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ラヴィニアのくすんだ緑の瞳が、驚愕に一瞬だけ見開かれる。 次の瞬間、ユスティナは致命の刃を振るうことすらしなかった。代わりに、彼女は自ら極限まで踏み込み、両者の間合いを完全に潰しに掛かったのだ。
――近すぎる。
剣術という枠組みそのものが崩壊する、いわゆる零距離。ラヴィニアは即座に己の不利を悟り、体勢を立て直そうと後方へ跳躍を試みる。だが、その反応は歴戦の傭兵の速度に対して、ほんの半拍だけ遅れた。
ガチン、と鈍い金属音が鳴る。
ユスティナの放った肩が、強烈な体当たりとしてではなく、ラヴィニアの重心を的確に狂わせるための打撃としてぶつかったのだ。さらに間髪入れず、甲冑の防御が薄い関節の継ぎ目へと、鋭い肘打ちが正確にめり込む。
「……ぐっ!」
急所を突かれ、ラヴィニアの細い喉から息が詰まる音が漏れた。反射的に腕を振り上げ、相手を突き放そうとする。王国騎士である彼女も、当然のことながら近接格闘の訓練は積んでいる。だが、騎士にとってのそれは、あくまで剣術を補佐するための補助技術に過ぎない。対して、ユスティナのそれは全く違った。泥と血に塗れた戦場で生き残るためだけに純化された、冷酷なまでの実戦仕様の体術である。
振り上げたラヴィニアの腕が、蛇のような手際で絡め取られる。一瞬にして関節が極められ、それを嫌って無意識に抵抗の力を入れた瞬間――相手の反発力すらも利用する恐るべき技術によって、ラヴィニアの重心が地面から完全に浮き上がっていた。
「……甘いな」
耳元で、這うような低い囁きが落ちる。次の刹那、ラヴィニアの天地が激しく反転した。視界の中で、頭上で重なり合う木々の枝葉と、踏み荒らされた土が高速で入れ替わる。為す術もなく、背中から地面へと無慈悲に叩きつけられた。ゴフッ、と重烈な衝撃が全身を貫き、肺葉の奥に溜まっていた空気が一気に吐き出される。
「――っ、は……!」
声にならない痙攣が喉を震わせる。酸素を求めても、一時的に麻痺した横隔膜が機能しない。地面の冷たい土の感触が、あまりにも近すぎた。
ユスティナは、ラヴィニアを投げ飛ばした勢いを殺すことなく滑らかに一歩後退し、絶妙な距離を取った。もがく相手に追撃の刃を突き立てる真似はしない。ただ、構え直した剣の切っ先を下げ、倒れ伏したラヴィニアを冷徹な眼差しで見下ろした。
「立てるなら、立て」
勝者の傲慢さなど微塵もない、ひどく淡々とした声だった。
「でも、次は受け身を取らせない。そのまま首の骨を折る」
肺の痛みに顔を歪めながら、ラヴィニアは奥歯をギリリと食いしばった。全身の神経が警鐘を鳴らし、体がすぐには言うことを聞かない。それでも、彼女の誇り高き意識だけは、決して折れてはいなかった。土に塗れた指先が、傍らに落ちていた折れた剣の柄に触れる。それをすがりつくように掴み、絶対に離そうとはしない。
ラヴィニアは、乱れた呼吸を必死に整えながら、ユスティナを睨み返す。その間にも、森の奥深くから漂ってくる空気が、明らかに異質なものへと変容しつつあった。昼下がりの森が持つ本来の静寂が、肌を刺すような高密度の魔力によってビリビリと塗り潰されていく。
ユスティナは、すでにその危険な胎動を感じ取っていた。だからこそ、ここでラヴィニアとの無為な斬り合いを強制的に終わらせたのだ。背後で変異しつつある、守るべき少女の元へ、一刻も早く駆けつけるために。
しばらくの間、ラヴィニアは冷たい土の上で身動き一つとれなかった。背中から容赦なく叩きつけられた凄絶な衝撃が、未だに骨の髄で鈍い反響を繰り返している。浅く息を吸い込もうと肺を膨らませるたび、肋骨の内側で硬いものがメキリと軋み、痺れるような激痛が遅れて全身を駆け巡った。
横倒しになった視界の端で、薄暗い森の梢が風に揺れている。急激に冷え始めた大気が、踏み荒らされた湿った土の匂いと、カサカサに乾いた落ち葉の匂いを鼻先へ運んできた。
すでにそこに、赤毛の女戦士の姿はない。
――負けた。
その冷徹な事実だけが、薄れゆくラヴィニアの意識を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。地面に頬を擦り付けたままの視界が、森の上に広がる空を映し出している。秋の入り口特有の、高く、どこか空虚な空。色を失いかけた薄い雲が、地上の死闘など知らぬげにゆっくりと流れていく。
すぐ傍らには、無残に踏みにじられた麦畑の残骸があった。実りを迎えようとしていた穂は泥に塗れ、その奥には半ば倒壊した民家が見える。抉られた壁面と剥き出しになった黒い梁が、先刻までここで繰り広げられていた嵐のような破壊の痕跡を無言で晒していた。
泥に塗れた指先を、微かに動かす。
動いた。
次に腕を支えにして上体を起こそうとした瞬間、目の前が真っ白になるほどの鋭い痛みに息が詰まる。肋骨が折れている。数本は確実に。王国の騎士として幾度も死線を潜り抜けてきた経験が、肉体の損傷具合を冷静に告げていた。
霞む視界の先に、見慣れた銀の輝きが転がっているのが見えた。己の半身とも呼べる白耀の剣。だが、その誇り高き刃は無残にも半ばでへし折れ、泥と血の混じった水たまりに沈んでいる。
――完全な敗北。
その言葉は、驚くほど静かに、そして冷たく胸の奥底へ落ちていった。あのユスティナという女は、確実に自分を殺せたはずだ。あの無の距離で、完全に虚を突かれた体勢で、圧倒的な実戦の技量を以てすれば。もし自分が逆の立場であれば、後顧の憂いを断つために躊躇なく敵の喉笛を掻き切っていただろう。なのに、彼女はそうしなかった。明確な隙があったにもかかわらず、止めを刺さずに背を向けたのだ。
ラヴィニアは、痛みに耐えながらゆっくりと瞬きをする。
何故だ。
吹き抜ける秋の風が、カサカサと枯れ葉を鳴らす。どこか遠くの枝で、名も知らぬ鳥が短く鳴いた。自然の森は、人間の血生臭い争いなど端から興味がないというように、ただそこにある命の営みを続けている。
――黙って、生かされた。それは、強者が弱者に向ける安い慈悲ではない。かといって、騎士の誇りを踏みにじる侮辱でもない。明確な”意味”を与える行為だ。これ以上進むなという、境界線の提示。ユスティナは、圧倒的な暴力の差によって、その絶対的な意味をこの泥の上に置いていったのである。
ラヴィニアは血のにじむ唇を強く噛み締め、片肘をついてゆっくりと、ひどくゆっくりと上体を起こした。視界がぐらりと揺れ、折れた肋骨が肺を突き刺すような激痛に胃液が込み上げる。それでも、彼女は再び地に伏すことだけは良しとしなかった。
泥にまみれた右手を伸ばし、折れた剣の柄を握りしめ、彼女は半分の刃を静かに見つめる。幼い頃から、手に血豆を作りながら何度も、何度も振り下ろし、己の掌の形に馴染ませてきた正統なる直剣の線。王国の正義を背負い、気高き誓いを立て、敵の血を吸い込むための誇りの残骸。
「……」
泥のついた唇が微かに動く。だが、形を持った言葉にはならなかった。用を為さなくなった剣を、その場に投げ捨てることなど到底できない。同時に、この無残な鉄の塊を握りしめて再び立ち上がり、前線へ向かうことも絶対に不可能であると、彼女の理性は冷酷に理解していた。
ラヴィニアは、泥まみれの折れた剣を、自らの胸元へ静かに引き寄せた。まるで、傷つき倒れた大切な誰かを庇うように。あるいは、砕け散った己の矜持を抱きしめるように。
そして、激痛に耐えながらゆっくりと顔を上げる。視線の先には、昏く口を開けた森の奥深さがある。木々が擦れる音の向こう側。あの銀髪の少女と、己が背中を追い続けるアルベルトがいるであろう、深淵の領域。
そこへ、自分はもう行けない。――行っては、ならない。
この泥の地で剣を折られ、生かされたという事実が、戦場における彼女の役割の終わりをはっきりと告げていた。
ラヴィニアは、静かに目を閉じる。そして、一度だけ深く、細く息を吸い込んだ。秋の冷たい大気が肺の奥底まで満ちていき、悔しさで焼け焦げそうだった胸の内の熱を、ひどくゆっくりと、しかし確実に冷ましていった。