⧉▣ FILE_038: 花束 ▣⧉
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──Aが帰っていない。
ストラトス撃墜事件から、二日。
分析、報告、各国との折衝、責任整理──
やるべきことはいくらでもある。だが、その合間に必ず思考が逸れる。
Aはどうしているか。
連絡はつかない。ワタリの追跡も成果なし。
Lは椅子から立ち上がると、誰にも告げず研究所を抜け出した。
外気が頬に触れる。
寒い……。
とぼとぼと歩いていた。
足取りは重い。
イギリスの空気がこんなに悪く感じたのは──十四年ぶりだ。
ふと、“ウィンチェスター爆弾魔事件”を思い出す。
まだ“L”ではなかった頃の私。
ヴォクスホロウから、この道を走った。
あの時は無我夢中で、怖くて、ただ爆弾を止めなければならないという衝動だけで走った。自分が死んでもいいとさえ思っていた。
そのくらい必死にすがりついた事件。
あの時と同じだ。違うのは、今は子供ではないこと。そして──守れなかったこと。
足が止まる。脳裏に焼き付くのは、粉々に散ったストラトス。
そのすべてが“Lの判断”の結果だった。
国家単位で見れば最善。
戦争回避、被害最小、外交維持──すべての数値は撃墜を肯定している。
だが。
最後に見たAの顔が離れない。泣きながら掴みかかり、「仲間を殺すのか」「裏切るのか」「君なら止められたんだろ」と叫んだ声が、耳に残っている。
私は世界を守ったのか。
それとも、家族を殺したのか。
街灯の下で目を伏せる。
「……A」
風に溶けるほど小さく名を呼ぶ。研究所に戻れば仕事は山積みだ。だが今はただ一つ──Aがどこにいるのか、生きているのか、それだけが気がかりだった。
Lは再び歩き出す。
“十四年前、爆弾を止めるために走った道”を、もう一度なぞりながら。
『父がいるところ』へ──
「──私は、どうすれば良かった?」
答えはないと分かっている。それでも、言葉は止まらなかった。
「あなたなら……どうしましたか?」
ウィンチェスター大聖堂。
足元に落ちる、焼き付いた影。
けれどLにとってそれは、ただの影ではなかった。
命を懸けて自分を守った人。
すべてを背負い、盾になり、道を示し続けた人。
「私は……あなたみたいにはなれなかった」
返事はない。
答えてくれる人はどこにもいない。
「何も、守れなかった……」
声が、風に溶ける。
「……なんで、こんな時にいないんですか」
一瞬、言葉が詰まる。
「──キリスさん」
その名を呼んだ瞬間、胸の奥が軋んだ。
沈黙。
外の風だけが、街路樹の葉を揺らしている。
──カサ……カサ……
不意に、乾いた音が耳に触れた。
紙が擦れるような、軽い音。
Lは、ゆっくりと顔を上げる。
「……?」
この辺りは瓦礫だらけだ。
ゴミ袋も、新聞紙も、飛ぶようなものはない。
風が鳴らすには、不自然な音。
──カサ、……カサ。
なんの音だ……?
今度は、少しだけ近い。
Lは周囲を見回しながら、瓦礫の散らばる足元を注意深く歩いた。
音の正体を追っていくうちに、朽ちかけた建物の影──かつて、ウィンチェスター大聖堂の祭壇があった場所に辿り着く。
そして──そこに。
一束の花が、置かれていた。
「……花束……?」
土埃ひとつかぶっていない。
枯れも萎れも見えない。ついさっき、誰かがここに置いた──そう思わせるほどに、生き生きとしたまま咲いていた。
Lはそっとその花束を手に取った。生花の香りが、ごく微かに鼻をかすめる。
「……なんで」
外には、L自身が貼った「KEEP OUT」のテープが風に揺れていた。
一般の立ち入りは禁じられている。調査関係者ですら、今となっては誰もここには近づかない。
──ここで、キリスさんが亡くなったことを知る者は、ほとんどいない。
この花束が意味するもの。
この場所を知り、死の意味を知り、わざわざここまで足を運び、生花を手向けた人物──
──その意志は、明らかに“キリス”に向けられたものだ。
祭壇跡に立ち尽くしたまま、Lは周囲を見渡す。
瓦礫の隙間、割れたステンドグラス、崩壊したパイプオルガン──何ひとつ不審なものは見当たらない。
だが、確かに「誰か」が、Lの知らぬ間にここを訪れ、花束を供え、去っていったのだ。
──誰が、ここに……。
問いは、風に溶けて消えた。
残されたのは、一つの疑問と、手の中の、色鮮やかな花束だけだった。






