――世界は、もう息をしていなかった。
風は止み、海は鏡のように沈黙している。
時間も、光も、すべてが止まった空間の中で、
ただ一つ、彼の心臓だけがかすかに鼓動を刻んでいた。
ルシエルはゆっくりと立ち上がる。
足元の灰が音もなく崩れ、空に舞う。
その灰のひとつひとつが、かつて彼が愛したものの欠片のように思えた。
「……結局、何も残らなかった。」
声は誰にも届かない。
けれど、彼の胸の奥で、微かな歌が響く。
それは――エリシアがかつて口ずさんだ祈り。
『夜は終わり、朝が来る。
闇は終わり、光が還る。
あなたが微笑む限り、私は消えない。』
ルシエルは空を見上げた。
そこには、暗黒の帳が広がり、星々はことごとく墜ちている。
ただひとつ――淡く光る明星が残っていた。
「……まだ、そこにいるのか。」
彼は微笑んだ。
その光を見つめながら、焼け焦げた翼を広げる。
もはや飛ぶことはできない。
けれど、心だけはまだ、天を憶えている。
彼はそっと右手を掲げた。
灰の中から、黒い羽が一枚、静かに舞い上がる。
それは彼女の羽――最後に残された記憶。
「エリシア……おまえがいない朝なんて、いらなかった。」
その囁きとともに、明星がひときわ強く輝く。
そして、夜空を切り裂くように流れ落ちていった。
まるで、光が自ら闇へ還るように。
まるで、“暁の明星”が、再び堕ちてゆくように。
――ルシエルの姿も、灰の中に溶けていった。
彼の頬を、一筋の涙が伝う。
それはもう、熱くも冷たくもない。
ただ、永遠の静寂を潤す一滴。
やがて、風が戻ってくる。
灰の海を撫でながら、どこからともなく、あの歌声を運んできた。
『夜は終わらない。
けれど、あなたがいる限り、
私は光であり続ける。』
その声に、彼は最後の微笑を浮かべた。
「……なら、もうそれでいい。」
明星が消えたあと、空は静まり返った。
しかし、その闇の底――
誰も知らぬ場所で、小さな光が再び瞬き始めていた。
それは、愛の残響。
神にも消せぬ、永遠の“暁”の予兆だった。
――“Morning never came.”
だが、彼の中では、永遠に朝が続いていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!