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突然の御前試合
翌朝、両親と兄、与作爺とお花と共に朝餉の膳を囲んだ。
今日、門を出たら、またいつ会えるか分からない。
皆黙々と箸を運んだ。与作爺などは目を赤くして洟を啜り上げていた。
水盃を交わして家を出る。皆が門の前で見送ってくれた。
登城すると、控えの間で暫く待たされた。奥女中が茶を持って来てからかれこれ一刻は経つ。
そろそろ足の痺れが限界だ。
廊下に足音がして右京の父、正木出雲が入って来た。眉間に皺を寄せて何やら困り顔だ。
「お奉行様、お久し振りで御座います」上座に着いた出雲に、志麻は頭を下げた。
「志麻、少々困った事になっての・・・」挨拶もそこそこに出雲が言った。
「困った事とは、なんでございましょう?」
「本日の殿への御目見え、趣向が変わった」
「え?」
「ただお言葉を賜るだけならばよかったのだが・・・」
「いったいどのように変わったのでございましょう?」
「御前試合だ」
「え?」
「今朝、殿が急に仰せい出されたのだ、草壁監物を倒した其方の腕が見たいと」
志麻は内心驚いたが、顔には出さず首肯した。
「仰せとあらば是非もない事」
「やるつもりか?」
「はい」
「ただこれは、佐幕派の陰謀の匂いがする。奴等、どうせ其方が佐幕派につく事は無いと見て、一気に始末をしようという腹だ。今のままであれば、殿を擁する佐幕派は安泰だからな」
「で、試合の相手は誰なのですか?」
「城下一の大道場、傳習館の浅田又兵衛」
浅田又兵衛は宝山流剣術を修め、自ら浅山宝山流と名乗ってこの伊勢の地で名を挙げた剣客で、蜂須賀半次郎の師でもある。
「なるほど・・・」
「浅田は品性は下劣なれど、腕はこの津藩中に並びなき豪の者。もし、お前が怪我をするような事があれば、今日の計画は不意になる。断っても良いのだぞ、儂がこの身に換えても殿をお諌めする」
「そんな事をすればお奉行の立場が悪くなるのではありませんか?」
「それは・・・」
「ご心配には及びません、私もそれなりに場数を踏んでおります。滅多に遅れを取ることはありません」
「右京も確かにそう申してはおったが・・・」
「ですから、御前試合の件はどうぞそのままに」
「そ、そうか。では、この件はその方に任せるとしよう・・・しかし、くれぐれも油断せぬように」出雲が立ち上がった。
志麻は、身の危険を犯して船の手配をしてくれた出雲に挨拶をしておく事にした。もしかしたらこれが最後になるかも知れない。
「お奉行様、色々とありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
「うむ、気をつけて行くのだぞ、世の中が落ち着いたらまた戻って来い」
奉行の後ろ姿に、志麻は黙って頭を下げた。
*******
警固の侍に案内されたのは、二の丸御殿の庭に設けられた試合場だった。
三方が幔幕で仕切られ、藩主は建物の中の座敷から御簾みす越しに試合を観られるようになっている。
東の床机に既に浅田が座っていた。志麻が入って行くと、一瞥をくれただけでそっぽを向いた。
まるで志麻の事など眼中に無いと言った態度だ。
志麻は西の床机に腰を下ろして、殿の御成を待った。
「支度を」
介添の侍が持ってきた襷を口の端に咥え、背中に回して肩で結ぶ。真っ白な鉢巻を額にキリリと締めた。
だが未だ得物は渡されていない。今時の御前試合に真剣や刃引きはあり得ない。ならば竹刀か木刀だが、竹刀ならば兎も角、木刀なら下手をすれば命に関わる。
「殿の御成ぃ!」小姓の声が廊下に響いた。
浅田と共に試合場の中央に進み出て、藩主の座すであろう座敷の御簾に向かって膝を折った。
座敷に入って来る人の気配があったが、御簾越しで顔は見えない。
「御前である、控えよ!」警固の侍が言った。
志麻は地面に手をついて頭を下げた。浅田は余裕を見せてか、ゆっくりと頭を下げる気配があった。
御簾の向こうから視線を感じたが、志麻に賜る筈のお言葉は無かった。
「始めよ」
低い藩主の声だった。
「はっ!」
警固の侍が別の侍に目配せすると、やっと得物を渡された。思った通り木刀である。これで敵の魂胆は読めた、ここで志麻を亡き者にするつもりだ。試合であれば誰も文句のつけようが無い。
志麻は覚悟を決めた。
立ち上がって浅田に対すると、不遜にも顔に含み笑いを浮かべている。女と思って侮っているのか・・・いや、この男は誰に対してもこのような態度を崩さぬのに違いない。それがこの男の矜持なのだろう。
不思議と心が澄んできて、自然に笑みが溢れた。こんな小者に負けたら、今まで倒してきた相手に申し訳が無い。
「何が可笑しい?」浅田が木刀を下げたまま訊いた。
志麻は、笑みを浮かべたまま答えた。
「自分が虎だと思っている勘違い男が面白かっただけだ」
「なに?」浅田が木刀の柄に手をかけた。
「殿の御前であるぞ、見苦しい振る舞いは慎め!」警固の侍が二人の間に割って入った。
志麻は黙って頭を下げた。浅田はそっぽを向いている。
「某それがしは大番組頭、酒井雪之丞様配下、三上三郎亮である。この試合の行司を殿より仰せつけられた。双方依存はないな?」
「よろしくお願いいたします」
「ふん、勝手にしろ」
浅田の態度に三上はムッとしたようだが、これ以上開始を遅らせられないと判断したようだ。
「これより浅田又兵衛及び黒霧志麻による御前試合を行う」数歩後退るとサッと軍配を掲げた。「始め!」
礼もそこそこに、浅田が地を蹴った。
抜き打ちに木剣を叩き込んで来る。
咄嗟に志麻も抜き合わせたので、宙で互いの木剣が絡み合い、そのまま鍔迫り合いに縺れ込んだ。
浅田は志麻よりも頭ひとつ分上背があるため、志麻を押し潰しにかかる。
志麻も必死で押し返そうとするが膂力の差は如何ともし難い。
「小娘、覚悟は良いか?」
浅田の顔が迫ってきた。
「くっ!」
ついに志麻の腰が砕けた。
倒れると見せかけ、浅田の木刀の柄を握って体重を預ける。
と、浅田が弧を描いて志麻の上を飛んだ。
素早く立ち上がり追い打ちをかけようとしたが、浅田も受け身を取って立っていた。
「少しはできるようだな」浅田が北叟笑む。「だが、今度は手加減はせん」
「望むところ!」
志麻は左足を踏み出し、剣を顔の右側に立てるように引き上げた。
諸流で言う五行の構え中、八双の構え。
浅田は構も取らず剣を下げて立っているだけだが、どこにも隙が無かった。どうやら、あの傲慢さも根拠のないものでは無さそうだ。
志麻は浅田の左へ左へと摺足を運ぶ。浅田はそれに合わせて躰の向きを変えながらゆっくりと剣を上げる。
志麻が止まった時、浅田の剣先は志麻の喉に狙いを定めていた。
「突きが・・・来る!」
キェー!
裂帛の気合いと共に真っ直ぐに剣が伸びてくる。
「止めなければ!」
志麻は己の剣を浅田の剣に被せるように前に出る。それを読んでいたかのように、浅田の剣が翻った。
右の首筋に太刀風を感じ、自ら前に飛んで転がった。
それを追って、浅田の剣が切先を下にして落ちてきた。
身を捻って交わすと試合場の土にザクリ!と突き立った。さらに剣を引き上げ二度三度と剣を突き下ろして来る。その度に志麻はゴロゴロと転がって紙一重のところで躱し続ける。
もう志麻の顔も衣服も砂まみれだ。
「やめぃ!」
行司の三上の声がした。
見るといつの間にか幕の下を潜って場外に出ていた。
「チッ!」浅田の舌打ちが聞こえた。
「場内に戻りませぃ!」
志麻は立ち上がり幕を迂回して場内に戻った。
「命拾いしたな」
浅田の声が聞こえたが、志麻は呼吸をするのがやっとで言葉を返す事も出来ない。
ハァハァハァ・・・己の呼吸音だけがやけに大きく耳に響く。
こんな時鬼神丸なら・・・
否!違う・・・しっかりしろ、志麻。鬼神丸が自らを折ってまで私に教えようとした事は何だ?
私がここで負けたら、私を逃がそうとしてくれた人達の苦労はどうなる?
弱気になりそうな心を押さえ付けて浅田を睨んだ。
『考えるな・・・打とうと思う前に打て・・・突こうと思う前に突け・・・離脱して反転して・・・木の葉のように舞い踊りながら・・・息を止めて吸って吐いて・・・すべては自然に・・・まかせろ・・・』
「え・・・」
鬼神丸の声が聞こえた気がした。志麻はハッと息を呑んだ。
そうか、私は浅田の動きを見て・・・考えていた?
「・・・も良いか?」
「え?」
「試合を続けても良いかと訊いておる。敵わぬと思うなら棄権しても良いのだぞ」三上が志麻に問うていた。
「大丈夫です、やらせて下さい」
志麻は三上に頭を下げた。
「分かった・・・」
三上は二人を試合場の中央に立たせると、再び軍配を返した。
「続けて・・・始めっ!」
三上の声が終わらぬうち、今度は志麻が地を蹴った。
「ふっ、小癪な!」
浅田は志麻を迎え撃つため正眼に構えを取った。
その瞬間、志麻が身を沈めた。
「なにっ!」
慌てて剣尖を下げたが間に合わなかった。
地面を擦るように移動した志麻の剣が浅田の顎を突き上げるように浮き上がって来た。
思わず仰け反って態勢を崩す。
苦し紛れに振り下ろした剣の下を、すり抜けるようにして志麻が後方に抜けた。
躰ごと振り向いた時、鳩尾を抉えぐるような衝撃があった。
「グェ!」
地面に這いつくばって込み上げる吐き気に耐える。
「それまで!」
三上の声に動転した。
「ま、まだだ・・・」
「見苦しいぞ浅田!」三上が叱咤した。「御前であるぞ、控えおろう!」
「くっ・・・」
浅田がガクリと項垂れるのを見て、三上が高らかに宣言する。
「勝負あり、この勝負、黒霧志麻の勝ちとする!」
志麻が木剣を納めて片膝をついた。
浅田がなんとか己の足で退場すると、御簾の中で人の動く気配がした。
「御簾を上げよ」
お付きの侍によって、スルスルと御簾が巻き取られて行く。やがて、藩主の顔が現れた。
慌てて志麻は顔を伏せたが、チラリと見えた尊顔は深い憂いを湛えていた。
「面をあげよ」頭の上から声が降りて来た。
「はっ」
志麻は僅かに顎を浮かせた。
「かまわぬ、もそっと面を上げて顔を見せよ」
藩主の命とあらば仕方がない。志麻は思い切って背筋をたて、正面から藩主を見た。
白い眉の下から、老獪な瞳が志麻を見下ろしている。
「ふむ、良い面構えじゃ・・・ただいまの勝負、見事であった」
「はっ、恐悦至極に存じます」
「まさかとは思っておったが、女の身でありながら、見事仇討ちを果たしたと言うのは本当だったようじゃな?」
「は、神仏のご加護をもちまして・・・」
「昨今、夷狄の脅威に腰の座らぬ侍の多い中、其方の偉業は誠に天晴れである。以後、何か困った事があれば、この高猷たかゆきに何なりと申すが良いぞ」
「はっ、ありがたき幸せにござりまする」
高猷が目配せすると、またスルスルと御簾が下されて、座を立つ気配がした。
藩主の言葉をどこまで信用して良いか分からない。
だが、短いが言葉を賜ったのだ。これで暫くは佐幕派も表立った行動は控えるかも知れない。
やはり、城下を脱するのは今日しか無い。
「志麻・・・」
呼ばれて振り返ると、奉行の正木出雲が立っていた。目で促されて着いて行くと、正木の執務室に連れて行かれた。人払いをした部屋で正木と向かい合って座った。
「見事であった。しかし、まさかあの浅田又兵衛を倒すとは・・・」
「危のうございました、天が我に味方したとしか思えません」
「ふむ、しかし良かった」
「お奉行様のお陰です」
「そんな事は無い、お主の実力であろう・・・しかし、のんびりとはしておれんぞ」
「何故でございます?」
「蜂須賀の配下が慌てて城を飛び出して行った。おそらく浅田の道場に敗戦を報告に行かせたのであろう」
「では・・・」
「弟子たちが師の仇討ちに動くやもしれん」
「私はどうすれば?」
「大手門から出るのは危険だ。城の西側にある埋門に船を用意してある、堀を渡って城下に入り、裏道を使って伊予町に行け。後は手筈通りに河野屋で旅支度を整え伊勢に向かうのだ」
「色々と造作をお掛け致します。なんとお礼申し上げて良いものやら・・・」
「なに、儂と仁左衛門の仲じゃ、それに右京は・・・」
「え?」
「いや、これは口が滑ったな。どうやら右京はお主の事を好いているらしいのだ。どうか右京の意を汲んで無事に江戸に辿り着いてくれ」
「右京さんが・・・まさか」
「ま、それはいずれ分かる事。今は一刻も早く城を出る事だ」
「は、はい」
「埋門までは儂の配下の者に案内させる」
そう言うと正木が二度手を打った。襖を開けて入ってきた若侍に目配せすると、軽く頷いて立ち上がった。
「この者について行け。道中くれぐれも気を付けてな」
「お世話になりました。お奉行様もどうぞご無事で」
「さて、これから我が藩がどう言う運命を辿るのか、神のみぞ知る・・・と言ったところかの。さ、早う行け」
「おさらばで御座います」
志麻は深々と頭を下げて、若侍の後に続いて座敷を出て行った。
「天運を祈る・・・」
正木が志麻の背中に向けて呟いた。