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前日譚 祈りの五年間
第一話 五年前、残された朝
第五次聖杯戦争が終わった朝、冬木の空は青かった。
あまりにも、青かった。
昨夜までの戦いなど、最初から存在しなかったかのように。
街はいつも通り目を覚まし、新聞配達のバイクが細い道を走り、遠くの商店街ではシャッターの開く音が響いていた。
誰かが失ったものも。
誰かが抱えた傷も。
誰かが最後まで言えなかった言葉も。
世界は、待ってくれない。
朝は来る。
それは残酷で、だからこそ救いでもあった。
衛宮士郎は、衛宮邸の台所に立っていた。
鍋の中で味噌汁が静かに湯気を立てている。
まな板の上には、切りかけの葱。
炊飯器からは米の匂いがする。
いつもの朝だった。
いつもの、はずだった。
けれど、台所に立つ士郎の手は、何度も止まった。
茶碗を一つ取る。
箸を並べる。
皿を置く。
そのたびに、何かが足りない気がした。
誰かの分を余計に用意しそうになる。
誰かの好みを思い出しそうになる。
誰かが居間に入ってきて、静かに座る気がする。
しかし、誰も来ない。
士郎は棚へ手を伸ばしたまま、しばらく動かなかった。
「……何やってんだ、俺」
小さく呟き、余分に取った茶碗を棚へ戻す。
ただ、それだけのことに妙に時間がかかった。
居間では、藤村大河が新聞を広げていた。
「士郎ー、ご飯まだー?」
いつも通りの声。
朝から元気で、遠慮がなくて、少し騒がしい。
その声に救われる日があることを、士郎はこの数日で知った。
「もうすぐ。ちょっと待ってろ、藤ねえ」
「ちょっとって言って本当にちょっとだった試しがあるから士郎は偉い!」
「褒め方が雑だな」
「雑でも褒めは褒めです!」
そんなやり取りをしていると、玄関の方から控えめな声がした。
「おはようございます」
間桐桜だった。
彼女は靴を揃え、いつものように台所へ向かおうとして、少しだけ足を止めた。
この家へ来ること。
朝食の支度を手伝うこと。
居間で皆と食べること。
それは以前から続いていた習慣だ。
けれど、今の桜にとって、その習慣は前とは違う意味を持っていた。
戻ってきた日常。
いや、戻ったのではない。
壊れた後で、もう一度作り直している日常。
「桜、無理しなくていいぞ」
士郎が言うと、桜は小さく首を横に振った。
「いえ。手伝わせてください」
その声は柔らかい。
けれど、芯があった。
以前よりも、ほんの少しだけ。
士郎はそれを感じ取り、頷いた。
「じゃあ、卵焼き頼めるか?」
「はい」
桜は微笑み、台所へ入った。
大河が新聞の向こうから顔を出す。
「おお、桜ちゃんの卵焼き! 朝から勝利確定!」
「藤村先生、まだ焼いてません」
「焼く前から分かるのが強者の勘なのだよ」
「何の強者だよ」
士郎は苦笑した。
その笑いが、少しだけぎこちなかったことに、桜は気づいた。
けれど、何も言わなかった。
言葉にすれば崩れてしまうものがある。
だから、今は卵を割る。
菜箸で混ぜる。
フライパンへ油を引く。
朝食を作る。
それが、彼らにできる最初の修復だった。
◆
遠坂凛が衛宮邸へ来たのは、朝食が終わる頃だった。
制服姿ではない。
私服に薄いコートを羽織り、片手には紙袋を持っている。
玄関へ出た士郎を見て、凛は開口一番に言った。
「顔、ひどいわよ」
士郎は眉をひそめる。
「朝からそれか」
「朝だから言ってるの。寝てないでしょ」
「寝た」
「何時間?」
士郎は目を逸らした。
凛は深くため息をつく。
「はい、有罪」
「まだ何も言ってないだろ」
「目が言ってる」
そう言って、凛は紙袋を押しつけた。
「これ、資料。あと薬。あと、宝石の残り」
「宝石の残りって、そんな雑に渡していいものなのか?」
「よくないわよ。だからちゃんと返して」
「だったら渡すなよ」
「必要になるかもしれないでしょ」
凛の声は、いつものように強かった。
けれど、その強さの下に疲れがあった。
士郎にも分かる。
凛も眠れていない。
五年前まで、彼女は遠坂の魔術師として聖杯戦争を知っていた。
勝つために準備し、戦うために自分を整え、魔術師としての顔で前へ出た。
けれど、終わった後に残るものまでは、誰も教えてくれなかった。
敵を倒せば終わるわけではない。
儀式を止めれば全部が片付くわけでもない。
残るのは、家。
土地。
霊脈。
傷。
記録。
忘れるには重すぎるもの。
そして、忘れてはいけないもの。
凛は玄関の框に腰かけ、靴を脱がないまま言った。
「冬木の霊脈、まだ落ち着いてない」
士郎の表情が変わる。
「危ないのか?」
「今すぐ何か起きるわけじゃない。けど、完全に正常とは言えない。というか、正常な冬木なんて私は見たことないけど」
「笑えないな」
「笑ってないわよ」
凛は紙袋から一枚の図面を取り出す。
冬木の地図だった。
柳洞寺。
深山町。
新都。
冬木大橋。
港湾区。
衛宮邸周辺。
そこに、赤い印がいくつか書き込まれている。
「ここと、ここと、ここ。霊脈の流れが詰まってる。あと、妙な空白がある」
「空白?」
「魔力がない場所って意味じゃない。むしろ逆。そこに何かあるはずなのに、観測しようとすると抜ける」
「見えないってことか」
「そう。見えないっていうより、見たことを忘れる感じ」
士郎は黙り込んだ。
嫌な話だった。
忘れる。
その言葉だけで、胸の奥が少し冷える。
凛は士郎の顔を見て、すぐに話を切り替えた。
「まあ、今すぐあんたがどうこうできる話じゃないわ。私がしばらく調べる」
「俺も手伝う」
「言うと思った」
「なら最初から入れておけよ」
「入れるわよ。でも、まず寝なさい」
「遠坂も寝てないだろ」
「私は魔術師だからいいの」
「便利な言い訳だな」
「うるさいわね」
凛は立ち上がる。
その時、居間から大河の声が響いた。
「あれ? 凛ちゃん来てるの? 朝ご飯食べてく?」
凛の身体が一瞬だけ固まる。
士郎はそれを見逃さなかった。
戦いが終わった後でも、日常は容赦なく差し出される。
ご飯食べてく?
その一言が、今は少しだけ眩しい。
凛は数秒黙った後、肩をすくめた。
「……食べる」
士郎は笑った。
「素直だな」
「うるさい。お腹空いてるのよ」
凛は居間へ向かった。
士郎はその背中を見て、少しだけ安心した。
誰かが席に座る。
誰かの分の茶碗を出す。
誰かが文句を言いながら味噌汁を飲む。
それだけのことが、今は確かに必要だった。
◆
昼過ぎ、士郎は一人で土蔵にいた。
戦いは終わった。
召喚陣も消えた。
この場所に残っているのは、古い道具と、埃と、記憶だけだ。
そう思っていた。
だが、床に残る薄い傷跡を見ていると、どうしても胸がざわつく。
あの夜のことを思い出す。
剣。
叫び。
光。
誰かの声。
そして、別れ。
士郎は床に座り込み、自分の手を見た。
まだ、感触が残っている気がする。
何かを掴み損ねた手。
何かを見送った手。
何かに届かなかった手。
「……俺は」
呟きかけて、言葉が止まる。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
俺は、何をしたかったのか。
俺は、何を守れたのか。
俺は、これから何をすればいいのか。
答えは出ない。
出ないまま、日常は進んでいく。
土蔵の扉が小さく開いた。
士郎が振り返ると、桜が立っていた。
「先輩」
「桜か。どうした?」
「遠坂先輩が、帰る前に少し休むって」
「そうか」
桜は土蔵の中へ入る。
そして、士郎の少し離れた場所に座った。
二人の間に、静かな時間が流れる。
以前なら、桜はもっと遠慮していたかもしれない。
あるいは、士郎が何かを言うまで黙っていたかもしれない。
けれど、今の桜は少し違った。
「先輩」
「うん?」
「私、まだ怖いです」
士郎は桜を見た。
桜は床を見つめている。
「朝起きた時、普通に一日が始まることが怖いです。何もなかったみたいに、学校があって、ご飯があって、誰かが笑っていて」
「……」
「嬉しいのに、怖いんです。これが本当に私のものなのか、分からなくなる時があります」
士郎はすぐに答えられなかった。
簡単に大丈夫だと言いたくなかった。
大丈夫ではないことを、彼は知っている。
だから、少し考えてから言った。
「俺も、分からない」
桜が顔を上げる。
士郎は続けた。
「朝飯作ってても、何か足りない気がする。藤ねえが騒いで、遠坂が怒って、桜が卵焼き作ってくれて、それでちゃんと日常っぽいのに、どこか穴が空いてる」
「先輩も?」
「ああ」
士郎は小さく笑った。
「だから、今すぐ普通に戻らなくてもいいんじゃないか。戻るんじゃなくて、作り直すんだと思う」
「作り直す……」
「うん。飯も、家も、学校も。少しずつ」
桜はその言葉を胸の中で何度か繰り返すように、静かに目を伏せた。
「少しずつなら、できるでしょうか」
「できる」
士郎は即答した。
その早さに、桜は少し驚いた。
士郎は苦笑する。
「いや、根拠はないんだけどな」
「先輩らしいです」
「褒めてるか?」
「はい」
桜は、ほんの少しだけ笑った。
それは大きな笑顔ではない。
けれど、壊れた後の世界で最初に咲く、小さな芽のような笑みだった。
士郎はその笑みを見て、胸の奥が少し温かくなった。
守れたものがある。
完全ではなくても。
失ったものがあるとしても。
それでも、ここに残ったものがある。
「桜」
「はい」
「明日も来るか?」
桜は目を瞬かせた。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい。来ます」
「そっか」
士郎はそれだけ言った。
それだけでよかった。
明日も来る。
その約束は、どんな魔術よりも今の彼らを支えていた。
◆
夕方、遠坂凛は冬木大橋に立っていた。
風が強い。
川面には夕焼けが映り、赤い光がゆっくりと流れている。
凛は橋の欄干に手を置き、目を細めた。
霊脈の流れを見る。
魔力の残り香を読む。
戦いの傷跡を探す。
冬木は、まだ痛んでいる。
表面上は静かだ。
街は動いている。
人々は生活している。
だが、魔術師の目で見れば、霊脈のあちこちに歪みが残っている。
聖杯戦争は終わった。
だが、聖杯戦争という儀式がこの土地へ残した影は、そう簡単には消えない。
「本当に、厄介な土地ね」
凛は呟いた。
その声は風に消える。
五年前まで、凛は自分が遠坂の当主であることを当然のように受け止めていた。
この土地を管理する。
霊脈を守る。
魔術師として振る舞う。
それは義務だった。
けれど今は、それだけでは足りない気がしている。
管理するだけでは駄目だ。
見ているだけでは駄目だ。
この土地で何が起きたのか。
誰が傷ついたのか。
何が残ったのか。
それを知らないまま、管理者だとは言えない。
「……面倒なこと考えるようになったわね、私も」
凛は苦笑した。
その時、背後から声がした。
「遠坂」
振り返ると、士郎が立っていた。
「何で来たのよ」
「遠坂が一人で調べに行くからだろ」
「尾行?」
「心配」
凛は一瞬黙った。
それから、少し顔を逸らす。
「そういうの、真顔で言うのやめなさい」
「なんでだ?」
「こっちが困るからよ」
士郎は首を傾げた。
凛はため息をつき、誤魔化すように霊脈図を取り出した。
「ちょうどいいわ。あんたにも見てもらう」
「俺に分かるのか?」
「構造解析はできるでしょ」
「霊脈は剣じゃないぞ」
「でも、流れはある。骨格もある。歪みもある。あんたの見方なら、普通の魔術師とは違うものが見えるかもしれない」
士郎は頷き、橋の上から街を見た。
構造解析。
冬木大橋。
川。
街。
道路。
電線。
地下に流れる霊脈。
全体を一つの構造として見る。
瞬間、士郎の眉がわずかに動いた。
「……ここだけ、何か引っかかる」
「どこ?」
士郎は川の下流を指差した。
港湾区の方角。
凛は地図を見る。
「そこ、私も違和感があった場所よ」
「何かが詰まってる感じがする。いや、違うな。流れ込もうとしてるけど、まだ入口がない感じ」
「入口?」
「うまく言えない」
士郎は目を細める。
「まだ形になってない。でも、いつか何かが来るなら、そこから来る気がする」
凛は黙って港の方角を見た。
夕焼けの海は穏やかだった。
波は静かで、船の灯りが小さく揺れている。
何も起きていない。
まだ。
凛は地図に印をつけた。
「分かった。ここは継続調査」
「遠坂」
「何?」
「一人でやるなよ」
凛は少しだけ眉を上げる。
「それ、私の台詞なんだけど」
「俺は一人でやらない」
「本当に?」
士郎は少し黙った。
凛は呆れた目で見る。
「そこで即答しなさいよ」
「努力する」
「不安しかないわ」
凛はそう言いながら、少しだけ笑った。
士郎も笑った。
冬木大橋の上で、二人は夕焼けを見ていた。
戦いは終わった。
だが、後始末は始まったばかりだった。
◆
その夜。
衛宮邸では、いつもより少し多い夕食が並んだ。
大河が騒ぎ、凛が文句を言い、桜が笑い、士郎が台所と居間を何度も行き来する。
特別な食卓ではない。
焼き魚。
味噌汁。
煮物。
卵焼き。
白いご飯。
ただの夕食。
けれど、誰もそれを軽く扱わなかった。
この食卓は、勝手に戻ってきたものではない。
誰かが米を研ぎ、誰かが魚を焼き、誰かが皿を並べ、誰かが席に座ることで、ようやくそこに生まれる。
日常は、奇跡ではない。
けれど、作り続けなければ消えてしまうものだった。
大河が箸を掲げる。
「ではでは! 今日もみんな無事にご飯を食べられることに感謝して!」
「急に先生っぽいな」
「私はいつでも先生です!」
凛が小さく笑う。
桜も笑う。
士郎は茶碗を持ち、少しだけ目を伏せた。
今日も誰かがここにいる。
それだけでいい。
少なくとも、今夜は。
食後、凛は帰り際に士郎へ言った。
「しばらく、霊脈の調査は続ける。あんたにも手伝ってもらうから」
「分かった」
「あと、学校にはちゃんと行くこと」
「それは遠坂もだろ」
「私は行くわよ。必要なら寝不足でも」
「寝ろよ」
「そっちこそ」
二人は睨み合い、同時にため息をついた。
桜がその様子を見て、少しだけ笑った。
凛は靴を履き、玄関の外へ出る。
夜風が冷たい。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
その言葉が、当たり前のように交わされた。
けれど、士郎はその言葉の重さを知っていた。
また明日。
それは、必ず来るとは限らない約束だ。
だからこそ、大事にしなければならない。
◆
深夜。
衛宮邸が静かになった後、士郎は一人で土蔵へ戻った。
理由はない。
ただ、足が向いた。
床にはもう光はない。
召喚陣の痕も、ただの傷に見える。
士郎はその場に座り、目を閉じた。
何も聞こえない。
けれど、胸の奥に残っているものがある。
誰かを見送った記憶。
誰かを助けられなかった後悔。
誰かを守りたいと思った願い。
それらは、消えない。
消えてほしいわけではない。
でも、抱えたまま歩くには少し重い。
「……それでも」
士郎は呟いた。
「明日も飯を作るんだよな」
その言葉は、答えというにはあまりにも普通だった。
けれど、今の士郎にはそれでよかった。
誰かを救うという大きすぎる願いより先に。
明日の朝食を作る。
誰かが来たら、席を用意する。
誰かが帰る時には、また明日と言う。
そんな小さなことから、もう一度始める。
土蔵の外で、風が鳴った。
冬木の夜は静かだった。
この時、士郎はまだ知らない。
この土地のさらに深い場所で、古い残響が眠っていることを。
まだ名前のない問いが、長い時間をかけて目を覚まそうとしていることを。
遠い未来のある夜、自分が再びこの土蔵で異常な光を見ることを。
何も知らない。
知らないまま、彼は立ち上がった。
明日の朝も早い。
米を研がなければならない。
味噌汁の具も決めなければならない。
大河はきっと朝から騒ぐ。
桜は来てくれるかもしれない。
凛も、文句を言いながら顔を出すかもしれない。
それでいい。
今は、それでいい。
衛宮士郎は土蔵の扉を閉めた。
夜はまだ静かだった。
願いは、まだ燃えていない。
ただ、人の胸の奥で小さく残っているだけだった。
そして、その小さな火を消さないように。
彼らの五年間は、静かに始まった。
――前日譚 第二話へ続く。
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いやあ、これ……冒頭の「青すぎる空」からもう胸に来るわ。戦争が終わった朝の、あまりにも普通の風景が逆に痛い。士郎が茶碗を余計に取りそうになるシーン、すごく分かる。俺もそういう「あるはずの人の不在」に何度もぶつかる描写、めちゃくちゃ刺さった。 桜の「まだ怖い」って告白、そして士郎が「戻るんじゃなく作り直す」って返すところ、もうね……二人の距離感の変化が本当に良い。凛の「有罪」と素直に食卓につくギャップも可愛いし。結局「明日も来る」って約束が一番の魔術なんだよな。この五年間、大事に見届けていきたいわ🔥
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