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(……ひどい顔)
ナオミに「不快なツラ、洗ってきなさい」と言われ、洗面所へ辿り着く。
なんで、よく知らない男にそんなことを言われなければならないのか。とも思ったが、改めて自分の姿を確認し驚愕した。
鏡の向こうには、泣き腫らして腫れぼったい瞼と、死人みたいに色味のない唇。
見るに堪えない。けれど視線を逸らすこともできなかった。
蛇口をひねる。冷たい水が掌を打ち、流れ落ちていく。
顔を何度か洗ううちに、胸の奥のもつれた糸が僅かに緩む。
それでも、あの部屋で見た地獄の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
失恋、裏切り、汚辱。
その全部の後始末を、こんなふうに他人の水で流している自分が、どうしようもなく惨めだった。
(……いつか結婚しようって言ってくれた言葉も、嘘だったのかな?)
信じていたものが足元から崩れ去る感覚に、再び目頭が熱くなる。これが夢だったらどんなに良かっただろう。
本当は未だに悪い夢を見ているのではないだろうか?
そんな淡い期待は、肌を撫でる朝の空気の冷たさと、鏡に映る「男物のTシャツを着た自分」という異様な現実によって、無慈悲に打ち砕かれる。
昨夜の雨。裏切りの現場。泥だらけのケーキ。
それらは夢などではなく、自分の人生に深く刻まれてしまった消えない傷なのだ。
タオルで頬を拭うと、背後のドアがわずかに軋んだ。
「――顔は、洗えたみたいね」
ナオミの声だ。
振り返ると、朝の光を背にした彼が立っている。鋭い輪郭を持つその美貌は、メイクどころか薄い影すらないのに、まるで作り物のように整っていた。
「化粧もしない顔が、それ。……まぁ、さっきよりはマシにはなったわね」
「……すみません」
俯いて、シャツの裾をぎゅっと握りしめる。
謝る必要なんてないはずなのに。むしろ、勝手に服を脱がされたことや、デリカシーのない物言いに怒る権利だってあるはずなのに。今の穂乃果には、その怒りを支えるだけの自尊心がどこにも残っていなかった。
「……あの、ナオミさん。……昨日は、助けていただいて……」
「お礼なんて後でいいわよ。アタシ、朝から湿っぽいのは大嫌いなの」
ナオミは鼻を鳴らすと、無造作に穂乃果の腕を掴み、リビングへと促した。
「そんな幽霊みたいな顔で立ち尽くしてないで、そこ座りなさい」
無理やりソファに座らされる。
戸惑う間もなく、ナオミはどこからともなく取り出したくしを手に、穂乃果の背後に回った。
「……っ」
髪に触れられた瞬間、穂乃果の身体が小さく跳ねる。けれど、ナオミの手つきは驚くほど迷いがなく、それでいて、こんがらがった毛先を丁寧に解きほぐしていく。
「あんた、普段から自分を適当に扱ってるんでしょ。髪が泣いてるわ。……男に尽くす前に、自分に手間をかけなきゃだめよ」
「……っ、……はい」
返す言葉もなかった。
ナオミは手慣れた手つきでヘアクリームを手の平に広げると、パサついて広がった穂乃果の毛先にじっくりと揉み込んでいく。
目の前にはリビングの壁があるだけで、鏡はない。今の自分がどんな顔をしているのか、髪がどう変わったのか、穂乃果には確かめる術がなかった。
視界にあるのは、膝の上で白く強張った自分の拳と、時折フレームインしてくるナオミの大きな手だけだ。
ナオミの指先が毛先を梳くたび、柔らかな香りが立つ。
それは石鹸でも香水でもない、ただ生身の体温と呼吸の匂いだった。言葉の端々に棘のようなもんが滲んでいるものの、髪に触れる手は驚くほど優しい。
その優しさが、かえって穂乃果の胸を痛くさせた。
昨日まで隣にいた恋人の直樹は一度だって、こんなふうに自分の髪を慈しむように触れてくれたことなんてない。
「……穂乃果って言ったわね。恋人に浮気されたんだかなんだか知らないけど、最低限の武装は必要よ」
「武装、ですか……?」
「そう。化粧は女の武器。外見を整えることは自分のステータスを整えることに直結してるんだから」
ナオミは最後の一房を指先で弾くようにして整えると、穂乃果の正面に回り込み、床に片膝を突いた。
見上げる形になったナオミの視線は、鋭く、それでいて射抜くような熱を帯びている。
「あんた、看護師なんでしょ? 仕事じゃ他人の体調管理には命かけてるくせに、自分の『心』を守るための手入れは空っぽ。……そんなんじゃ、舐められて当然だわ」
ナオミの手が、傍らに置いた重厚なメイクボックスの蓋を押し上げた。
中には、使い込まれた筆や、見たこともないほど色彩豊かなパレットが整然と並んでいる。
「いい、穂乃果。自分を安売りする女に、男は敬意なんて払わないの。あんたが『どうせ私なんて』って顔をしてるから、男は平気で裏切るのよ」
「……っ」
突き刺さる言葉に、穂乃果は思わず唇を噛んだ。
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かんな
あかね ♛❤️♛