離婚の時、有利になるように証拠を掴みたいと、自ら見守りカメラを仕掛けたのに、そこに映し出された事実。夫と友人から裏切られていたという出来事は、愛理が想像していたよりも何倍も重く圧し掛かった。
ホテルの部屋に居たくないと、当て所無く街中を歩き始める。
煌びやかなネオンの下、友人と楽しそうにしている人、恋人と寄り添う人、家路へと足早に歩く人。そんな人達が目に映り、自分だけが独り取り残されているように感じられた。
秋の夜、ひんやりとした風が肌を差し、体温を奪ってゆく。
愛理は、ぶるりと身を震わせ、自分自身を抱きしめた。
ふと目についたカフェの明かりに引き寄せられてドアを開く。
ホットココアを注文して、カウンターで受け取ると、窓際の席にぐったりと身を預けた。体だけでなく心まで冷え切り、両手で包み込むようにカップを持ち暖を取る。
ガラスに寄りかかり、視界に入る外の光景をぼんやり眺めていると、手にしていたココアがだんだんと冷めてくる。わずかな温かみを求めるように口をつけた。
すべての物を吐き出して、空っぽになった胃に仄かに温かいものが流れ落ちていく。
ココアの甘さが、沁みてきて、涙がジワリと浮かび、鼻の奥がツンッと痛む。
愛理は、まぶたをギュッと瞑り、涙をこらえた。
淳とこれ以上、夫婦でいるのは耐えられないのに、実家のことが足枷となり自分からは離婚を切り出せない、宙ぶらりんの明るい未来の見えない状況。荒れ狂う波の中へ突き落とされたようで気持ちが沈む。
──家に戻ったら、淳と今まで通りに暮していくなんて、耐えられそうにないのに……。
スマホを取り出し時間を見ると時刻は午後8時03分。さっきの出来事から、たいして時間は経っていなかった。
スマホの画面には様々なアプリが並んでいる。その中にある出会い系サイトのアプリが目についた。
「男なんて、いくらでもいる……か」
愛理は、何かに招かれたようにスマホアプリの可愛い猫が目印のアイコンをタップした。
メニュー画面が現れ『あいさん、ようこそ』と表示される。
由香里が登録をした際に愛理の名前がひらがなの「あい」で入れたようだ。
可愛く装飾された『Enter』のステッカーを押すと掲示板の画面に進む。掲示板に今日の日付と場所を入力、そして時間は『今から会える人』と入力し『OK』のステッカーをタップした。
── 男なんていくらでもいる。
淳じゃなくてもいいんだ。
だって、しょうがない。
淳が先に裏切ったんだから……。
すると、直ぐに返事が3件も入った。それぞれ、簡単な自己紹介とPR、そして、マスクや帽子を身に着けている写真が添付されている。はっきりと顔は分からないけれど、なんとなく服装などで雰囲気が伝わってくる。
その中で、黒い帽子を深く被り、ネイビーのVネック長袖Tシャツの袖を捲り上げている男性に惹かれた。捲り上げている袖から出ている上腕の筋肉の付き方や手の形が、綺麗だと思ったからだ。
男性の書き込み欄を見ると30代前半、サービス業、「誕生日なんだけど、一緒に居てくれる人を探しています」と書かれていた。
──出会い系サイトを利用して、男の人に会うなんて自暴自棄になっているのかもしれない。けれど、今は誰かに必要とされたかった。誕生日を一緒に祝う人を探しているこの男性なら、今日だけでも私を必要としてくれるかもしれない。
掲示板の男性から指定されたKittaHAKATAのエンジェルポストに着いた愛理は、スマホのカメラ機能を鏡代わりに使って自分の姿を確認していた。
ここに来る途中にあった化粧室に入り、手持ちの化粧品でメイクをしたけれど、下地をきちんとしていないので崩れていないのか気になった。
知らない男の人とこれから会うと思うと、不安が先に立ち、ソワソワと落ち着かない。
スマホを仕舞い、目印になるようにと買ったファッション雑誌Gleamを胸元へ引き寄せ顔を上げた。その視線の先、雑踏の中、自分の方へ真っ直ぐに歩いて来る黒いジャケットを着た背の高い男性の姿を見つける。
背の高い男性は、アプリ内の掲示板で見た写真と同じ帽子を被っていた。
それに気づいた愛理の胸の鼓動がドキドキと早く動き出す。
深く被った帽子の間からは、アッシュグレーの髪が見える。
その髪色が心当たりのある人物と重なり、愛理の鼓動は余計に早く動いた。
「こんばんは、お約束のあいさんで……」
声を掛けられ視線が絡んだ瞬間に男性の瞳は驚いたように見開き、言葉が途切れた。
「あの、まさか、北川さんがお越しになるとは……こんな偶然ってあるんですね。ごめんなさい。わざとじゃないんです。私じゃ嫌ですよね」
まさか、昨日、美容室で施術をしてくれた美容師の北川と出会い系サイトで会う事になるなんて、思ってもいなかったことだ。出会い系サイトを利用して知り合いに会うなんて気まずくて、愛理はこの場から逃げ出したくなった。
「いえ、昨日、素敵な方だなと思っていたんです。まさか、こんな形で再会するとは思ってもいなくて……。本来ならお店のお客様とは私的に会わないんですけど、これは、特別な出会いです」
”これは特別な出会いです”
北川の言葉が、愛理の心にスッと沁み込んだ。
「ありがとうございます。私……。このサイト使うの初めてで、少し怖かったんです。でも、北川さんがいらしてホッとしました」
「良かった。掲示板で言っていた目印のGleamを持っているのが、あいさんだとわかった瞬間。心の中でガッツポーズしましたよ」
そう言って、照れたように笑う北川のお店では見せなかった柔らかい表情に釣られ、愛理も顔をほころばせた。
「もう、お上手なんだから! あ、今日お誕生日なんですよね。おめでとうございます。なにかご馳走させてください」
「31歳にもなった、いい大人が、誕生日でもないんですけど、そんな日に独りでいるのは寂しくて……。だから、一緒に居てくれるだけで十分です。あいさん何が食べたいですか?」
「私、この辺りに全然詳しくなくって、北川さんのオススメのお店でいいです」
「そうだった、あいさん東京から来たんですよね。じゃあ、お店は僕のオススメで。それと、今から僕のことはKENと呼んでくださいね」
と、言った北川が”できるかな?”とでも言うように愛理の顔を覗き込む。
その悪戯な視線に頬を熱くしながら、愛理は口を開く。
「あ、ごめんなさい。そうですよね……。じゃ、KENさんとお呼びします。あの、私の方が年下ですし、良かったら敬語は無しで……」
「じゃ、お互い敬語は無しで。美味しい物を食べに行こう」
北川が差し出した大きな手に愛理は手を重ねた。
「博多のもつ鍋のモツは、火が通ったらサッと上げて食べるんだよ」
北川のオススメの店、地元のもつ鍋屋さんに案内され、今はテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。
誕生日だというのにもつ鍋屋さんをチョイスしたのは、愛理が東京から来たことを知っている北川の気遣いなのだと、嬉しく思った。
ボトルで頼んだ焼酎を大きな氷が入ったグラスに注ぐ。北川はロックで、愛理は薄めの烏龍茶割で乾杯をする。
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。祝ってもらえるのはやっぱり嬉しいね」
北川は、店員さんから運ばれてきたお皿を受け取ったり、それを取り分けたり、かいがいしく動いてくれる。今まで世話をするばかりで、された事のない愛理はむずがゆいような、嬉しいような気持で好意を受け取った。
クタクタに野菜が煮えるまで待って、モツを鍋に入れる。中に沈まないようにかき混ぜないのがコツだと言う、北川の鍋奉行ぶりを愛理は十分に楽しんでいた。「そろそろ食べごろだよ」と声が掛かる。
モツがぷるっと膨らんだタイミングで、鍋から掬い上げ、湯気の立つモツをハフハフと口に入れる。噛み込むと弾力があり、旨みの強い脂が口いっぱいに広がった。
「うーん。美味しい。臭みも全く無いし、東京で食べるモツ鍋と全然違う」
愛理が歓喜の声を上げると、北川が嬉しそうに微笑み、解説を始める。
「博多のモツは、生の牛を使うんだ。茹でモツは旨味が落ちてしまうから」
「なるほど、素材から違うんだ、だからこんなに美味しいのね。お酒も進むー。あ、KENさんも食べて、食べて」
さっきから、接待よろしくお世話ばかりして北川の箸が進んでいないように見える。愛理は、ボトルの焼酎を北川のグラスにつぎ足した。
「心配しないで、ちゃんと食べているから、それより僕の事、鬱陶しくない?」
「え?」
「わりと世話好きで、尽くしたいタイプなんだよね。だから、人によっては鬱陶しく感じるのかも……」
そう言って、北川は視線を落とした。
至れり尽くせりの状態に感激していた愛理は、意外な北川の言葉に、信じられないとばかりに瞳を瞬かせた。
「やだな、鬱陶しいなんて、ぜんぜん思ってもみなかった。むしろ、有難いぐらい。このところ嫌な出来事ばかり続いて、心がしぼんでいたから、そのしぼんだ心にKENさん優しさが沁みて心地よくって……」
「そう、それなら良かった。世話焼きが祟って、だいぶ前に彼女に振られてから、軽くトラウマなんだ」
そう言って、北川は焼酎をグイと煽り、テーブルの上にグラスを置くと、グラスの中の大きな氷が鈍い音を立てる。
「KENさんみたいな素敵な人を手放すなんて、今頃、後悔しているはず。世話好きなんて、私からしてみれば、放って置かれるよりも何倍も良いと思うだけどな」
一瞬、淳のことが愛理の頭の隅に浮かんだ。それを打ち消すように優しい声が聞こえる。
「ははっ、素敵な人だなんて言ってもらえるんだ。それは、良かった。まあ、別れたのはそればっかりじゃないんだけど、それ以来、女性と付き合うのをためらってしまって……。今は自分のお店を持つためにストイックに過ごしているって言った方が、かっこいいかな?」
「目標に向かってストイックの方が聞こえがいいかも! それにしても自分の店かぁ。夢があって、いいなぁ」
「自分の店を出しても軌道に乗るまでどうなるかも分からないし、夢だけじゃ食べていけないんだけど、チャレンジしようと思って」
未来の夢を語る北川が、今の愛理には羨ましいほど輝いて見える。
「目標に向かって、チャレンジなんて、ホント素敵」
愛理の言葉に、一瞬驚きの表情を見せた北川が、相貌を崩し甘やかな笑顔を浮かべた。その笑顔に当てられたように頬を赤らめた愛理と北川の視線が絡む。
グラスの中で解けた氷がカランと音を立てた。
そして、北川の形の良い唇が動く。
「この後も一緒にいてくれる?」
お店を出ると、お鍋とお酒で温まった体にひんやりとした風が吹き、素肌から熱を奪う。
すると、愛理の肩へふわりと北川のジャケットが掛かる。そのジャケットから残り香だろうか、ウッディアンバーがふわりと香り、まるで北川に抱きしめられているように感じられた。
「行こうか」と手を差し出され、その上に自分の手を重ね夜の街を歩き出す。
お酒のせいばかりでなく、頬が熱く気持ちがフワフワとしている。
北川と過ごす時間は、ずいぶん昔に置き忘れていた胸のときめきを思い起こさせた。
「妻」や「嫁」ではなく「女」として、見られているのを嬉しく思った。
──あのまま、ホテルの自分の部屋に籠って居たら、ネガティブな考えに陥っていたかもしれない。
さっきはあれほど、ショックと悲しみで荒れていた気持ちが、今は穏やかに凪いでいる。これは必要な事だったんだ。
愛理は自分に言い聞かせ、北川と手を繋いだまま、シティホテルのドアを潜り、ロビーを抜けフロントへ着いた。手続きを済ませた北川がルームキーを受け取り、ふたりで客室へ向かうエレベーターに乗り込んだ。
東京から遠く離れた福岡で、愛理の警戒心は薄れていたのかもしれない。
それを見られていたなんて、考えもしなかった。
ましてや、写真に収められていたなんて……。
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