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【私の幸せ】
私はどこにでもいるただの兵士。特別強いわけでもないし、誰かに憧れるような存在でもない。日々訓練に追われて、何が正しいのか分からないまま、命の限りこの世界に尽くす。それでも私は、この世界が嫌いじゃない。
汗を流すことも、泥にまみれることも、仲間たちと笑い合えることも、彼の背中を見続けることも─。
耳に馴染んだ鳥の声と、兵舎のどこかで鳴る木のきしむ音。窓の隙間から差し込む淡い光が、灰色の天井に細く伸びている。風の音が微かに聞こえる静寂の中、私はゆっくりとまぶたを開いた。風の波が葉を揺らし、私の髪を泳がせる。雲の切れ間からこぼれる光が、大地をゆっくりと照らしていく。草原には露がきらめき、冷たい空気の中に、生命の匂いが混ざる。どれだけ人が失われても、どれだけこの世界が歪んでいても、この景色は変わらない。
肌に張りつく汗は冷たく、呼吸は重たくて、足音だけが規則正しく地面を打つ。周りの兵士たちの声が遠くに響き、訓練用の木剣がぶつかる音が空気を切り裂く。木剣を降ろすたび、肺が重く、心臓の鼓動が耳の奥で響く。鼓動と呼吸がぶつかり合う。それでも、目の前の標的だけを見つめて、もう一度腕を振り上げる。
熱を帯びた身体からまとわりつく暑さを切り裂く風が吹き寄せ、太陽が雲と重なる。私は小さく息をついた。汗が肌を伝い、そっと肌をなでる風が体を刺し込む。規則的だった足音が止まり、低く笑い合う声が、そこかしこに滲み始める。ざわめく空気から一歩抜け出すように背を向けると、湿った風が髪を揺らし、服の内側をすり抜けていった。廊下に足を踏み入れた瞬間、視界の先に彼の姿が目に映った。
廊下の薄暗い影の中、彼の鋭くもどこか優しい瞳が私の存在を捉えた。その瞬間、胸の奥で小さな波紋が広がり思わず息を呑む。この鼓動の高鳴りは訓練のせいだろうか。はたまた彼の視線に触れたからなのか。答えを探そうとすればするほど、心の中のざわめきは大きくなるばかりで、「ただの疲れ」かもしれないという思いと、「それ以上の何か」だという感覚が交錯していた。その視線の先で、彼は鋭い表情を崩さず、でもどこか温もりを秘めたその眼差しで静かに前を見て進み続けていた。その背中を見つめ返しながら、私の胸の奥はじんわりと熱くなった。
陽の名残を帯びた空がすっかり藍に染まっていた。風の匂いが変わり、どこか涼しげな空気が肌をすり抜ける。外から流れ込む風が、昼のざわめきを遠ざけ、湯船の余熱が残る足元に夜が静かに降りてきた気がして、思わず息をひとつついた。
人気のない中庭へと足を運ぶ。草の香りが夜露に濡れて、昼とは違う静けさが辺りを包んでいた。顔を上げると、高く澄んだ夜空に、星がいくつも瞬いている。遠くの方で小さな虫の声が響き、風が髪を揺らした。視線は空のどこかに吸い込まれたまま、星がひとつ、またひとつ瞬くたびに、頭の中の思考がゆっくりとほどけていく。何を考えていたかも曖昧になって、ただ、夜が静かに流れていた。何も考えず星を見つめていたその瞬間
「いてっ」
軽い衝撃が額に落ちた。ほんの少しだけ、指の骨が当たる硬さ。デコピンされた。思わず前のめりになりながら振り向くと、そこにはいつもの鋭い目つきで、ほんの少しだけ視線を外しながら、わずかに眉を上げている彼がいた。驚いた拍子に鼓動が跳ねる。けれどすぐにその拍動は、胸の奥でふわりと溶けていった。気づけば彼は隣に腰を下ろし、何事もなかったかのように同じ空を見上げている。赤くなったほっぺを隠すように目をそらしながら、再び夜空を仰ぐと、彼も同じ方向へ視線を向けていた。二人の間に流れる沈黙は、なぜか心地よくて。月に見惚れて涼しい風に撫でられる。星が瞬いた瞬間、隣からそっと差し込まれた暖かい手が、私の指を絡め取る。不意に伝わるその温もりに、思わず頬を赤らめる。冷たかったはずの夜風が、彼と触れ合った瞬間から、胸の奥の鼓動はいつもより速くなり、体の芯からじわじわと温かさが広がり、指先までほんのり熱を帯びるのを感じた。
「手、冷えてんだろ」
低く落とされた声が、夜の静けさの中に溶け込む。彼の手はあたたかくて、指先をゆるく包まれるたび、鼓動がまた一つ跳ねる。そっと手を握り返す。小さなぬくもりが、夜の静けさの中で確かに重なった。風が揺れ、星が優しい眼差しで煌めく静寂の中、この静けさすらも、愛おしく思えた。絡んだ指先から、そっと彼の手が髪へと触れる。彼の手を無意識に目で追いかけていると彼の鋭い視線と目が合っていることにようやく気づいた。胸の奥が跳ねるように高鳴って、思わず視線を星へと伝えようとしたその瞬間、彼の手が顔に添えられた。
「動くな」
低く芯のある言葉が耳元で響き、鼓動が喉元までせり上がって、身体の奥がじんわり熱くなる。とろけるような火照った顔を隠そうと抵抗しようにも、頬に添えられた手にそっと動きを封じられる。抗う隙すら与えられず、頬を赤らめながら私は彼にとろけるよう身体を委ねて、そっと目を瞑った。ゆっくりと距離を詰める彼の瞳が暖かく、自然と身体の力が抜けていく。お互いの息遣いが混ざり合い、心臓の音だけがはっきりと響き、優しく瞼を閉じる。
そっと唇が触れ合った瞬間、お互いの鼓動がゆっくりと重なり合っていくのを感じた。そっと瞼を開くとすぐそこに彼の顔があった。視線が絡んだ瞬間、彼は何も言わず、ただその表情が、やけに優しくて、恥ずかしさと嬉しさと、いろんな感情が胸に押し寄せられ胸の奥がきゅっと締めつけられる。夢の中にいるような心地のまま、私達は再び星空を見上げた。さっきよりも星が少しだけ輝きを増したように見えた。
今日も太陽が月を照らし、星を煌めかせ、夜を彩る。人が笑い、花が揺れ、風が靡き、雲が流れ、虫が鳴く。全てが生きて、全てが巡っている。美しく、残酷であるこの日常が、私の幸せだ。