テラーノベル
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雨脚が強まる中、二人が逃げ込んだのは廃業した診療所だった。
割れた窓はベニヤ板で塞がれ、埃を被った診察台には白い布がかけられている。薬品棚は空だが、消毒液の染み付いた冷たい空気が、地下室よりはマシだった。
Chanceは診察台の端に腰掛け、荒い息を吐いた。
額に脂汗が滲む。呼吸は浅く、視界が明滅している。
「……最悪だ」
「まだ軽度だ」
iTrappedは冷静に観察し、Chanceの脈を測るふりをして手首を掴んだ。
「完全なヒートではない。抑制剤を倍量飲めば、症状は抑えられる」
「増やせばな。……増やせば俺は半分死ぬ」
Chanceは掠れた声で笑った。
抑制剤はΩの本能を抑え込む代わりに、神経を麻痺させる。感覚も、判断力も、あのMafiosoと渡り合うための勝負勘も、すべて鈍らせてしまう。
ギャンブラーにとって、それは死と同義だ。
「勘が鈍れば逃げ切れねえ。逃げ切れなきゃ捕まる。捕まれば――」
「Mafiosoの所有物になる」
iTrappedが淡々と言葉を継ぐと、室内の空気が凍りついた。
「あんた、言葉選ばねえな」
「事実だ。彼は今、狩りを楽しんでいる。次はヒートのタイミングを狙ってくる」
「……分かってるよ」
Chanceは忌々しげに舌打ちをした。
沈黙。
その間にも、部屋にはわずかに甘い匂いが滲み始めている。Chance自身が気づいている。隠しても、隠しきれない蜜の香り。
iTrappedの視線が、ほんのわずかに揺れた。
「フェドラを取れ」
「は?」
「作戦がある」
「命令すんな」
強気な口調。だが、Chanceの指先は帽子の縁を白くなるほど強く握りしめていた。
「……俺の前でも、仮面を被るのか?」
その一言は、静かに、けれど深く刺さった。
Chanceは数秒、動かなかった。
やがて観念したように息を吐き、ゆっくりと帽子を外す。
汗で濡れた前髪が落ちる。露わになったその表情は、余裕など微塵もない、追い詰められた男の顔だった。
「……満足かよ」
iTrappedは答えず、ただ一歩、距離を詰めた。
近い。互いの呼吸が触れ合う距離。
「……匂いが強くなっている」
「言うな」
「俺はαではない。だが影響は受ける」
「へぇ。冷静沈着なiTrapped様にも本能はあるって?」
「あるさ」
即答。その一瞬、空気が変わった。
保護者と被保護者の境界線が、曖昧に揺らぐ。
「なら、どうする?」
Chanceは挑発的に笑ってみせた。虚勢だとしても、引くわけにはいかない。
「俺を押さえつけるか? 縛るか? それとも――」
iTrappedの手が伸び、Chanceの顎に触れた。
優しく。だが逃げ道を塞ぐ角度で。
「利用する」
低い声。
「……何を」
「お前の匂いをだ」
「囮にしろってか?」
「違う。主導権を握るんだ」
iTrappedは棚に残っていたガーゼの束を掴むと、Chanceの首筋や脇に強く押し当てた。
「いいか。これがお前のデコイになる」
「……あ?」
「今の匂いは隠せない。なら、逆に利用する。この部屋の通気口付近に、お前のフェロモンを吸わせたガーゼを大量に配置するんだ」
iTrappedは手際よくガーゼに汗を染み込ませていく。その目は冷徹に計算していた。
「ここを匂いの発生源にする。αの本能は単純だ。強烈なフェロモンを感知すれば、思考より先に身体が動く。奴が匂いに釣られて正面から飛び込んでくる隙に、俺たちは裏のボイラー室から抜ける」
それは、生物学的な定石を突いた合理的な作戦だった。
獣を罠にかけるように、Mafiosoの鼻をあざ笑う。
「……はは、悪趣味だな」
Chanceは力なく笑い、言われた通りに汗を拭ったガーゼを渡した。
iTrappedがそれを通気口へ配置し、窓の外を確認する。
「来るぞ。……そろそろだ」
計算通りなら、鼻を利かせた獣がドアを蹴破ってくるはずだ。
iTrappedは裏口へ向かう準備を整え、秒読みを開始した。
3、2、1。
――しかし。
何も起きなかった。
ドアは蹴破られない。怒号も聞こえない。
ただ、不気味な静寂だけが建物を包み込んでいく。
「……おい、どうした」
Chanceが訝しげに問う。
iTrappedの表情が凍りついた。窓の隙間から外を見る。
足音はない。だが、肌を刺すような『気配』がある。建物を包み込む、無言の圧力。
「……囲まれている」
「冗談だろ……」
「冗談なら良かったんだがな」
正面に三人。裏口に二人。屋上に一人。
完全な包囲網だ。
iTrappedが仕掛けた匂いの罠は、まるで無い物かのように無視されていた。いや、正確には『罠がある場所』ごと特定され、袋小路にされていた。
Chanceは立ち上がろうとしたが、足元が揺れた。視界が熱で滲む。
「クソ……タイミング最悪だ」
「ヒートが進んでいる。思考が鈍る前に強行突破するぞ」
iTrappedが扉へ向かおうとした、その時だった。
正面の扉が、ノックもなく、音もなく開いた。
ゆっくりと。
まるで自分の城に帰ってきたかのような、絶対的な余裕を持って。
黒いコートの裾が揺れ、革靴の音が乾いた床に響く。
「逃げ場はない」
Mafiosoだった。
彼は部屋に入ると、iTrappedが仕掛けたガーゼの山を一瞥し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「匂いで俺を釣れるとでも思ったか? βの浅知恵だな」
背後に数人の部下を従えながらも、彼は銃すら抜いていない。
必要ないからだ。王が野良犬を躾けるのに、武器など要らないと言わんばかりの威圧感。
「ずいぶん大勢で来たな……」
Chanceは虚勢を張って笑った。
「パレードでもするかと思ってたぜ」
「狩りは静かに行うものだ」
Mafiosoの視線が、Chanceの全身を舐めるように捉える。
そして、わずかに口角を上げた。
「……本物は、そこか」
甘い匂いが、隠しきれずに室内に滲み出していた。
iTrappedが一歩前に出て、Chanceを庇う。
「彼に触れるな」
「触れん」
Mafiosoは素直に答える。
だが一歩、また一歩と、悠然と距離を詰める。
「触れずとも、わかる」
ドッ、と空気が重くなった。
最強のαが放つフェロモンが、空間そのものを支配する。重く、絡みつくような麝香の香り。
「……ッ、ぐぅ……」
Chanceの呼吸が乱れる。膝が折れかけ、その場に崩れ落ちそうになる。
iTrappedが慌てて支えようとした瞬間、Mafiosoが低く笑った。
「支えるな。余計に不安定になるぞ」
「何を――」
「Ωはな、選択を迫られた時が一番揺れるんだ」
Mafiosoの手が伸び、Chanceの顎を持ち上げた。
冷たい革手袋の感触。触れられたのは顎だけだ。なのに、全身を鎖で縛られたかのように動けない。視線だけで拘束されている。
「逃げるか。縋るか。従うか」
「……俺は、どれにも当てはまらねぇ」
「強がりだ」
即答だった。
「お前は今、恐怖と熱で震えている。抑制剤は限界だ」
事実を言い当てられ、Chanceの瞳が揺れる。
iTrappedが即座に銃を抜き、Mafiosoの眉間に向けた。
「これ以上近づけば撃つ」
「撃て」
Mafiosoは止まらない。瞬き一つせず、iTrappedを見据えた。
「撃てば、この建物ごと吹き飛ばす」
その言葉に呼応するように、外にいる部下たちが一斉に銃器の安全装置を外す音がした。
完全な包囲。圧倒的な火力差。
iTrappedの目が、一瞬だけ細くなった。
計算が崩れた。
「匂いを利用して誘導する」という自分の策すら、この男は読んでいたのだ。誘導されたふりをして、網を張っていたのだ。
完全に、読み負けた。
「どうする、iTrapped。その壊れかけた玩具を守って死ぬか? それとも切り捨てるか?」
沈黙。
その間に、Chanceの熱が一段階上がる。
「……は、はは」
Chanceは笑った。笑っているのに、声が震えて止まらない。
「俺を奪ってどうする気だ。……金か? マフィアの面子か?」
Mafiosoの答えに、迷いはなかった。
「俺のものにする」
空気が凍る。
「金と誇りを奪った罪は、その身体ですべて償わせる」
所有。
その単語が、鋭利な杭となってChanceの胸を貫いた。
怒りと、得体の知れない震えが混ざり合う。
「ふざけんな……俺は誰のもんでも――」
言葉が途切れる。
強烈なフェロモンが脳を殴った。
一瞬、視界が白く飛ぶ。
膝が崩れる。今度はiTrappedも支えきれなかった。
無様に床に這いつくばるChanceを見下ろし、Mafiosoがようやく距離を詰める。
耳元へ、低い声が落とされた。
「次は、逃がさん」
唇が触れそうな距離。
だが、触れない。
Mafiosoの指が、Chanceの汗ばんだ頬を軽く撫でる。
それだけで、電流が走ったように全身が跳ねた。
「今日は確認だけだ。……まだ熟していない」
Mafiosoは満足げに目を細めると、踵を返した。
これ以上ないほど無防備な獲物を前にして、彼は背を向けたのだ。
「引け」
部下たちが一斉に銃を下ろし、退いていく。
あまりにもあっさりと。
だがそれは、慈悲ではない。「いつでも食える」という残酷な余裕の証だった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
Chanceは床に崩れたまま、酸素を求める魚のように荒く息をしていた。
「……くそ……ッ」
iTrappedが、珍しく感情的に壁を叩いた。
彼のプライドもまた、粉々に砕かれていた。
「奴は、わざと逃がした」
「分かってる……」
Chanceの目が、熱に浮かされながらも絶望を映していた。
恐怖。
そして――自分が完全に管理されているという確信。
外ではもう足音はしない。
だが包囲網は、物理的なものから精神的なものへと変わっていた。
逃げ道はある。だが、時間はない。
ヒートの嵐は、もう目の前まで迫っていた。
夜が更けるほどに、熱は隠せなくなった。
廃診療所の小さな処置室。
Chanceは壁にもたれかかり、酸素を求める魚のように荒い呼吸を繰り返している。トレードマークのフェドラ帽は、無残に床に転がっていた。
「……まだ、いける」
「強がりだ」
iTrappedは扉の前に立ち、背中で外の気配を探っていた。
Mafiosoの包囲は解けたように見える。だが、あの男が獲物を完全に見逃すはずがない。どこかで息を潜め、Chanceが熟すのを待っている。
Chanceのシャツの襟元を握る指が、小刻みに震えている。汗が首筋を伝い、甘い蜜の匂いが部屋中に充満していく。
もう、誤魔化せる濃度ではない。
「追加投与する」
iTrappedは振り返らずに言った。
「やめろって言ってんだろ……」
「このままでは理性が飛ぶ」
「飛ばねえよ!」
Chanceが叫ぶが、その声は掠れて裏返った。
沈黙が落ちる。
iTrappedはゆっくりと振り返り、Chanceの惨状を直視した。
瞳が潤み、焦点が定まっていない。肩で息をするたびに、喉仏が艶めかしく動く。
「……ひどい有様だな」
「うるせえ」
Chanceは立ち上がろうとするが、足がもつれて床に崩れ落ちそうになる。
咄嗟にiTrappedが腕を掴み、抱き止めた。
触れた瞬間、空気が変わった。
「……っ、あ……」
Chanceの喉から、小さな甘い音が漏れた。
ただの接触。それだけで、電流が走ったように背筋が跳ねる。
iTrappedの指が、無意識に強くなった。彼自身もまた、濃厚なフェロモンに当てられ、呼吸を乱していた。
「影響が強い」
「何が……」
「お前の匂いだ」
淡々と告げる声に、ほんの少しだけ熱が混じる。
Chanceは挑発するように笑った。
「理性の塊みたいな顔して、効いてんのか?」
「効いている」
迷いなく答える。その正直さに、Chanceの表情が一瞬だけ揺れた。
iTrappedは腕を引き、Chanceを壁に押しつけた。逃げ道を塞ぐ角度。
「離せ……」
「離せば崩れる」
顔が近い。互いの吐息が混ざり合う距離。
「……俺に触れるなって言ったのは、お前だろ」
「状況が変わった」
低い声。
Chanceの背中には冷たい壁。前にはiTrappedの硬い体温。
「Mafiosoは『頂点で奪う』と言った。奴が来る前に、お前の状態を安定させる必要がある」
「安定……?」
iTrappedの指が、Chanceの汗ばんだ顎に触れる。今度は迷いがなかった。
「肌の接触はΩを落ち着かせる。たとえ相手が偽物でもな」
「疑似αごっこかよ」
「そうだ」
一瞬の静寂。
Chanceの視線が揺れる。強がりを保とうとするが、体内の熱がそれを溶かしていく。
「……なら、やってみろよ」
挑発。
それは、逃げ場のない誘いだった。
iTrappedの瞳が、わずかに細くなる。
「後悔するな」
「しねえよ」
その瞬間、唇が重なった。
深くはない。奪うような獣の口づけでもない。
だが、それは確実に選択を伴った接触だった。
Chanceの指がiTrappedのシャツを強く掴む。呼吸が乱れ、甘い匂いが爆発的に強くなる。
数秒。
永遠のような時間のあと、ゆっくりと唇が離れた。
Chanceは額をiTrappedの胸に押しつけたまま、小さく息を吐く。
「……クソ」
少しだけ、熱が引いている。完全ではない。だが、瞳に理性の光が戻っていた。
iTrappedの手が背に回る。抱きしめるでもなく、支える位置。
「これで数時間は持つ」
「利用してんじゃねえよ」
「お互い様だ」
静かなやり取り。
互いに「これは治療だ」と言い聞かせているが、その心臓は嘘をつけずに早鐘を打っていた。
だがその時――窓の外で、カチリと小さな音がした。
二人同時に顔を上げる。
赤いレーザーポインタの光点が、壁を横切った。
狙撃。
「伏せろ!」
次の瞬間、窓ガラスが砕け散った。
乾いた銃声。iTrappedがChanceを床に押し倒す。
外から複数の男たちの足音。そして、聞き慣れた低い声が響いた。
「待てと言ったはずだがな」
Mafioso。
扉が蹴破られる。
「我慢が利かなくなった」
その声音には、わずかな苛立ちと、濃い情欲の熱が混じっていた。
ヒートの匂いが、外まで届いていたのだ。
「捕らえろ」
部下が雪崩れ込む。iTrappedが応戦しようと銃を抜くが、数で押さえつけられる。
Chanceは立ち上がろうとするが、身体が言うことをきかない。
Mafiosoがゆっくりと室内へ入る。
その視線が、床に落ちたフェドラと、乱れた呼吸で重なり合っていた二人を捉えた。
「……なるほど」
低く、地を這うように笑う。
その目は笑っていない。
「先に触れたか」
空気が凍る。
王の所有物に手を出した罪人が見るような、絶対零度の視線。
「だが」
Mafiosoは一歩、近づく。
「番ではない」
断言。
首筋に噛み跡がないことを確認し、彼は嗜虐的に口角を上げた。
「奪える」
その一言が、室内を支配した。
iTrappedの拳が床に叩きつけられる。
Chanceの熱は、恐怖と興奮で再び跳ね上がる。
逃げ場はない。
今度は本当に、捕食の瞬間が迫っていた。
それは一瞬の出来事だった。
乾いた銃声。怒号。床に叩きつけられる衝撃。
iTrappedが応戦しようと銃を抜くより早く、数人の男たちが彼を取り押さえ、その腕を背後でねじ上げた。
同時に、Chanceの身体が宙に浮いた。
「離せ……ッ!」
暴れようとするが、ヒートの熱で力が入らない。小動物のように足をバタつかせることしかできない。
「丁重に扱え」
頭上からMafiosoの冷たい声が降ってくる。
「商品に傷をつけるな。価値が下がる」
その言葉は、暴力よりも残酷にChanceの尊厳を切り裂いた。
黒塗りの高級車に押し込まれる。ドアが重々しい音を立てて閉まり、エンジンが唸りを上げる。
走り去る車の窓から、視界の端でiTrappedと目が合った。
一瞬。
彼は何かを叫ぼうとしていたが、すぐに夜の闇と部下たちの影に飲み込まれていった。
残されたのは、敗北の味だけだった。
目が覚めた時、視界に広がっていたのは無機質な天井ではなかった。
重厚なシャンデリア。
背中には最高級の革張りソファの感触。足元には音を吸い込む分厚いカーペット。
ここは地下の牢獄ではない。
豪奢なペントハウス。
黄金で作られた、逃げ場のない檻だ。
手首に拘束具はない。だが、扉は外から施錠されている。
「……趣味悪ぃな」
声が酷く掠れていた。
ヒートは頂点に近い。身体の奥が甘く疼き、理性が泥のように溶け出している。抑制剤の効果は完全に切れていた。
ガチャリ、と重い金属音がした。
ドアが開く。
黒いコートを脱ぎ捨て、ベスト姿になったMafiosoが入ってきた。
広い部屋には二人きり。
「目覚めたか」
「……誘拐って言葉、知ってるか?」
「保護だ」
Mafiosoは即答し、サイドテーブルに水の入ったグラスを置いた。
「ヒート中のΩを野放しにする方が危険だ」
「俺は商品じゃねぇ……」
「そうだな。商品ではない」
Mafiosoはゆっくりと近づき、ソファの背に手をついてChanceを囲い込んだ。
「所有物だ」
その単語に、胸がざわつく。
怒りか、屈辱か。それとも――本能的な安堵か。
「ふざけんな、俺は誰のもんでも――」
言葉が途切れる。
強烈なαの匂い。
密閉された室内で、Mafiosoのフェロモンが暴力的と言えるほど濃密に漂っている。
逃げ場がない。酸素の代わりに支配を吸わされているようだ。
「……ッ、はぁ……」
Chanceの喉が鳴る。本能は「縋れ」と叫び、理性は「拒絶しろ」と喚く。その矛盾で身体が引き裂かれそうだ。
Mafiosoが、ゆっくりと革手袋を外した。
黒い革が指先から滑り落ち、素肌が露わになる。
その手が、Chanceの顎を持ち上げた。
熱い。
直に伝わる体温。これまでの手袋越しの管理とは違う、生々しい接触。
「俺は無理強いはしない」
意外な言葉だった。
MafiosoはChanceの潤んだ瞳を覗き込む。
「ただの性処理なら街娼を買う。……俺が欲しいのは『番』だ。心が壊れた人形と番う趣味はない」
「……番、だと?」
「そうだ。いずれ、お前がそうなる」
空気が止まる。
軽い遊びではない。囲うつもりでもない。
この男は本気だ。本気で、Chanceという存在を生涯縛り付けるつもりだ。
Chanceの心臓が早鐘を打つ。
身体が震える。熱が頂点に達し、膝から力が抜けた。
Mafiosoは覆いかぶさらない。ただ距離を保ったまま、テーブルの上のある物を目線で指した。
注射器と、小瓶。
強力な抑制剤だ。
「選べ」
低い声が、選択を迫る。
「今ここで俺を拒むなら、その抑制剤を打て。熱は引き、意識も戻るだろう。……だがそれは、勝負から降りるということだ」
「……逃げる選択、か」
「そうだ。俺の匂いに怯え、薬に逃げ込む臆病者として生きろ」
Mafiosoの瞳が、残酷な光を帯びる。
「だが、薬を打たなければ?」
「……どうなる」
「俺のものになる」
静かな宣言。
外は完全な静寂。この部屋だけが世界だった。
Chanceは歯を食いしばる。
注射器に手を伸ばせば、この苦しみから解放される。だがそれは、ギャンブラーとしての敗北を認めることだ。
かといって、打たなければ――この獣に食われる。
汗が首筋を伝う。
理性の限界。
Chanceの指先が、シーツを掴む。
「俺は……」
その瞬間。
ドアの向こう、廊下の奥で破裂音が響いた。
銃声だ。それも一発ではない。連続した発砲音と、男たちの怒号。
Mafiosoの目がわずかに細くなる。
「……チッ。しぶとい鼠め」
iTrappedだ。
Chanceの瞳が揺れる。
選択の時間が、強制的に延長された。
Mafiosoは舌打ちをし、ゆっくりと立ち上がる。ジャケットの内側から愛銃を抜いた。
「続きは後だ」
彼は扉へ向かい、振り返りざまに冷酷に言い放った。
「逃げられると思うな。お前のヒートはまだ終わらん。……ここで待っていろ」
バタン、とドアが閉まる。
鍵がかけられる音が響く。
Chanceはソファに沈み込んだまま、荒い息を吐いた。
選ばなかった。だが、拒みきれなかった。
熱はまだ消えない。
そして外では、助けに来たはずの銃声が、何故か死刑執行の足音のように近づいてきていた。
助けに来たはずの銃声が、なぜか死刑執行の足音のように近づいてきていた。
廊下の奥で火花が散り、遅れてけたたましい警報音が鳴り響く。
Chanceはソファの上で、獣のような荒い呼吸を繰り返していた。ヒートは頂点を越えかけている。自分の身体から立ち上る甘い蜜の匂いが、部屋の空気をドロドロに濁らせていた。
その時、重厚な扉が、蝶番ごと吹き飛ばされた。
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