久々に温かな陽気が戻って来て、降り注ぐ真昼の日差しに溶け始めた雪が煌めいている。冬の一時的な撤退に世界が喜び、寿いでいるようだった。しかし、グリュエーの心は冬眠の前に蓄えを怠った愚かな栗鼠のように焦燥感に駆られている。一つはユカリの体調不良だ。かわる者派の襲撃の際、かわる者と接触したユカリは何か精神的な傷を負ったらしい。それが蜂の針よりもユカリを苦しめているのだという。具体的な話はまだ聞いておらず、ユカリが落ち着くのを待つことになったが気になって仕方が無かった。もう一つはノンネットの元に遣わしたグリュエーの魂の分け身が未だに戻らないことだ。その上、今のユカリにこのことがばれれば余計な心労のせいでより傷を抉ることになるかもしれない。
気が付けば魂を送った方角――今の地点からだと南々東――に目をやってしまう。レモニカには何度か呆けているところを見られ、どうかしたのかと尋ねられてしまった。早々に解決を図らねばならないと心に決める。
直ぐに思いついた策は二つあった。一つはもう一度魂を分割して風に憑依させ、ノンネットの元へ送る。とはいえこれ以上分割した魂では複雑な使命を与えられない。様子見に留めて状況把握を優先する策だ。安易な策だとグリュエー自身も分かっていた。しかしこの力のお陰で救済機構の寺院から逃れられたこともまた事実だ。もう一つの策は使い魔に頼むことだ。無茶で、ある意味自分勝手な策だ、自身の失敗を隠すために魔導書を救済機構の元に送り込むのだから。
巨大な要塞の中の巨大な港は、まるで昔からの営みであるかのように活気に溢れている。積荷を積んだ大小の船が入港しては出航していき、城の倉庫は蓄えられる。ここはライゼン大王国にとっては他国の土地であり、まさに我が物顔だ。ガレイン連合に属するセルマンリー王国が未だに使者の一人も寄越さないのはどういう訳か、グリュエーには想像もつかない。
グリュエーは要塞内部側に設けられた露台で港を眺めていた。多くの労働者に混じって、視界をちらつく羽虫のような残像が見える。文字通り目にも止まらぬ速度で働いている運ぶ者だ。大王国の仕事を手伝っているのだ。使い魔たちの中でも特に引く手数多の有用な魔術を多数修めている。お陰でグリュエーの魂を救いに行かせることは出来ない。他に移動に適した使い魔というと駆る者だが、やはりこき使われている。
「お暇ですか? グリュエーさん」
そう尋ねてきたのは挑む者だ。いつの間にか木の人形がグリュエーの隣にやって来て、手すりにもたれかかっている。
「うん。大王国の目的が達成されるまでは封印を譲ってくれないらしいから。挑む者はどう? 暇?」
でなければ他の使い魔同様にこき使われているはずだということはグリュエーにも分かっていたが。
冒険家としての魔術を修めた挑む者も悪くない選択肢だった。速さには期待できないが、より確実な成果を出しそうだ。
「ええ、暇です。ある意味、長らく求めてきた安定した生活ですから、地上に平穏を遣わされた神々に感謝しなくてはなりません」
木目の表情ながら穏やかな気持ちであることは表されている。その視線は要塞に差し込む陽光を幼い我が子でも眺めるように愛おしげに見つめていた。
「平穏ね」とグリュエーは呟く。
ユカリは心痛に苦しみ、グリュエーは秘密に焦っている。平穏など危難を覆い隠す薄布に過ぎないのだ。
「ある意味っていうのは?」とグリュエーは気づいて尋ねる。
「私は冒険家ですから」木偶の挑む者は自分の姿を披露するように腕を広げる。「平穏な日常を求めるのは、冒険が日常になってしまわないように、なんですよ」
「……要するに退屈なんだね」
「ええ。でも得難いものであることは事実ですから、この運命を有難く感じてはいますよ」
「じゃあ冒険の話は聞かない?」
「聞きます」
その木目の瞳の輝きは隠しきれなかった。先ほどまでの穏やかさとは違って、初めて狩りに出かけることを許された少年のような眼光だ。どこかユカリに似ている気がしたせいか、グリュエーは秘密と秘策を包み隠さず話す。
「なるほどなるほど。遥か南南東の地へ赴き、救済機構の砦へと乗り込み、グリュエーさんの魂と使い魔たちを救い出す、と。それは大冒険ですね」
「うん。今いる使い魔たちのなかでこの任務を達成できそうなのは挑む者くらいのものだよ」
「そしてそれは秘密の任務。ユカリさんには知られるわけにはいかない、と」
「そういうこと。やってくれる?」
「いいえ、お断りします」グリュエーが理由を問い質す前に挑む者は答える。「私、ユカリ派なので。ユカリさんの意に反しかねないことはしたくありません。確かにグリュエーさんの状況をユカリさんに知られると重荷になるでしょうから、それを黙っておくことは支持しますが。あとお忘れのようですけど、使い魔が出て行けばユカリさんは気づきますよ? 魔導書なので」
そうだった。
にわかに城の内部が慌ただしくなってきた。またもや戦士たちが上に下にと走り回っている。別の、下方の露台でユカリが使い魔たちに指示しているのが見えた。グリュエーは手摺を乗り越え、露台を飛び出し、風を纏ってユカリのもとへと降りたつ。
「安静にしてなくて大丈夫なの?」
「うん。体は何ともないからね。ちょっと熱っぽい程度で」と笑みを浮かべるユカリはぎこちない。「それよりまた大量の魔導書が近づいて来てるんだよ。グリュエーも気を付けて」
「かわる者たち、かどうかは分からないんだよね?」
「うん。何とか気配を読み取ろうとしてるんだけど。昨日と違ってひとまとまりになってるから、大体の数もよく分からない。狩猟団の可能性もあるね」
「とにかくユカリはじっとしててよ。グリュエーたちで何とかするから。どっちから来てる?」
グリュエーはユカリの指さす方へ、宙を駆けるように城の内部を横切り、外部の歩廊へとやってくる。多くの戦士たちが弓を構え、近づいてくる使い魔たちを狙っている。
一陣の風が吹きつけ、グリュエーを取りまく。するとグリュエーは戦士たちに呼びかけた。
「待って! 大丈夫だよ! あの使い魔たちはこちらに投降するつもりだから!」
その時、グリュエーに全ての記憶が統合されたのだった。ノンネットの元へと遣わしたグリュエーの記憶だ。作戦は概ね成功したようだ。
ノンネットには救済機構の暗部を伝えた。その上でそれでも機構を出るのではなく聖女になることをノンネットは選んだ。内部から変えるという言葉をグリュエーは信じると決めた。そして使い魔たちのおまけつきだ。
とにかくグリュエー自身の独断専行についてだけ、使い魔たちを口止めしなくてはならない。疑いが無ければ【命令】で聞き出すこともないはずだ。
しかしグリュエーが要塞を飛び出そうとした時には既にユカリとベルニージュ、レモニカとソラマリアが使い魔侍る者を出迎えていた。
逃げ出したい気持ちを抑え、グリュエーもユカリたちの元へ飛んで急ぐ。しかし予想と違った反応を受け取ることになる。
「すごいね。グリュエー。こんなにも沢山の魔導書を手に入れるなんて」
あまりにもユカリらしくないように感じられた。その笑みを浮かべた頬は火照っていて、目はどこか虚ろだ。確かに熱があるようだった。
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