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レオニード・ソロキン、バレエ界では言わずと知れた天才だが、何時しかその表舞台から姿を消した男。彼が世間から離れている間に何があったのかは誰も知らない。しかし彼は再び世界の舞台へと舞い戻ってきた、天才振付師として。
元々バレエ時代から群を抜いていた彼のセンスはしかし何処か現実味がなく夢物語だとさえ言われていた。それがどうした事か、人の身に収まるように調整されていながらもその輝きは微塵も失われていない彼の振付に数多の人々が魅了され、我が物にせんと彼に群がった。しかし彼は元来プライドが酷く高く、如何に目が飛び出るような報酬を引っ提げられようとも気に入らない相手ならば顔色一つ変えずに素気無くそれを叩き落とす。そんな彼の姿に傲慢だ無礼だと皆が憤るも、それでも圧倒的な芸術の前ではそんな戯言も塵芥と化した。
そうして、そんな彼のお眼鏡に叶った天才が一人いた。
随分と偏屈な男であったと思う。初めて会った印象は決して良いとは言い切れなかった。ペラペラと未だロシア語には慣れていない此方など知ったことかとでもいうように言いたいことをひたすら捲し立てるレオニードについ苛立って夜鷹は言ったのだ、先ずは自分のスケートを見ろと。人によっては自意識過剰とも取れる発言であるが、こと夜鷹純に至ってはそれがこの男を説得する為の一番の近道だった。そもそも自分だって言葉を尽くして誰かに何かを頼むというのは不得手であるし、夜鷹は何もこの男に謙って振付を依頼したい訳ではない。望むのはあくまでも対等な関係性だ。
夜鷹のスケートを見たレオニードの反応は一瞬にして変わった。どうやら彼のお眼鏡に叶ったようで何よりだが、それにしてもいきなりこうも距離を詰めてくるのは煩わしいことこの上ない。とはいえ、今までの振付師の中で恐らくこの男が夜鷹のスケートを活かす為には最良であると自分の勘が告げている以上今更無かったことにも出来ない。帯同させていた翻訳者に自分の言葉を伝えるように言うと顔を蒼白にさせて首を振った、しかし夜鷹がリンクに響く程の大きな舌打ちをすると渋々と言った様子でレオニードに向かってその言葉を伝える。
『僕を失望させないでよ………と仰っています』
『アッハッハ!!!あぁ……勿論だとも!!』
一ヶ月後、漸くレオニードから振付が完成したという彼にしては端的なメールが届き夜鷹はやっとかと嘆息した。そもそもレオニードは夜鷹の為に一からスケートの振付というものを勉強していたので一ヶ月というのは驚異的なスピードであるのだが、悲しいかなそれを指摘し賛美してくれる者は此処には居ない。しかしメールの続きには、明日このスタジオで教えるから直接来い、という続きがありそれを目にした瞬間夜鷹は迷うことなく己のスマホを壁へとぶん投げた。何故だ、出来ているのならさっさとこのメールで送れば良い話だろう。何をもったいぶっているんだあの男は。思わず直接電話をかけて抗議してやろうかと考えるも、あの偏屈な性格では如何に此方が怒鳴ろうが恐らく動じることさえないだろうという事が容易に想像出来た。仕方なく、深く息を吐き出して夜鷹はその場に座り込む。あぁ全く、実に面倒くさい振付師だ。これで微妙な振付でも見せてみろ、間違いなく自分はその場で癇癪を起こす。
なんて昨日からずっと考えていたからだろうか、すれ違う人間は皆夜鷹の顔を見ればまるで恐ろしい鬼でも見たかのように道を空けていく。別に煩わしさが軽減されるので良いけども。時間より早く到着したスタジオには、しかし夜鷹よりも先に着いていた先客がいた。それがレオニードではないことに首を傾げる。場所を間違えたか、と思い扉に刻まれた数字を見るも昨日メールに書いてあったものと同じ、となればあの青年はレオニードの関係者か?
「ねぇ」
「あっはい!えっと、夜鷹さんですよね?」
「そうだけど」
「レオから貴方に振付を預かっています」
そう人好きのする笑みを浮かべながら目の前の青年が言った言葉に夜鷹は疑問を覚える。預かっている?結局本人は来ないということか、それならば別に昨日のメールで済ませてしまえばよかっただろうに、何故わざわざこの青年を介してまで直接振付を渡そうとする?
青年の金色の髪と眼は夜鷹が見慣れた金色よりも幾分温かみがある。夜鷹よりもうんと年下なのだろうが程良く鍛えられた身体はアスリートにも見えた。長い手脚とくびれた腰、バレエをするものならば喉から手が出る程欲しがるであろうプロポーションから見るに、レオニードを師にでもしているのだろうか。
訝しむ此方の視線に気付いていながら、何処か困ったような笑みを浮かべつつも青年は揺るぎない声色で説明を続けた。
「今から俺が貴方の振付を踊ります」
「……僕が依頼したのは氷の上での振付だけど?」
「其処はちゃんと補完しながら踊りますよ!俺はあくまでもこの振付の意図を貴方に伝える為に派遣されたので!」
「振付の意図、ね……」
正直に言うならば夜鷹は曲や振付の意図というものを余り掴めた事がない。恋や愛なんて自分の人生には無縁なくせに、それを理解しろというのがそもそも無理難題である。芸術的な感性は己にはない、ただスケートは別にそれが無くても困らない。あくまでもスケートのルールに定められた範囲の美を表現しさえすれば得点は貰えるので。だから、レオニードがわざわざこの青年を寄越してきたのだって無駄なことをと諦観にも近い思いで吐き捨てたのだ。どうせ自分には理解できない、ならば意味がない、そう思っていた。
青年が踊りを始める前のポーズを取る。此処にいるのは夜鷹と青年の二人だけなので両方が黙ればその場には自然と沈黙が落ちる。それなのに青年がポーズをとった瞬間、音さえ出すことを憚られそうな緊張感に場が包まれた。夜鷹はその重苦しい雰囲気に思わず息を呑む。
次いで、音楽が流れ出す。壮大でゆっくりとした音に合わせるように彼の手が、指先が、宙に円を描く。ぐるり、ぐるりと大きく動いているのに何処か繊細で、まるで此処が氷の上であるかのように彼の動きは重力を感じさせず滑らかだ。テンポが上がる曲に合わせて彼の動きも段々と大胆になっていく。トンッと軽い音を立ててその場で4回転をして危なげなく着地し、そのままくるりくるりと先程までの力強い動きを忘れさせるように優雅に回る。スケートにおけるスピンはピルエットに変換して違和感なく曲に落とし込んでいた。何より上半身を大きく動かしているというのに軸が微塵も振れず危なげが一切ない。そして彼の表情、動き、それは指先から爪先に至るまで全てが激しい感情に満ち溢れている。
夜鷹がレオニードに依頼した曲は元々、恋に敗れた作曲家が作ったという逸話があるものだ。だが夜鷹にとってそんな情報は些末事だった、それが何だ、自分はただ美しいスケートを音に合わせて滑るだけ。それなのに、手に入らないのに必死に伸ばして空を切る指先も、苦しみながら縺れさせる足元も、苦悶の表情も、身悶えるように自分を掻き抱く体も、その全てがこの曲が伝えたいことを否が応でも夜鷹へと知らしめてくる。レオニードがこの振付に込めたのは、失恋の痛みと悲しみ。何とも陳腐なテーマだが、だからこそ其れを誰しもが分かるように表現するのは難しい。これが、天才振付師と謳われるレオニード・ソロキンか。
いや、だがこの振付は恐らく本来なら現実では成し得なかった筈だ。彼の脳内を完璧に理解し、彼の振付を寸分の違いなく自分の身体に落とし込み、其れを夜鷹へと余すことなく伝えているこの青年のおかげで、漸くこの振付は完成している。その圧倒的な才能に、化物とも言える彼の表現力と身体能力の高さに思わず夜鷹は身震いした。きっとこの青年は自分と同じ“眼”を持っている、いやもしかしたら、それ以上の。
消えるように終わりを告げた音楽に合わせて彼の動きも静かに止まる。うっすらと彼の首筋に流れる汗を見て、あぁ彼も人間なのだと今更気付いた。素晴らしい演技には賞賛を、それはスケートで夜鷹が学んだことの一つでもある。夜鷹からの拍手に、何故か青年は驚いたように目を見張ってそうして実に嬉しそうに笑った。随分と大人びた青年だと思ったが、こうしていると年相応に見える。
「ありがとうございます、それでどうでした?」
「うん、悪くない」
「ですよね!俺もこの振付見た時に感動しちゃって!」
演技直後で興奮しているのだろう、何処か初めとは違って興奮した様子で口数が多い青年にあの振付師の姿が重なるが、不思議とこの青年の言葉を聞いているのは悪くない。それから何度か青年に振付を繰り返してもらい、動画にも収めて、気付けばスタジオの貸切時間を当に過ぎており二人は追い出されるようにその部屋を後にした。別れ際、夜鷹が名を尋ねるとその青年は“明浦路司”と名乗った。変に長い苗字を呼ぶのも面倒で名前を呼ぶと、彼は可笑しそうに皆そっちで呼ぶんですよね、なんて言うものだから何だか面白くない。
「夜鷹さんのスケートも見てみたいな」
「観に来ればいい」
「そうですね……ねぇ、夜鷹さん」
先に歩いていた司がくるりと夜鷹の方を振り向くとにこりと笑った。その笑みが、慈愛を感じさせるのに野生の動物が狙いを定めた時の様に何処か鋭くて、思わず夜鷹は息を呑んだ。
「レオの振付、無駄にしないでくださいね?」
「……ハハッ!!」
あぁ、これは面白い。今後レオニードの振付を依頼する度に彼に会えるのだとしたら実に楽しみだ。底が見えない才能、それが全て自分の為に使われたという充足感、全くもってあの獅子の秘蔵っ子は実に魅力的だ。これが全てあの振付師の思惑によるものならば彼はとんだ策士だが、わざわざ猛禽類の目の前に極上の獲物をぶら下げた自覚は果たしてあるのだろうか。まぁ良い、たっぷり時間はあるのだから。
「これから宜しくね、司」
「ただいま帰りました!」
「おかえり」
レオニードの相棒とも言うべき司は、朝と同様に太陽のような明るさで自身の帰宅を玄関から叫んでいる。対象的な司と夜鷹がどう作用し合うか内心少しは心配していたのだが、どうやら無駄な配慮であったらしい。レオニードは自身の振付を現実に落とし込む為に司を利用している。彼の物事に対する深い考察力と人の心の機微を読み取る洞察力、そして高い身体能力と夜鷹純と同じ“鷹の眼”を持ってして漸くレオニードの理想とする振付はこの世界に生まれるのだ。無論、毎回このような方法をとっている訳ではない。普段は其処らのダンサーを雇って踊らせ動画に撮り、それを依頼人にメールで送っている。司を使うのはレオニードが“本物”を作る時だけだ。
レオニードは自分が振付したものを踊らない、いや踊れない。彼の理想とするものは何時だって自分さえ超えたものでないと許せないからだ。だからこそ、そのような出来のものを渡せるのは少なくともレオニードよりも“踊れる”奴でなければならない。今の所そのお眼鏡に叶ったのは片手で足りる程であるが。そうして司もまたその一人、
「夜鷹純はどうだった?」
「貴方が気にいるのも納得ですね、俺もあの人の演技見たいなぁ」
「何だい?司がそう言うなんて珍しい……妬けるね」
「仕方ないでしょう?俺が一番好きなのは貴方の振付なんですから、其れを実現できる人は誰だって大好きです」
「参ったね、これは」
其処で僕自身を好きと言ってはくれない辺りまだ幼いのか、それとも確信犯なのか。いずれにしても恐らく司が夜鷹の演技を見て仕舞えば惹かれることは必然であるとレオニードの勘は告げている。まぁレオニードだって一度手に入れた彼をみすみす他の男に取られる程迂闊ではないけれども。それに見た所夜鷹は愛やら恋やらと言うものにまだまだ疎い様に思える。いや、しかし油断は禁物とも言うか。
「素晴らしき表現者に出会えたのは実に幸運だが、まさか好敵手にもなり得るとはね…」
「何の話です?」
「君が魔性の男だって話」