、世界に独りぼっちのようだった。
あの悪夢から、浜崎くんから逃れることは無理なのかという畏怖感に
僕は掠れた声を出して身を震わせた。
「や…っ、だ……ざい、さ…」
呼吸が荒くなる
だめだ、太齋さんに、心配をかけてしまう
「ぼ、……っ、ぼぐ…」
そんな僕を落ち着かせようとしてくれたのは太齋さんの暖かい体温で、大きな手だった。
「ひろくん…っ、大丈夫、大丈夫だよ」
太齋さんはそのまま僕の背中を撫でてくれて
その言葉がとても甘くて、頭がとろけそうで、怖くなる。
僕の思考はどんどん沈んでいってしまった。
(怖い、浜崎くんが近くにいるかもしれない…嫌だ嫌だ嫌だ会いたくない)
すると、太齋さんは僕を優しくベッドに横にした。
突然のことで思考が追いつかない僕に、優しく笑みを浮かべると、何も言わずに抱き締めてくれた。
「だ…っ、ざい…さ…すみませ…ん」
「怖がらなくていいよ、大丈夫。怖いものはここには何もないから……ね?」
こんなに優しい抱擁があるだろうか。
太齋さんは僕の背中を赤子をあやすようにトントンと叩いてくれて。
普段より優しい言葉選びにも胸がぎゅってなって
そのおかげで震えは小さくなり
次第に収まっていく。
その代わり、涙が溢れ出てくる。
白いシーツが鼠色に変わっても、泣きやみたくても止まらない。
それでも太齋さんは僕のことを抱きしめることをやめないで、その涙を優しい手で拭ってくれる。
「だざ、いさ…っ、はっ…あ、はあ…」
太齋さんに縋るように、背中に手を回して強く抱きしめ返す。
その間、太齋さんは一時も離すことなく僕をずっと抱き締めてくれていて……
呼吸も徐々に、正常にできるようになっていた。
本当に情けないな、と思いながら太齋さんの腕の中でそのまま眠りに落ちた。
気付けば朝を迎えていた。
どうやらあのまま寝てしまったらしい。
ベッドの上で身体を起こし、目を擦る。
当たりを見渡すと、外は昨夜の雨からは予想もできないほど明るい快晴が広がっていた。
昨夜のことを思い出して、頭を抱える。
「あ…ひろくん、目覚めた?」
太齋さんの声が聞こえてきたので体を起こして振り返ると、そこにはバスローブ姿ではなく既に私服に着替えている太齋さんが立っていた。
「あっ…はい、!あの、太齋さん…昨日のこと…」
「気にしないでいいよ、それよりもう落ち着いた?不安なら無理しなくていーからね」
そう言って僕の頭を撫でてくれた。
その感触が気持ち良くて僕は目を細めると、太齋さんはクスリと笑って言う。
「とりあえずは…大丈夫かな」
その穏やかな声色に更に心が落ち着いた気がする。
その後
太齋さんと一緒にホテルのチェックアウトを済ませた僕は、二人で最寄り駅までの道を歩いていた
そのとき、僕らの前に浜崎くんが姿を現した。
驚きで言葉を失っている僕をよそに、太齋さんは僕の前に立ってくれる。
『ひろくんは俺の後ろに隠れてて』
『……っ、は、はい』
太齋さんの後ろに隠れていても、
『おい宏、俺のとこに戻ってこい。お前は俺の所有物だったろ。なあ?』
語気の強い言葉でそう言われ、僕を洗脳して自分の元に置いておきたい傲慢さが伝わってくる。
『昔調教してやったのに、もう忘れたか?』
「な、なに言って…っ」
『俺に無理やりされて泣いて悦んでたのはどこのどいつだよ?』
「よ、!悦んでた……って……!あ、ああ、あれ、が…あれが浜崎くんには、悦んでた風に見えたの……っ?」
言葉が震える
信じられない言い分につい聞き返してしまう
僕の顔はとても引きつっていたと思う。
それでも、浜崎くんの言葉に対し太齋さんはなにも言わないでいてくれた。
そりゃあ、嫌に決まってる。
好きな人が目の前の男にレイプ紛いのことをされた経験がある
穢れた奴なんて知ったら。
『そこの太齋とかいうちゃらんぽらんな顔だけのやつより、俺の方がいいだろ?』
恐怖こそあったが、それよりも太齋さんを天枠にかけられ、苛立たずにはいられなかった。
それに、太齋さんに助けられてばかりじゃ情けないと思い、太齋さんの隣に立って
浜崎くんの前に姿を見せる。
しっかりと浜崎くんの目を見て、腹を括る思いで僕は口を開いた。
「ぼ、僕はもう、浜崎くんのものじゃないから」
自分でも驚くほどの声量で言葉を吐き出していた。
正直、恐怖で手は震えてる。
今すぐ逃げ出したいし、怖くて仕方ないんだ
それでも僕が言わなきゃ、解決なんてしないのも理解してる。
だから震えながらも、逃げないでこれだけは伝えなきゃいけないと思った。
「浜崎くんと違って、僕に酷いことなんてしない…不安なときはずっと隣にいて安心させてくれる。僕は何言われたっていいよ……でも、この人を悪くいうのだけはやめてほしい」
僕がそう言い放つと、予想通り怒号が飛んできた。
『あ?俺がお前に酷いことしたってか?んだよ全部言ってみろや!』
浜崎くんは声を荒げながら一歩前に出る。
その圧に思わず体が竦むけれど、太齋さんがさっと僕の体を引き寄せて、距離を取ってくれる。
その安心感に、またほんの少しだけ勇気が湧いた。
すると太齋さんが口を開く。
「キミがやっていることはただのストーカーだ、これ以上ひろくんに付き纏ったりなにかをするようなら、こちらとしても出るとこ出させてもらうよ。」
そう口にする太齋さんの声は、普段の穏やかなものとは程遠く
今まで見た事もないような冷徹で鋭い眼光をしていた。
それに浜崎くんは更に怒ると思いきや、バツが悪そうに舌打ちした。
太齋さんが漏らす言葉は、語気が強いわけでもないが、恐ろしいほどの剣幕だったのだと思う。
「これは最終忠告だ、よく覚えておくといい」
太齋さんは言い残すようにそう言うと、僕の手を引いて浜崎くんの横を通り過ぎた。
(太齋さんも、あんなふうに怒るんだ….)
チラッと後ろを振り返ると、そんな僕らを見て唇を噛みながら悔しそうにしていた浜崎くんだったが
特に追いかけてくることも、何かを言ってくることもなかった。
再び前を向いて、太齋さんについていく。
ただひとつ、これから先どうなっていくのかが心配だった。
もちろんさっきの浜崎くんの反応を見れば、これを機に何もしそうにないのは一目瞭然だったが。
結局、太齋さんは僕を家の近くまで送ってくれた。
「もしなにかあったらすぐに連絡して」
「ありがとうございます……あとその、変な話聞かせちゃってすみません…っ」
「いいよ、今苦しいのはひろくんでしょ」
僕が口篭っていると、太齋さんはそれを察したように微笑んでくれた。
「…今はその話より、ひろくんの安全が第一だし。なんかあったら俺が美味しいチョコレート振舞ってあげるからさ」
「で、でも!太齋さんに迷惑が掛かりませんか….?」
「かかんないって。ひろくんのためなら、俺はなんだってするし」
「もし、腹いせにお店にクレームなんて入れられたら…!」
「そこは大丈夫。俺、顔面偏差値とお客の信頼度だけは高いんだから、ね?」
そんな太齋さんの言葉にフッと笑みをこぼす。
太齋さんも微笑んでくれる。
「うん、ひろくんは、そうやって笑ってて?俺が絶対に守るから」
その臭い台詞も、太齋さんが言うと信じれた。
そう安堵しながらも、複雑な気持ちを抱えた。
その後も色々と話し合った僕らは、今後のことはまた連絡を取り合って決めることにして、今日は解散することになった。
まだ完全に不安が無くなったわけではないが、太齋さんが居てくれるだけでとても心強かった。
なにより、浜崎くんの脅威に負けてはならない気がしたのだ。
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