福岡空港から直結されている地下鉄に乗り、わずか5分で福岡の中心地、博多駅に到着。早めに上がらせてもらったとはいえ、仕事を終えてから移動の|忙《せわ》しなさに愛理はふぅっと息を吐いた。
けれど、重たい気持ちで自宅にいるよりずっといい。
カラカラとキャスターバッグを引きながら、地元の銘菓を扱っている土産物屋さんを横目に、地下街に入ると店舗のディスプレイが華やかに出迎えてくれる。初めて来た博多の街なのに、どこか温かくて懐かしい雰囲気に、心がほころんでいくように感じられた。
『半個室のスペースで、ゆったりと癒されてみませんか?』
ホテルへ行く途中にあったヘアサロンの看板が目についた。
知らない土地に来て、気持ちが浮かれているのか、癒やしを求めているのか、サロンの看板の謳い文句に引き寄せられ、つい、立ち止まる。
ウインドガラスに映った自分の姿。肩より長い黒髪が、やけに野暮ったく見えた。時計を見ると17時を過ぎたばかり、とはいえ、これからヘアカットをするのには、遅いような気がした。ましてや、予約もしていない飛び込みの客なんてお店に迷惑だ。
愛理は、キャスターバッグを握り直し、ホテルへ足を向けようとした。
その時、店のドアが開き、アッシュグレーの髪が印象的な背の高い男性が顔を出す。
彫りの深い整った顔立ちに、白いシャツに黒いパンツというシンプルなファッションが良く似合い、まるで雑誌に出てくるモデルのようだ。
その男性の型の良い唇が動く。
「ヘアカットでお悩みですか? 良かったらキャンセルが出て、空いていますので、寄って行きませんか?」
「えっ? 予約も無くてご迷惑じゃ……」
戸惑う愛理に男性はふわりと人懐こい微笑みを浮かべた。
「寄って頂けると嬉しいです。どうぞ」
と開いたドアの奥へ招かれる。誘われるままに足を踏み入れたその先は、無機質なタイルの黒い床に白い壁、ダークブラウンの木目のカウンターが程よくマッチしている。所どころに置かれたパキラやモンステラなどのグリーンが、アクセントとなり洗練されたデザインなのに落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
受付票に住所や名前、電話番号を書き込むと、看板の謳い文句通りの大きな鏡にセットチェアが置かれた半個室の空間へ案内された。
プライベート感があるのに圧迫感のない半個室には仄かな柑橘系の香りが漂っている。まるで、リゾートホテルのエステにでも来たような贅沢な空間に気持ちが高まる。
「本日はご来店ありがとうございます。中村様を担当させて頂きます。北川賢一と申します。よろしくお願いします。今日は、どのような髪型をご希望ですか?」
カウンセリングが始まる。鏡越しにする会話、ゆったりと聞こえる北川の声のトーンや、長さの確認のために時折触れる指先の優しさが心地よい。以前に男性の美容師さんにカットしてもらったことがあったけれど、相性が悪かったのか触られるたびに不快感があって、それ以来、地元では女性の美容師さんを指名していた。けれど、北川に触れられても違和感が全くない。むしろ少し冷たい手の感触が気持ち良く感じた。
「明るく見えるようにイメージチェンジをしたいので、バッサリと切ってください。カラーリングも。あ、でも一応社会人なので、会社に怒られないぐらいで、お願いします」
ガツンとイメチェンしますと宣言したかったのに、最後の方は日和ってしまう。そんな自分が恥ずかしくて愛理は肩をすぼめ小さくなった。
「うーん。それじゃ、髪色は、ショコラブラウンにして、いきなりバッサリは大変だろうから。肩にギリギリ届く長さで、レイヤーをちょっと入れる感じでどうかな? 簡単にまとめられる長さだからTPOに、対応しやすいと思うんだ」
肩のあたりに手を当てたり、後ろで結んだ時のイメージに合うようにまとめたりと北川の手が動く。節のある大きな男の人の手が、繊細な動きをしているのを不思議な気持ちで、愛理は鏡越しに眺めていた。
「はい、それでお願いします」の言葉を合図に施術が始まった。椅子が傾き、顔に布が掛けられ、髪が洗われる。
ほど良い温度のお湯と力加減で、マッサージをするように頭皮を刺激されると、体の力がゆるゆると抜けて来る。お湯の流れる音と店内に流れるボサノバのBGMが心地良い。
ずっと、張りつめていた気持ちが緩んでいくよう。
『半個室のスペースで、ゆったりと癒されてみませんか?』という、看板の謳い文句に釣られて、入ってしまったけれど、ゆったりと癒されている。
「お疲れですね」
と耳の側で北川の声がした。
顔の上にはお湯跳ね防止用の布が掛かり、視界が塞がれている。そのせいか、髪を洗うのに頭皮に触れている手の感触ばかりが気になる。時折、近くで聞こえる声がこそばゆい。
「なんだか忙しくて……。今日も仕事をしてから、福岡まで来たんですよ」
「受付票に記入された住所に東京と入っていましたね。こんなに遠くまで仕事なんて大変だ」
「でも、仕事のおかげで福岡に来れたのが嬉しいんです。空気が合うのかな? ホッとします」
と言ったところで、「お疲れ様でした」と声が掛かり、顔の上に掛かっていた布が外され、視界が開けた。椅子を起こすために手を添えていた北川が思いのほか近くに居て、男の人を下から見上げるシチュエーションに頬が熱くなった気がした。
椅子が起き上がり、眼の前にある鏡に自分の姿が映る。すると、頬ばかりか耳までも赤く染まっている。
愛理は、恥ずかしさを隠すように「博多って、いい街ですね」と口にした。
洗い髪に巻き付けたタオルが解かれると、北川の大きな手が頭全体を包み、撫でるように優しくマッサージをしながらタオルドライをしてくれる。
その手の触れ方が、ほど良くて、疲れていた心までもほぐれていくよう。
黒く長い髪が梳かされ、切り落とされる。少しずつ、髪と心が軽くなっていく。
「博多は美味しいものが多いですし、街もコンパクトで動きやすい。空港も近いから海外旅行も行きやすくて、住むには最適だと思ってます」
「本当に良い所ですよね。出来れば移り住みたいぐらい。海のそばで暮らすの夢なんです」
他愛のない話しをしているうちに、切り落とされた黒い髪が足元に溜まっていた。それを北川がホウキとチリ取りでサッと片付ける。
愛理は、自分の問題も簡単に片づけられそうな気がした。
ビジネスホテルの一室。ドアを開けた愛理は、カードキーを入り口脇のホルダーに差し込んだ。パッと部屋が明るくなり、エアコンの吹き出し口から流れて来た風が部屋に回り出す。16平米、セミダブルのベッドが置かれた狭い部屋。だけど、独りだと思うとホッとする。
壁沿いにある括り付けのカウンターテーブルの大きな鏡の中には、サッパリとしたミディアムヘアにショコラブラウン髪色をした自分が微笑んでいる。
黒く長い髪をアップにしていた時より、童顔の自分に似合って、ずっと若く見える。見慣れない自分の姿は別人になったような気がした。
「はーぁ、思い切って美容院に寄って良かった。すごーく癒された」
窓際に置かれた一人掛け用の小さなソファーに腰を下ろし、スマホを取り出した。スマホの追跡アプリWatch quietlyを立ち上げ、赤い丸の居場所を確認する。
「淳は、実家に行っているのか……」
浮気の証拠を見つけてやると、見守りカメラを設置した。けれど、いざ証拠を手に入れたら、自分は平気でいられるのだろうかと不安が過ぎる。
自分から離婚を言い出すのは、実家のことを考えると言いにくい。かと言って、自分を裏切っている淳と見て見ぬふりを続けながら、生活を続けていくのは辛すぎる。
八方塞がりな状態に、さっきまで、順調に行くと思っていた気持ちが、シュンとしぼんだ。
スマホの画面をスワイプすると、トップ画面のアイコンが並ぶ。その中には、由香里が入れた出会い系サイトのアプリもあった。
「男なんていくらでもいる……か……」
◇ ◇ ◇
「あらあら、今日はひとりなの? 愛理さんはどうしたの?」
平日の夕飯時に実家にひとりで現れた淳を見るなり、母親は心配そうな表情を向けた。
以前、来た時に愛理に嫌な思いをさせた後ろめたさから出た表情だ。それを見た淳はため息交じりに言葉を吐き出す。
「愛理は仕事で福岡に出張なんだ。ちゃんと仲直りしたから心配すんなよ。母さんのことも別になんにも言っていなかったから、大丈夫だよ」
その言葉にホッとした母親は何かを思いついたように顔を上げた。
「あら、愛理さん福岡なの? 翔も今週福岡だって言っていたわ。向こうでばったり会っちゃったりして」
「えっ⁉ アイツも福岡なのかよ」
思いがけない母親の言葉に淳は、落ち着きを失くしたように髪をしきりにかき上げた。
母親はリビングへと足を進めながら、普段の調子が戻って来たのか、聞かれてもいないことを喋り続ける。
「なんでも新しいビルを建てる仕事を取れたとかで、最近、何回か福岡に行っているのよ。大手は大変よねぇ。出張ばかりで、ぜんぜん腰が落ち着かないんだから、結婚どころか誰かとつき合ってるって話も出ないのよね。もう少し、プライべートを考えて、翔もうちの会社で働けばいいのに」
「大手でしか出来ないやり甲斐のある仕事ってあるだろ? 恋人は母さんに、あれこれ聞かれるのが嫌で連れて来ないだけなんじゃねーの」
──翔は、昔から要領が良くなんでも上手くこなす。同じ職場で働いたら、跡継ぎで揉めることになりかねない。そんな面倒事はごめんだ。
それにしても翔まで福岡に行ってるなんて……。
まさか、向こうで愛理と会ったりしないよな……。
◇ ◇
「ただいまぁー」
福岡滞在2日目、ごきげんなテンションの愛理は、ビジネスホテルの部屋に着くなりベッドに飛び込んだ。
それもそのはず、今回のクライアントと、やたらと気が合い、新居となるマンションで、採寸や配置などの打ち合わせをした後、日が落ち始める前から中洲の屋台にふたりで繰り出し、ビール片手に天ぷらや串焼きなどお腹いっぱい食べてきたのだ。
「はー、明日の打ち合わせ用の資料の点検と今日決めた事をまとめないといけないのに……。シャワー浴びてサッパリしよう」
このままベッドに居たら、朝になってしまいそうな気配に危機感を感じて、カバっと起き上がり、部屋にあるユニットバスのシャワーのカランを上げた。
酔い覚ましに少し低め温度のお湯を頭からザアザアとかぶり、アルコールを抜いていく。シャンプーを泡立て、髪を洗い出すと、以前より軽くなった髪の量を実感する。
「なにこれ、シャンプーがものすごくラク。髪の毛切って良かった」
仕事で来ているのに、こんなに楽しんでいいのかと思ってしまうぐらいに、福岡に来てから充実している。キリキリと締め付けるような胃の痛みもなく、食欲旺盛なぐらいだ。
それに、だれにも気兼ねをしないで居られる一人の空間も心地よい。
シャワーから上がると、アルコールも抜けて目も覚めてきた。バスタオルを体に巻きつけ、ドライヤーを片手に、昨日の美容室で教わった通りに手櫛で流れを付けながら乾かす。目の前にある鏡には明るい髪色の自分が映っている。
「ん、イイ感じ! さっ、仕事しよう」
部屋着を身に着け、タブレット端末を立ち上げた。ワイヤレスキーボードで、計測した数字を入力し、会社へ報告のメールを送ればひと段落だ。
送信ボタンをポチッと押した。
「はー、終わったぁ。ネットで映画でも見ようかな?」
と、気を抜いたところで、スマホが振動する。
見守りカメラのプッシュ通知だ。時計を見れば、午後7時をすぎたばかり。
自宅に淳が戻る時間にしては、少し早いなと思った。
「もしかして、早速、浮気相手を家に連れてきたのかしら……」
タブレットの画面を切り替え、見守りカメラのアプリを立ち上げる。
モニターが捕らえた淳の姿がタブレットの画面に映り込むと、愛理の心拍数がドキドキと上がり、視線は画面に釘付けになった。
モニター越しの淳は、もちろん見守りカメラで監視されているとは気づいていない様子だ。背広を椅子の背もたれに投げ出し、ネクタイを緩めるとリビングのソファーに腰かけ、テレビのスイッチを押した。そして、ガサゴソとビニール袋が擦れる音がして、缶ビール片手にコンビニ弁当を食べ始める。
「あれ? 淳、ひとりだ」
もちろん、ふたりのマンション。留守番の淳がひとりで部屋に居る事に何ら不思議はないのだが、浮気の証拠をと、意気込んでいた愛理は、肩すかしを食らった気分だ。
その一方で、自分が居ない間に知らない誰かを部屋に招き入れていなかったことに安堵する。
お気に入りの家具が並ぶ、リビングルーム。寝心地の良いベッド。どれもこれも厳選したもの。あの部屋は愛理にとって大切な空間だった。
ホッとしたところで、喉の渇きを覚えた愛理は、部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開いた。受付した時にサービスでもらったミネラルウォーターを取り出す。口をつけると渇きを満たすように、一気に500mlのペットボトルの半分ほど飲み切った。
「ふぅ……。淳てば、どこにも出かけないでのんびりするのかな?」
と、タブレットの画面に視線を戻すと、いつものようにスマホを弄る姿が映っている。スマホから顔を上げた淳は急にソワソワとしだし、食べ終わった弁当のパックを持って、立ち上がると画面からフェードアウトした。
嫌な予感が走った愛理はスマホのアプリWatch quietlyを立ち上げる。位置情報を知らせる赤い点滅はマンション内から動いてはいない。念のためアプリの機能で音声を拾う。
チンッというエレベーターの音、そして、女の声が入って来る。
『ふふっ、来ちゃった』
「えっ⁉ うそ!!」
スマホの音声も録音をしようと思ってタップをしたが、指先が震えて上手く操作が出来ない。それでも、やっとの思いで操作した。
受け止め切れない現実に、心臓がバクバクと波打ち、呼吸が荒くなる。
「私が居ない間に不倫相手を家に呼ぶなんて……」
覚悟していたとはいえ、実際に目の当たりにすると衝撃が大きく、心が打ち震える。
ただ、愛理の頭に浮かぶのは、お気に入りのラタンのソファーセットが置かれたリビングの光景だった。大切な空間だった場所が、汚れてしまったように感じられた。
ドアの閉まる音の後に『おじゃましまーす』と、はしゃぐ女の声がした。
その音声を聞きながら、愛理は眉根を寄せ、嫌悪感を募らせていく。
スマホからは、スリッパのパタパタいう音、そして、リビングルームのドアがパタンと閉まったのがわかった。
愛理は、咄嗟にタブレットのモニターへ視線を向ける。すると、見守りカメラが捕らえた映像が画面に広がった。そこには、淳と見知った顔が映り込み、思わず息を飲む。
「なんで……」
言葉を失い、ただ、唖然とモニターを見つめていた。
モニターの中で、お気に入りのラタンのソファーにふたりが並んで座る様子が映し出された。
すると、胃がキリキリと痛み、奥から急に突き上げてくる。
「うぐっ」
口元を押えて、慌ててバスルームに走り、倒れ込むようにトイレの座面に手を掛け、激しく嘔吐した。
吐き出す苦しさで涙がジワリと浮かび、口の中が酷く苦い。
胃の中が空になっても吐き気が治まらずに、胃液まで吐いた。
「もう、やだ、なんで……なんで……」
「ありえない、今度、結婚するって言っていたじゃない!」
そう言って、愛理は手を振り上げ床を叩きつけた。
行き場のない怒りは、手の痛みだけを残している。
──田丸製薬の御曹司と結婚すると誇らしげに招待状を渡してきた美穂が、まさか、淳の不倫相手だったなんて……。
この前、女子会の時、麻美に絡まれている私を見て、あのふたり淳を取り合っていると、心の中で笑っていたのかもしれない。
今まで、仲良くしていたと思っていたのに、夫だけではなく、友人にまで裏切られていたなんて、誰を信じていいのか分からない。
洗面台に手を掛け、よろよろと立ち上がる。備え付けの鏡には、情けない顔の自分が映っていた。
カランを押し上げ、冷たい水で口を濯いでから歯を磨き、顔を洗った。まだ、ドキドキと心臓が早く動いている。
驚きすぎて涙も出てこない。
心の中は、酷く空っぽだった。
どんなに努力して、夫や親、友人のために尽くしても、いいように使われるだけで、誰からも大事にしてもらえない。
そんな自分が情けなく思えて、胸の奥が重く淀んだ。
──両親は弟の事は大事にしても、「女は役に立たない」と自分にはきつく当たった。家庭を持っても結局、夫は他の女に心を寄せ、私は家政婦のように扱われている。そして、友人にさえも裏切られたんだ。
愛されて育った人が持つ『自信』は人を魅了する力がある。けれど、誰からも愛されない自分には何もない。
「誰からも必要とされて居ないのに、なんで、誰かのために私は頑張っているんだろう……」
気持ちが沈み込んだまま、バスルームから出ると、狭いシングルルームのテーブルの上にあるタブレットの画面には、お気に入りのソファーに腰をかけている淳の股間に顔を埋める美穂の姿があった。
タブレットの画面の中では、ラタンのソファーに座り、美穂の愛撫を受けて恍惚の表情を浮かべている夫がいた。
ピチャピチャと淫猥な水音が、タブレットのスピーカーから漏れて来る。
『なあ、そろそろ……いいだろ』
『ふふっ、ここでスルの? 上になってあげるから、支えてよね』
明るい部屋の中で、獣のように縺れ合う夫と友人の姿が、タブレットの画面に映っている。
『ああぁ……いい……』
愛理は虚ろな目をして、友人の喘ぎ声を垂れ流すタブレットをパタンとテーブルの上に伏せた。そして、ルームウエアからAラインのワンピースに着替えると、バッグの中にスマホとお財布をねじ込み、ルームキーをホルダーから引き抜く。
『ねえ、気持ちいい?』
『ん……気持ちいいよ』
『愛理よりも?』
『ああ……最高だよ』
伏せられたタブレットは、声を伝え続けている。
表情を失くした愛理は、部屋のドアを閉め歩き出した。
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