ひび割れたアクリルガラス。腐食した鉄のフレーム。
天井近くにぶら下がった照明だけが、不自然なほどに煌々と輝いていて、水槽の底に積もった藻と砂を、やわらかく照らしていた。
「……不気味だな、こりゃ」
ゾロがぼそりと漏らす。だが、誰もそれに返す言葉を持たなかった。
耳を澄ませば、どこからか、かすかに水の流れる音がする。
それはまるで、誰もいない舞台で、最後の演目だけが終わらぬまま続いているようだった。
ふいに、チョッパーが足を止めた。
その小さな蹄が、うっすら濡れたタイルの上で、ぴちゃりと音を立てた。
「……ここで、たくさんの命が……死んだんだ」
「え?」
「薬品の匂いに混じって、そういう匂いがしてる」
誰かが置き去りにしたのだろう。床に散らばる、虹色の鱗片。 澱んだ水たまりの中で揺れ、まるでまだ息づいているかのように、光を返している。 空気には、どこか薬品の匂いが混じっていた。それは、かつて誰かが最後まで“生かそう”とした名残なのか。
あるいは、“美しさ”だけを残して消えていった命の、無言の証なのか。
青く、静かで、そして残酷なほど美しい空間。
言葉よりも先に、何かが胸の奥に沈み込んでいくのを、彼らは確かに感じていた。
サンジもゾロも、いつもの軽口を交わすことなく、ただ立ち尽くしていた。
不意に、ロビンが足を止める。
曇った水槽の表面に、そっと手のひらを添えた。
触れた硝子は、想像より冷たかった。
指先に、わずかに湿り気を感じたのは、錯覚か、それとも…
「皮肉ね」
ロビンは誰にともなく呟いた。
「こんなに海に囲まれた島で、わざわざ“海を閉じ込める”だなんて」
その声が、かすかな水音とともに空間へと溶けていく。 そのとき、水槽の奥に沈んでいた何かが、かすかに揺れたように見えた。
「……この水槽、外の海と繋がってる」
ロビンの言葉に、ゾロがわずかに目を細める。 確かに、水槽の一部に、海へと続く導管のようなものが見える。
潮の満ち引きに合わせて、海水が静かに出入りしていた。
誰もいない水族館が、わずかに呼吸しているようだった。
魚の姿は、どこにもなかった。
それでも、水槽いっぱいに広がる青だけは、なぜだか胸の奥に引っかかるような、懐かしさを帯びてそこにあった。
ウソップは水槽の前にしゃがみこみ、手元の工具で割れたパイプの断面を覗き込んでいた。
「たぶん……こっから水を引き込んでたんだな。すげぇ仕組みだよ、これ……」
彼の声には、小さな興奮が滲んでいた。けれど、その奥には、かすかな寂しさも見え隠れしていた。
「ここを作った人は……一体何を意図したかったのでしょうね」
その問いは、ロビンの静かな声に溶けるように重なった。
一瞬、空気がわずかに重くなる。
ゾロは黙ったまま目を伏せ、チョッパーは水槽の奥をじっと見つめていた。
コツ、コツ、と軽やかな足音が静寂を割った。
「なんかよ……ここ、思ってたよりヘンな場所だな」
ルフィがふらりと中に入り、天井を見上げながら呟く。
その声には、いつもの無邪気さがあった。けれど、その瞳だけが、どこか遠くを見ていた。
「魚いねェのによ、水の音だけずっとしてて…」
「……それが逆に、不気味なのよ」
ナミが壁際から声を投げる。
彼女は埃を払って展示プレートを読み込んでいた。顔には複雑な影が浮かんでいる。
「この施設、外の海流を引き込んで、自然の海を“再現”しようとしてたみたい。
でもね、構造が複雑すぎて……たぶん、途中からメンテナンスが追いつかなくなったんじゃないかしら」
「……なんとなく、わかる気がするな」
ウソップがぽつりと呟いた。
顎に手を当てたまま、目線は自分の掌へと落ちていく。
「モノってさ、止まった瞬間から、崩れてくんだ。 ちゃんと動かしてるつもりでも、ほんのちょっと手を離しただけで……
すぐに、何もかもが……」
そこで言葉が途切れる。
ゾロがちらと横目で彼を見たが、何も言わなかった。
ルフィは水槽の前まで歩いて行くと、ぺたんと床に座り込んだ。 両足を投げ出し、青い水の向こうをじっと見つめる。
「この色……メリーと似てんな」
ぽつりと落ちたその声に、誰も反応できなかった。 けれど、その場にいた全員が、きっと、同じことを思っていた。
――いつか、終わってしまうものがあるということ。 どんなに愛していても、守っても、それでも流れていく時間があるということ。
それでもなお、美しさだけは、こんなふうに、残ることがあるということだった。
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