――ただいま……また惣菜か。
「あら、あなたの為に一番高いやつ買ってきたのよ? 頑張ったでしょ?」
――そうなんだ、ありがとう……花夜はどうしてる?
「さぁ~もう寝たんじゃなぁい? 私今日はランチ会で忙しかったから~」
――……そう。食事の前にちょっと様子を見てくるよ。温めておいてくれないか?
「ごめんねぇ、明日は朝からお稽古だから、もう寝ないといけないの」
――……それなら仕方ないね。おやすみ。習い事頑張ってね。
見向きもせず自室に戻る妻を見送り、光輝はこぼしかけた溜息をグッと飲み込んだ。
子供部屋は既に消灯していたが、光輝がそっと入ると、ベッドの中がもぞもぞと動いた。
「……ずっとまってたんだよ? おかえり、パパ」
「ただいま花夜。今日はどんな一日だった? 楽しかったかい?」
「うん。花夜ね、海で遊んでたんだ。一人で。すごい?」
「一人で? そりゃ凄い。海は楽しかったかい?」
光輝が頭を撫でると、布団にくるまった娘は満面の笑みを浮かべゆっくりと頷いた。
「あのね、きれいなガラス、たくさんあったんだ。でも、ママがばっちぃからすてなさいって」
「……そっか。じゃあ今度はパパと行こう。その時は、ちょっと位なら持って帰ろうね」
「ほんとに? 約束だよパパ! とっても楽しみ。早く明日にならないかなぁ」
「流石に明日はパパもお仕事だから……そのうち、パパがお休みの日に行こう。約束だ」
娘との約束を胸に、冷たいベッドに向かう……しかし、結局約束が果たされる事はなかった。
「……泣いているのですか?」
覗き込む少女の顔を見るなり、様々な感情が堰を切って流れ込み、ミツキはまるで電源を入れられた人形の様に飛び起きたが……右腕の重さに引っ張られ、すぐにベッドに倒れ込んだ。
「花夜! どうして――いっつ。いてて、どうして、ここは、いや、そうか……そうか」
「大丈夫ですか!? 激しい動きはお控え下さい。やっと熱が下がったばかりなのですから」
目の前の少女が娘ではないと認識した途端、夢と現実の齟齬が急速に埋まっていく。
訳も分からぬ世界、娘と瓜二つのラクス、機神とキシン、そして黒いコードと機械の腕。
「一体何が……ここは? あれから、どうなったんだ?」
「ここはヴアル、私達の町です。機神もここまでは来ないので御安心を。まずは助けて下さいまして誠にありがとうございました。貴方の御力がなければ、きっと私は死んでいたでしょう」
「無我夢中で、俺にも何がなんだか……この世界は一体何なんだ? 君達は一体何者なんだ?」
ラクスもどう説明すればいいか決めかねているのか、顎に指を当て伏し目がちに考え込む。
初めて会った時はそれどころでなかったが、ラクスは顔こそ花夜そっくりだが、髪の色は青っぽい黒で肌は真っ白く、どこか人形の様な印象を受ける。
熟考するラクスを見守っていると、ミツキはふと部屋の隅に置かれた姿見に違和感を覚えた。
「あの子供、誰だ……? ここにいるのは、俺とラクス……だけだよな?」
震えながら重い右腕を持ち上げてみると、鏡の少年もまた震えながら機械の腕を掲げてみせ、それにミツキが驚愕するのと同時に、やはり鏡の向こうでも驚いた顔がこちらを見つめてくる。
どうして目覚めてすぐ気が付かなかったのか。縮んだ手足に張りのある肌、体毛が薄くなった指で触る顎には髭もない。間違いない、身体が若返っている。というより最早別人の様だ。
「神様、どうかされましたか?」
道理で身体が軽いと思ったが、まさか子供になっているなど、最早驚きを通り越して思考が停止してしまいそうだ。事実、ラクスが妙な事を口走ったのに、ミツキは中々気付けなかった。
「ちょっと待ってくれ……今、俺の事をなんて呼んだ?」
「神様とお呼びしました。だってミツキ様は、私達“蒼い血のヒト”を“黒い血”の機神から救ってくれる、“赤い血の神”様ですから」
ラクスの白く小さな指から一筋の血が滴り落ちる。手に持つ小刀で薄皮一枚切り込まれた傷口から流れる血は、瑠璃のように蒼く鮮やかで、ゾっとする程美しかった。
「ずっとこの時をお待ちしていました。おかえりなさい、神様」
その後、ミツキが意識を取り戻して数日が経過したが、疑問は次から次へと湧いて来る。
これでも長年製薬会社に勤めているのだ、蒼い血の人間などあり得ない事位分かる。
全身の火傷が、綺麗さっぱりなくなっているのも明らかに異常だ。
それに、意識を失う直前、ミツキは“何か”を見た筈なのにどうしても思い出せない。
見た目はそっくりなのに全く別種の人間に、若返った上に治癒速度が異様な身体、つまりミツキは……理が大きく異なる別世界に来てしまったとみていいだろう。
どうしてこんな世界に来てしまったのか、どうやったら帰れるのか。
考え込むミツキの背を、息を切らした幼い声が追いかけてきた。
「お、お待ち下さい神様~! 私もお供しますから~!」
「……だからラクス、俺は神様じゃないし、お供もいらないってば」
「そうは参りません。神さ……ミツキ様の御身になにかあっては一大事ですから!」
ついてきてあれこれ説明してくれるのはありがたいが、なんだか見張られている様で考えが纏まらない……というより、実際見張っているのだろう。どれだけ言っても信じてくれないが、彼女達にとってミツキは“神”なのだから。
だが、小さな歩幅で懸命について来る様からは、否応なしに同じ顔の少女を思い起こさせ、どうしても邪見には出来なかった。
「今日も機神について学びに? でしたらまた人を手配しますが」
「いや、もう大体分かったよ。黒い血で狼型の他にも色々いて、本能的に人間を憎んでいる」
そして憎しみが溢れ返ると、体内の黒い血が呪われたコードとなり、あのおぞましきキシンに堕ちるらしい。機械に感情などと思いたくなるが、実際見たのだから信じるしかない。
「呪いについても何か分かればな……なぁ、ラクス? そろそろ怪我も治ったし森の――」
「ミツキ様、何度も申し上げている通り、外は危険でいっぱいなんです。お気持ちは重々察しますが、遺跡を見に行くなんて絶対にダメですからね」
「でもほら、山師だっけ? あの人達について行って貰えば……」
「なりません! 調査なら我々に任せて、ミツキ様はここで養生なさって下さい。そも――」
頬を膨らませたラクスは、仁王立ちで立ち塞がる。まさに取り付く島もない。
目覚めてからというもの、外に出たいという気持ちは日に日に増していっている。
病み上がりで身体を動かしたいというのもあるが、まるで何かに呼ばれているかの如く、ミツキの心は町を囲む大密林に惹かれてやまない。
「――大体、先日キシンから生き延びたのだって奇跡みたいなものです。ですから――」
――あるいは……呼ばれているのは俺じゃなくて、こいつなのかも。
ラクスのお説教を聞き流しながら、ミツキはサポーターで吊った右腕を見下ろす。
二の腕から指先に掛けて機械化した腕は、まごうことなき異物なのにもかかわらず、接合部に何の違和感もないのが逆に気色悪い。
今のところなんら実害はないが、このまま放置しておくにはあまりに不気味だ。
――やっぱりあの遺跡に行ってみない事には、何も分からないままだ。
遺跡からこの世界に迷い込んだのであれば、元の世界に戻る手掛かりもまた遺跡にある筈。
しかしこの調子では、元の年齢に追いつくまで待った所で、町から出してくれないだろう。
「――という訳でして……ミツキ様、聞いてますか?」
「あぁ、聞こえている……行かなくちゃ」
ミツキは物憂げに町を囲む外壁を、そしてその向こうに広がる広大な森を見やる。
間違いなく何かに呼ばれている。そんなどこか脅迫めいた確信に迫られたミツキは、隣で眉をひそめるラクスに悟られない様、サポーターの中で右手の具合を確かめるのだった。
その夜、こっそりと家から抜け出したミツキは、人目を避け町の外縁部へと向かっていた。
実のところ、ラクスに断られるのは予想がついていたので、予め外壁部の見張り小屋の位置や、抜け出せそうな場所を見繕っておいたのだ。
「よしよし、やっぱり内側への警戒は薄いぞ。抜け出そうとする奴なんて、俺位って事か」
内側が一部崩れ、修復作業中の壁はミツキからしたら絶好の脱出ポイントだ。付近に人の気配が無い事を確認し、櫓をスルスルと登ったミツキは、躊躇う事なく壁から飛び降りた。
壁の高さはおよそ十mといった所か。勢いを殺す為、右手の爪で壁を引っ掻き降りていく。
当然生身ならあっという間に爪が剥がれてそのまま真っ逆さまだが、ガリガリと壁を掻く鉄の爪は、ミツキの身体をゆっくりと地面まで運んでくれた。
「便利な腕だが……やっぱり気味が悪いな」
掌を握ったり開いたり、手首を軽く回してみるも、元から自分の身体の一部の様に稼働する。
壁を降りる方法も、まるで今まで何度も試した事があったかの如く、自然と思いついた。
「帰る方法は……まぁ後で考えればいいか」
門番なり山師なりに泣きつけば、悪い様にはされないだろう。抜け出した事がバレたら、今後増々軟禁が厳しくなるかもしれないが関係ない。
先の事はあまり深く考えず、ミツキは突き動かされる様に森へと足を踏み入れていった。
「まるで屋久島の縄文杉だな。植生は俺の世界とそう変わらないみたいだけど……ん?」
不思議と夜目も利くもので、鬱蒼と生い茂る密林をぐんぐんと進んでいくと、ミツキの耳はふと妙な音を捉えた。モーターが空回りする様な音と共に、何かが苦しんでいる事に気付いたミツキはすぐ様駆け寄っていった所、芝生に埋もれ悶えていたのは……、
「機神、の……子供?」
人の胴体なら千切れそうな位大きな虎挟みに捕まっていたのは、先日の個体に比べたら小さな……と言っても、子熊並みに大きな機械仕掛けの狼だった。
まさか子供がいるとは驚いたが、それ以上に驚いたのは、機神を狩ろうとする者がいる事だ。
恐らく山師の生業なのだろうが、一体捕らえた機神をどうするつもりなのだろう?
四肢をがっちりと罠に挟まれた狼は、為す術もなく辛そうな機械音を出すばかりだ。
相手は人を襲う機械の怪物、助ける義理など欠片もない。しかし……黒い血を流し痛がる機神を見ている内に、ミツキの胸のうちに、抗い難い感情がふつふつと込み上げてきた。
「……待ってろ、今外してやる」
自分が間違っている自覚はある。いつかこの機神が、ラクスやその仲間を襲うかもしれない。しかし、それでもこいつはまだ子供だ……子供が死ぬのは、どうしても嫌だった。
近付いた途端、狼はろくに身動きが取れずとも敵意剥き出しに唸ってくる。
しかしミツキは構わずに、重機の様に分厚い罠の一端を、右手で強く握り締め始めた。
処刑器具の様な罠は、意外にも力を込めた途端メキメキと音を立て、簡単にひしゃげていく。
目覚めてからというもの指を動かすのさえ億劫だった重い右腕が、今はまるで羽の様に軽く、それでいて力に満ち満ちている。
自分の腕に対しおかしな表現だが、町を出てから右腕が妙に“協力的”だ。この分ならどうにかなりそうだと安堵した矢先……一瞬何か光ったかと思いきや、頬に熱い感触が走った。
「そいつかラ手を離セ! 薄汚いブラン・バルめ!」
背後から浴びせられる少女の怒号。同時に頬から一筋の血が流れる。それが切り傷だと気付き痛みを認識した時には、光刃を纏ったナイフが視線のすぐ先に刺さっていた。
「ま、待ってくれ。仲間の機神か? でも俺はこいつを助けたいだけなんだ、信じてくれ!」
「騙されるカ。次は外さなイ。穢レた血をぶちまけたクなかっタら、赤?」
「あ、あぁそうだ! 俺は蒼い血の人間じゃない。だから君達の敵、じゃ――」
そういえば襲撃者の声が肉声だとか、見た事もない技術の光の小刀とかそういった雑事は、振り返った途端全て吹き飛んでしまった。
巨大な倒木に乗っていた為、ミツキは見上げる形で声の主と向き合った。
研ぎ澄まされた白銀の毛皮を纏った様は、まるで美しい白狼の様だった。満天の夜空を背に、ブルーブラックの短髪を夜風になびかせていたのは、キシンを倒した直後に見たあの少女だ。
「どうして同胞ヲ助けル? 神ハ我々の敵の筈ダ」
「神じゃない! それに、敵でもない……ほら、外れたぞ」
折よく壊れた罠から抜け出した機神は、一目散に少女の下へと駆けていくと、自分とほぼ同じサイズの少女に甘える様に、ドンと胸元へと飛び込んでいった。
「良かっタ、皆心配してたんだゾ。お前まデ、いなくならないでくレ……」
じゃれつく機神をあやす少女を見て、ミツキは助けて良かったと、心からそう思った。
そして、嬉しそうに狼と戯れる少女を前に、胸の高鳴りが抑えられなくなる。
「さぁ森ニ帰ろう……お前の父の仇ハ、絶対私が取るかラ」
少女は機神の背に乗ると、狼を模したバイザーを装着しミツキを見降ろした。
「同胞が世話になっタ。だから今日は退ク。フェンリル一族は受けた恩ヲ忘れなイ」
「待ってくれ! 俺の名はミツキ、君はなんて言うんだ? 君の名を教えてくれ!」
「……コルル。フェンリルの娘、コルルだ」
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