好きだと言ったのは、酒の勢いもあっただろうか。
きょとんと目を丸くして、それから微かに目許を朱に染めた阿部の顔は今でも鮮明に思い浮かべることが出来る。
さて、何が悪かったのかと言えば、わかりきっている。酒を飲んで好きだと言ったことだ。
本当の気持ちは彼に伝わっているのだろうか。目黒は毎日、飽くことも無くそればかり考えていた。
大きなツアーが終わって仲間内で打ち上げをやった時のことだった。周りが酒に酔ってへべれけでいる中、阿部に思いを告げた。
あの夜から、なんとなく二人の距離は縮まったように思える。なんとなく今までよりも一緒にいることが増えた気がする。なんとなく、心は近付いているような気がする。なんとなく、阿部の瞳は自分のことを捉えることが多くなった気がする。なんとなくそんな気がする、気がする、気がする。なんとなくそんな気がするだけ、のような気もする。
酒の席で言うべきじゃなかった。自分が憎くなる。自分はどれだけ愚かなんだろうと自分を責めてみる。そうだ、俺は果てしの無い愚か者だ。開き直る。やっぱり根本的な解決にはならず、だったらもう一度好きだというか、それとも阿部に面と向かって尋ねてみるのが良いのだが、どちらにしても再びあんなこっぱずかしいことを、しかも素面でやれというのは無理があった。ああ、この考えがいけないんだな。どうやら目黒は自分で思っていたよりも、もっと意気地がないらしかった。
「めめ、できたー?」
「へっ? あ…っ」
呑気な阿部の声にはっと自我に返ってみると、目の前には鍋。昼飯のラーメンを調理中だったことをすっかりと忘れ去っていた。
慌てて鍋を覗きこむと、沸騰する湯の中で麺が膨れ上がっている。
「………」
一瞬、この食べ物は阿部の許容範囲内に入るのかそれとも入らないのか考えた。そして次の瞬間に、どうかしっかりと入っていますようにと心の底から祈る。
目黒は「私はなにも知りません」という振りをしておこうと覚悟を決め、コンロの火を止めた。
「あ、卵の煮たやついれた?」
「…、入れた入れたー」
再び投げて寄越された阿部の言葉に平静を装った返事を返しながら、用意していた市販の煮卵を半分に切って一個分ずつ盛り付ける。どうかこれで許して下さい、と煮卵様に願をかけておく。
早く出さなければ。これ以上のびたら洒落にならない。手早く二つのラーメンを盆の上に乗せると、目黒は阿部の待つテーブルへと向かった。
リビングテーブルの横で寝転がって雑誌を広げていた阿部は目黒がやってきたのに気が付いて身体を起こした。その瞬間、セットされていないさらさらの髪が揺れて阿部の顔に影を落とす様に思わず見惚れる。トレードマークになりつつある眼鏡をかけた阿部は、目黒に向かってちいさく微笑んだ。
たまたまなのかそれともわざとか、首許が大きく開いたロンTがなんとなく片方の肩へ向かってずり下がっているその姿は、目黒の脈を早くした。
「良い匂い~」
胡坐をかいてテーブルについた阿部の前にラーメンを置くと、目黒もその向かいに腰を下ろす。
箸を握りながらちらりと阿部を窺うと、阿部はラーメンの丼を覗き込んで煮卵を見つけ、子供のように瞳を輝かせている。こういうところが、好きだった。目黒は思いながらラーメンへと箸をつけた。
阿部を窺いながら麺を口に運び、思っていたよりものびていなかったことにほっとする。阿部がどう感じるのかはわからないけれど。
「これ、何かのびてない?」
「そうかな?」
言われて目黒は首を傾げてみせた。阿部はなんだか腑に落ちない、とでも言いたそうにラーメンを見つめてから、その行為がラーメンの前では無駄以外の何ものでもないことに気が付いたらしく、箸をつけ始める。
目黒は阿部がラーメンを口に運ぼうとしているのを見つめながら、自分は可愛い阿部に興奮してどきどきしているのか、それとものびたラーメンを咎められること、ひいては、嫌われるんじゃないだろうかということに対する恐怖でどきどきしているのかわからなくなった。
「んー、っ」
阿部の発した低い声にぎくりと肩を震わせる。阿部は、箸の先になんともだらしない姿でひっかかっているラーメンに口を付けようとした拍子、スープの中に入りそうになった袖口を慌てて押さえた。そして箸をおき、手早く腕まくりをする。続けて左腕もまくって、袖の心配をしないでよくなると、よし、とラーメンに向き直った。
ラーメンを食べる前にこんなことをしていたら確実に麺はのびるだろう。今、最悪なほどにのびているだろう。目黒は既に責任を阿部の着ているロンTへと転嫁して安堵していた。そして自分のラーメンを片付けながら、堂々と阿部を観察することに専念する。
「ああっ」
また奇声を発している阿部。今度は何なんだ。
ラーメンを食べるというのにこれだけ無駄なことに時間を費やすことの出来る阿部にはある種の敬意すら抱いてしまう。もちろん、そういうところが好きなのだけど。相変わらず自分の思考はそこへ落ち着くらしい。
「もー…」
何かぶつぶつ言いながら阿部は眼鏡を外した。
ああ、なるほど。眼鏡が曇ったらしい。確かに、ラーメンやなんかを食べるときに眼鏡をかけていると煩わしい時があるものだ。
阿部は眼鏡を丁寧にテーブルの上に置き、さて、と気を取り直している。お願いだから早くラーメンに手をつけてくれと頭を下げたくなるような、そんな阿部を見ていたら、目黒は何だか急に愛しさが込み上げてきた。
好きだ。自分はこういう無駄の多い阿部のことが好きなのだ。いつも一人でぶつぶつ言いながら何か他人には知れないようなことを真剣にしている阿部が、愛しくてたまらないのだ。
阿部は、どう思っているのだろう。あの夜の告白を、どういう意味だと受け取ったのだろう。目黒はやっぱり、肝心なことを聞けないでいた。
肝心なことを聞けないものだから、自分でお互いの間に引いていた境界線が曖昧になってしまった。思いを告げた以上、少なくとも目黒自身は、もう同じグループの仲間としては阿部に接することが出来なくなっていた。
麺を啜りながら、告白をしてからもう何度目かわからないが、意気地の無い自分に呆れていると、やっと阿部がラーメンを口にした。
「あ、やっぱりラーメンのびてるじゃん」
もぐもぐ噛み砕きながら言われる。
確かにもとからのびていなかったとは言わないが、お前が袖をまくったり眼鏡を気にしたりしているから悪化したんだろう、と目黒は返そうと思ったが、口を開いて阿部を見据え、そのまま言葉を失った。
阿部がこちらを向いてにこにこ微笑んでいる。
「………、」
触れたい。
胸の奥からそんな欲望が込み上げた。それは純粋で、当然の欲望だった。その髪に触れて、肩を抱いて、こちらに引き寄せて、キスをしたい。
だけど、阿部の気持ちがわからない。
あの夜「好きだ」と告げた目黒に小さく頷いてみせた阿部の気持ちが、わからないのだ。こんなにも、触れたくてたまらないのに。
阿部は箸を銜えたままこちらを見ている。
目黒は既に何を言おうと思って口を開いたのか忘れてしまった。おまけに口を閉じるタイミングも失った。鼓動だけが先走りしていく。
「あー…」
あの、その、ええと、何を言えば良いのだろうか。
阿部は微笑んだまま目黒を窺うように首を傾げた。耳にかかる長さの髪がさらりと揺れる。相変わらず、ロンTの首元は片方だけずり下がっていて鎖骨が眩しい。どうしよう、どうしよう、どうしよう。落ち着こうと思えば思うほど、頭の中は混乱していく。阿部の瞳から目が逸らせないのに、目の前に阿部が映っていない。ぐるぐる、頭の中身がひっくり返るような感覚。
「めめ、あーん」
「へ? …っんぐ」
突然言われて、開きっぱなしだった口の中に阿部の箸が突っ込まれた。どうやら、煮卵が一緒らしかった。
ようやく我に返って、それでも阿部の行動の意味がわからないで頭上にクエスチョンマークを浮かべながら目黒はもぐもぐと煮卵を噛み砕いた。ラーメンのスープに漬されていたそれは、ほのかに甘辛くて美味しい。
阿部は相変わらずにこにこしたまま、今しがた目黒の口の中に煮卵を放り込んだ箸をペロリと舐めてみせた。そして肩を竦める。
「へへ、間接キス」
「……っ」
頬が熱くなった。
飲み込んだ煮卵の味は、100パーセント忘れてしまった。
ただ、脳みそは阿部の箸の感触を思い出そうと必死に動いている。目黒は目の前がチカチカ光るのを感じた。
阿部の周りが、阿部が、キラキラと煌いて見える。
頭の中であざとい警察のサイレンの音が聞こえた気がした。
「何かお前、物欲しそうな顔してたよ?」
ラーメンを啜りながら、阿部の瞳が目黒を捉える。その瞬間、目黒の中で途方も無いほどに渦巻いていた不安や臆病な思いは全て吹き飛んでいってしまった。
急に強気になって、目黒は言った。
「阿部ちゃんが、好きなんだ」
「っ! …し、知ってるよ、そんなのっ」
自分の頬も赤く染まっているんだろうが、阿部の顔はきっと、それ以上だろう。
目黒は思った。可愛い阿部ちゃん、愛しい愛しい阿部ちゃん。このまま、時が止まってくれれば良いのに。
「俺も…、好きだよ。…って、言わせんなよ!」
目黒は口許が自然にカーブを描いていくのを止められなかった。
瞳を逸らし、テーブルに向かって愛の告白をしている阿部。付け加えられた憎まれ口。どろどろにのびた二つのラーメン。鎖骨が見えるロンT。さらさらの髪。箸を持った細い指先。一緒にいる空間。共有する時間。すべてが愛しくて温かくて心地好くなる。
だけどやっぱり、次は間接キスじゃないのがいい。
そう思いながら目黒は、意気地のないその指で、そっと阿部の前髪に触れた。阿部が瞳を丸くして顔を上げるのを、まるでスローモーションを見ているような感覚で、じっと待っていた。
コメント
11件
さいこう…尊いしぬ🤦🏻♀️🖤💚
ほとんどラーメンの話なの笑ったw 初々しいね👍
実は(?)彼らのセリフを考えるのがとても苦手です…🥲セリフ得意になりたいな〜