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目の前の現実が俄には受け容れがたくてスローモーションの速さで瞬きをすると、瞼が閉ざされた瞬間に不明瞭な声が耳に飛び込んで来て、現実を認めたくない思いを振り切るように瞼を持ち上げると、見慣れている筈の広い大きな背中が楽しそうに揺れていた。

 「もう終わりか?ほら、寝てんじゃねぇよ。起きろよ」

 いつもと全く同じ子どものような陽気な楽しげな声を投げ掛けた恋人が、血反吐に汚れたブーツに包まれた足を一振りし、その足下に横たわる男と傍で震える少女を見つめ、一見すれば場違いな笑みを浮かべて立っていた。

 いつもと同じなのだ。子どもっぽい、茶目っ気や悪戯っ気を前面に押しだした笑みを浮かべているのだ。

 なのに、今感じているこの寒さは一体なんだろうか。

 雪がもたらす寒さなどとは比べられない、骨の髄まで凍り付きそうなそれをもたらすものが何であるのかを察した瞬間、戦慄を伴って何かが背筋を駆け上り、小刻みの震えとなって全身へと伝播していく。

 いつも笑顔に包まれ子供っぽさで覆い隠され、恋人の奥底で息を潜めていたモノが覚醒したのだと、自分の前ではその片鱗しか感じさせることの無かった狂暴な獣が牙を剥いたのだと気付いて歯を噛み締める。

 過去にも直結しそうな現実を目の当たりにした脳味噌は一切の動きを止めてしまったようで、思考を司る脳が動きを止めた事で理性という名の感情に押さえられている本能が彼の中で目を覚まし、同時に感じ取った恐怖に身体を震えさせる。 

 目の前での暴力行為など見たくなかった。例えそれが愛する人であったとしても、いや、愛する人だからこそ見たくは無かった。

 暴力を否定する心が悲鳴を上げそうになるが、脅えながらも震える心の奥底でただ一つの消えない想いが顔を出した事に気付いて身を折った彼は、くぐもった悲鳴と涙混じりの甲高い制止の声、それに重なる楽しげな笑い声からどうしようもない思いを感じ取り、意を決したように手を伸ばして目の前にあるジーンズを握りしめる。

 「どうした?」

 「もう・・・良い・・・っ!もう、止めろ・・・っ」

 「へ?まだこれからだってー」

 つまらないことを言うなと、まるで今楽しんでいるゲームを中断しろと言われたことに不満を訴える子どもの口調で陽気に笑われてしまい、言動のギャップに顔色を無くした彼、ウーヴェは、白い髪を左右に振って言葉ではなく態度でも止めろと叫ぶが、目の前にしゃがみ込んだ恋人の目を真正面から見た瞬間、脳裏に忘れることの出来ない光景が一瞬にして浮かび上がる。

 「────っ・・・ひ・・・っ!!」

 無意識の呼吸音が流れ出し、己でも抑えることの出来ない震えが全身を襲った為に腕をきつく抱き締めて身体を小さく小さく丸める。

 見たくなかった。愛する人が己に消えない傷を負わせ、その後の人生を決定づけた男と同じ目の色をした姿など、見たくはなかった。

 「・・・・・・お前は何も見る必要はねぇよ」

 いつも以上に優しい声とキスが頭上に降ってきたかと思うと、ふわりとブルゾンが身体に覆い被せられる感触がし、顔を上げようとした時、耳を塞いでしまいたくなる悲鳴が建物の壁と壁に挟まれた路地に反響する。

 「うるせぇなぁ。こいつの何処が良いんだ?」

 一発二発殴ったぐらいで悲鳴を上げるようなタマなし野郎の何処が良いと笑いかけ、ああ、もしかしてあっちが最高なのかと、己の思いつきが最高に楽しいと言いたげな声でげらげらと笑うリオンの様子を聴覚だけで捉えていたウーヴェは、意識が過去に向かいそうになるのを何とか断ち切ろうと左足に意識を集中させる。

 あの日、一人にしないとの誓いと共に填められたリザードのリング。

 それを填めたのは何も誰も代わりなど出来ない、己の総てを賭けても良いとすら言える最愛の男だった。だがその男は今、ロクに抵抗も出来ない者に対して笑いながら彼が最も忌み嫌う暴力を振るっているのだ。

 ただ、どれ程狂暴な顔を持ち、それをこうして目の当たりにさせられたとしても、己を愛しまた己も愛している男に違いなかった。

 過去の恐怖に直結するものを目の当たりにして硬直していた思考回路が、愛すべき笑顔を思い出した瞬間にスイッチが入ったように動き出した途端、それに弾かれた腕がブルゾンをはね除け、無我夢中で目の前にある布地を掴んで見えなくても分かる身体へと腕を回す。

 「危ねぇから下がってろって。な?」

 「止めろ、リオン!もう良い・・・っ!」

 「んー、だからさっきも言っただろ?冗談じゃ・・・」

 冗談じゃないと、怒りの矛先を此方に向けたような恋人の顔を今度こそ真正面から見つめた彼は、小刻みに震える腕を叱咤しつついつものようにその身体を抱き締める。

 「もう良い、────リーオ」

 もうそんな顔で怒りを表さなくても良いと間近にある耳に囁くと、ここが何処であるのかも忘れたように顔を擦り寄せてくすんだ金髪に口付ける。

 「もう・・・良いんだ、リオン・・・もう止めろ」

 深い場所で眠っていた感情が狂暴性を纏って咆哮を挙げる様を感じ取った心が身体を突き動かし、ただ一心に抱き寄せた恋人にもう良いと何度も告げると、背中をいつもと同じ強さと温もりが抱きしめるが、直後に聞くに堪えない悲鳴も響き渡る。

 「リオン!」

 「良かったなぁ。こいつが止めなきゃ病院でお泊まりだぜ」

 堪えきれない怒りを双眸に湛えた顔で吐き捨て、痛みに震える男の髪を再度鷲掴みにして血反吐に汚れた顔を上げさせると、脅えきった目を覗き込んで唇の両端を持ち上げる。

 「バカにしたホモ野郎に助けられた、かぁ・・・。じゃあお前はそれ以下だな!」

 今縮んでいるタマなんか必要ないだろう。いっその事竿ごと切り落として豚にでも食わせろよ。

 ウーヴェが耳を塞ぎたくなるような言葉を吐き捨てて笑い飛ばしながら立ち上がったリオンは、心と身体の両方に恐怖を刻み込むように頭を軽く蹴り飛ばして踏み付け、今度は少女の長い髪を掴んで引きずり起こすと手の甲で軽く頬を叩き、その衝撃に背後の壁に肩をぶつけた少女がずるずると地面に座り込んでしまうのを醒めた目つきでただ見つめる。

 「・・・やめ・・・っ・・・お願いしま・・・っ!!」

 「ごめ・・・なさい・・・っ、も・・・やめて・・・ぇ・・・っ!!」

 若い男の悲鳴混じりの懇願と少女の涙声にも眉一つ動かさなかったリオンだが、しがみついたウーヴェがお願いだからもう止めてくれと、消え入りそうな声で懇願した事に気付いて舌打ちをする。

 震える身体をしっかりと抱き寄せ、白い髪に口を寄せて安堵させる言葉を囁いて足を上げると、ウーヴェの肩越しに見えた先で腰を抜かしたように座り込んでいる男に気付いて軽く口笛を吹く。

 「何だあんた、まだいたのか?」

 「・・・う・・・あ、あ、ああ・・・っ」

 ウーヴェをナンパしようとしていた男がリオンを見上げて口をぱくぱくと開閉させながら後退った為、別に何もあんたを殴るつもりはないと、一部始終を見ていた者からすれば俄には信じられない言葉を告げたリオンは、自分の腰に腕を回してしがみつくウーヴェの髪に再度キスをしてブルゾンを被せると、結果としては一方的なものになった暴行の現場から立ち去ろうとする。

 「あ、そうだっ。もしこいつが誰かに襲われたり、俺にやられたーって話が広がれば、知り合いの肉屋に連絡するからなー」

 食べ頃の若い雌豚が一匹と何とか役に立ちそうな雄豚が二匹いるから引き取りに来てくれと伝えるから。

 路地の奥で震えて小さくなる男女とそもそもの発端となったナンパ男の顔を順に見下ろしたリオンがいつもの笑顔で恫喝すると、一も二もなく三人の頭が何度も上下する。

 「言い、ません・・・っ!」

 「話が通じる良い子で良かったよ。チャオ」

 あははははとさも楽しそうに笑いひらひらと手を振ったリオンは、ウーヴェの身体をしっかりと抱き寄せ、足元に落ちていたオーナメントを乱雑に袋に戻してそれをウーヴェの片手に持たせるとその場から立ち去る。

 残されたナンパ男は腰が抜けて立ち上がることが出来ず、また若い男と少女は痛みと恐怖から涙と鼻水に汚れた顔を抱えてその場に蹲ったまま身動きが取れないのだった。



 ぐったりと助手席に座るウーヴェに買ったものを預け、リオンはスパイダーを安全速度で走らせるが、車内に響くのは低い心地好いエンジン音だけだった。

 その沈黙に耐えるのも限界が近付いたのか、リオンがウーヴェのアパートの一区画手前で車を停める。

 「オーヴェ」

 溜息混じりに名を呼んで身体ごと振り向いたリオンは、ウーヴェの肩がびくりと揺れたことに気付いて苦笑し、怖がらせてしまった事を詫びる。

 「ごめんな、オーヴェ」

 暴力が嫌いなお前の前で暴力をふるったと素直に詫びたリオンだが、ウーヴェが顔だけを向けた事に目を細め、何を言おうとしているのかを察して口を閉ざす。

 「どうして・・・あそこまでする必要がある・・・?」

 まだまだ子どものようなあの二人に対し、謝っているにも関わらずにどうしてその頭を踏みつけられるんだと、声に滲む嫌悪と悲哀を感じ取ったリオンが口を開こうとするが、そのまま何も言わずに口を閉ざして唇を噛み締める。

 「どうして・・・笑いながら人を殴れるんだ・・・・・・?」

 ウーヴェの悲しみに満ちた碧の目に真っ直ぐに見つめられてしまい、言いたいことの一割も言えないもどかしさに腿の上で拳を握ったリオンは、何故笑っていられるんだと尚も疑問を口にするウーヴェを沈黙させるように再び車を走らせ、アパートの地下駐車場へとスパイダーを滑り込ませる。

 「リオン・・・っ!」

 何故だと、目と言葉に力を込めて名を呼んだウーヴェの頭を抱き寄せたリオンは、触れるだけのキスを唇に残して無言のまま車から降り立つ。

 「リオン!」

 自分の行動を正当化することも弁解することもなく背中を向けたリオンを、同じく車から降りながら呼び止めたウーヴェだが、どれだけ名を呼んでも振り返ることはなく、リオンはブルゾンも着ずに雪の降る街へと出て行ってしまう。

 その後ろ姿を呆然と見送ったウーヴェはスパイダーに背中を預けるが、そのままその場に座り込んでしまい、視界に入った袋からこぼれ落ちたオーナメントが駐車場の明かりを弾いている事に気付いてそっと手に取って唇を噛み締める。

 二人でクリスマスツリーのオーナメントを買い、家でゆっくりとサッカーの試合を見る約束だったのに、何故こんな事になってしまったのか。

 次から次へと疑問と後悔が脳裏に浮かんでは消えていくが、考え込んでいる場合ではない事を思い出し、雪が降る外に上着も着ずに出て行ったリオンをとにかく呼び戻す為に連絡を取ろうと携帯を取り出すが、いくら呼び出してもリオンの陽気な声は聞こえて来なかった。

 絶望的な思いに囚われて頭を抱え込み、きつくきつく目を閉じたウーヴェだったが、程なくしてのろのろと足下に散らばるオーナメントを袋に戻してエレベーターへ乗り込むと、自宅のドアを力なく開けるが、目の当たりにした暴力の一部始終と過去に我が身に起きたそれが混ざり合って誰のものかも分からない悲鳴が脳裏に響き渡った為、掻き消すようにうるさいと叫んでその場に座り込む。

 「うる・・・さ・・・っ!!」

 過去の事件で己が受けた痛みがあるが、それを与えた男と同じような顔で笑いながら殴るリオンの顔がこびり付いて消え去らなかった。

 己の恋人が笑顔で人を殴ることの出来る人間だと、自分を誘拐し、解放するまでの間、人として扱うことの無かったあの男達と同じだとは思いたくなかった。

 その思いが脳裏に浮かんだ直後、何か途轍もなく大切なものを何処かに置き去りにしたような感覚に襲われる。

 忘れてはいけないものを忘れている、そんな感覚と暴力を怖れる過去の幼い己が入り混じって頭が混乱し、呼吸困難に陥りそうになる。

 何を忘れているのかも定かではないものを思い出す苦しみを味わいながら必至に思考回路を働かせるが、それを邪魔するように過去とつい先程見た光景が明滅する光の中で浮かんでは消えていく。

 そんなものが見たいのではない、もっと大切な何かを掴みたいのだと、脳味噌を掻きむしりたい思いで白い髪に両手を突っ込んで髪を握りしめる。

 脳裏では笑顔を浮かべたまま男を殴るリオンが浮かんでいたが、その目を見た瞬間、一瞬にして脳裏を覆っていた靄のようなものが晴れ渡り、探し求めていたものが唐突に、だが間違い無くずっとその場にあった事を示す様に目の前に現れる。

 それは、総ての感情を笑顔で覆い隠したリオンの横顔だった。

 幼い頃は全く笑わない子供だったと自身で告白し、学校に上がる頃に生き残る為の処世術を身に着けたとも教えられたが、その処世術こそ笑顔であった。

 何故その術を手に入れなければならなかったのかを思い出したウーヴェは、聞かされていた過去と決して教えられることのない過去から導き出された痛みに目を瞠る。

 あの時、諦め以外の感情を総て失った自分とは逆に、恋人は全ての思いを笑顔の中に押し包んでいたのだ。

 その事にやっと思い至った時、己が発した言葉が持つ重さ、恋人に与えたであろう痛みに打ち拉がれそうになる。

 「・・・・・・ぁ・・・っ・・・」

 どうして暴力をふるうのか、笑顔で人を殴ることが出来るのかと問いかけてリオンを詰ったが、その前に伝えるべきものがある筈だった。

 それを思い出したウーヴェが奥歯を噛み締めながら立ち上がり、壁にもたれ掛かって高い天井を仰ぐ。

 あの時肌で感じた、恋人の奥深くからひっそりと顔を出した深い悲しみ。

 その悲しみを抱えた彼をいつも抱きしめてやりたいと思っていた。なのに、見せつけられた光景が過去と混ざり合ってその思いが掻き消されてしまったのだ。

 そして、何故あのような行動に出たのかをも理解する。

 心ない言葉を吐き、その上暴力で傷付けようとする者から守るために拳を振り上げたのだと気付いて目を瞠ったウーヴェは、携帯を探って震える手で取り出すと、再度リオンに繋がってくれと願いつつ携帯を鳴らす。

 どうか、どうか出てくれと神にも祈るような思いできつく目を閉じ、コールを数えてみるがやはり先程と同じように陽気な声は聞こえて来なかった。

 本来ならば真っ先に伝えなければならなかった言葉の代わりに、何故と詰った自分が許せないのだろうと自嘲に肩を揺らしてベッドルームに向かったウーヴェの足元、玄関ポーチの仄かな照明を受けて寂しそうに光るオーナメント達が散らばっているのだった。



 翌朝、何時かのように夜明けを迎えたウーヴェは、枕元に置いていた携帯に万が一の望みを掛けてディスプレイを見るが、うとうととした時に感じた着信音はやはり夢の中でだけだった様で、現実には一度も鳴っておらず、恋人からのメールが届いている事を示すアイコンすら出ていなかった。

 昨夜、言い訳をする事も己の行動を正当化することもなく無言で背中を向けてしまった恋人にまずは謝罪をしたいとの思いから何度か携帯を鳴らそうとしたのだが、昨日のように電話に出てくれない可能性に気付いては押し止めるを繰り返し、結局一度も電話が出来ないでいた。

 いい歳をした大人なのだ、一夜を明かす場所ぐらいは持っているだろうとも思うが、つい保護者になったような気分に陥ってしまうのだ。そして、こんな時には誰に連絡をすればいいのかも全く分からず、自分は今まで恋人の何を見てきたのだと自嘲してしまう。

 交友関係で知っていると言えば職場の面々だが、その個々人の連絡先を知っているのかと言えば誰も知らず、また実家とも言える孤児院で親代わりに面倒を見ていたマザー・カタリーナやシスター達にも連絡する術を持たなかった。

 こんな事で良く恋人だの何だのと言えるものだと自嘲を深め、昨日彼に告げた言葉が取り返しのつかない事になったのではないかとの危惧を覚え、凍り付いた手で心臓を鷲掴みにされたような痛みに顔を顰めながらも、今日も自分を待つ患者がいる事を思い出して鈍い動きでベッドから抜け出す。

 気分が滅入っていても毎日の習慣は止められず、シャワーを浴びて身支度を粗方整えてコーヒーの準備をする為にベッドルームを出た時、廊下の先に繋がる玄関ポーチに散乱するオーナメントがそのままである事に気付いて小走りに駆け寄り、同じく放置してあった袋に詰めて拾い上げる。

 せっかく二人でお気に入りのオーナメントを見つけて買ってきたのに、本来の役目であるツリーに飾る前に何度も落ちた為に彼方此方に傷が出来ていた。

 飾られる前に傷付いたそれが痛々しくて、袋を小脇に抱えてキッチンへ向かおうとしたウーヴェの耳が微かな物音を捉え、音に従うように顔を振り向けたのは玄関のドアだった。

 訝りながらドアを開けて左右を見回すと、昨日は存在しなかった古びているが乗り手の愛情が伝わるような手入れがされた自転車が壁に立て掛けてあった。

 「!!」

 この自転車の持ち主をウーヴェは当然ながら良く知っていて、これがここにある訳を探っていくと、昨夜から今朝の間にここを訪れたと言う明白すぎる回答に辿り着く。

 その時、何気なく顔を上げて正面に見えるエレベーターの表示灯を見た彼は、3つある内の一つだけが今まさに降りていこうとしている事に気付き、非常階段へと走り出す。

 もしもこの自転車がたった今置かれたものならばまだ間に合うかも知れなかった。

 サボサンダルが階段を駆け下りる邪魔になっている事に躊躇うことなくサンダルを脱ぎ捨てたウーヴェは、そのまま置き去りにして階段を駆け下りる。

 コンクリートの非常階段は足の裏に冬の冷たさを伝えてくるが、昨夜から心臓を凍り付かせようとしている冷たい痛みに比べればどうという事は無かった。

 この家に引っ越してきてから初めてとなる非常階段を全速力で駆け下りるという、以前の彼からすれば信じられない事を行いながら何とかフロアに辿り着き、重い木の扉の間に見える背中に気付いて息つく暇もなく裸足のままフロアを駆け抜ける。

 「リオン!!」

 ウーヴェの姿に朝の挨拶をしようと顔を向けた警備員が、いつもとは全く様子の違う彼の姿に飛び上がりそうなほど驚き、その顔のままじっと見つめてくるのも構わずにアパートから飛び出すと、降り始めた雪の中に求める背中を探すが、ドアの隙間に見えた金髪はもう見えず、アパートの前の自転車道を走る通りすがりの人や歩行者から奇異の目で見られてしまう。

 アパートの扉に嵌められている金属の装飾に映るドレスシャツにガウンを羽織っただけの己の姿を目の当たりにし、確かに通行人に奇異の目で見られても仕方のない姿だと認識した彼は、白い前髪を掻き上げて自嘲の笑みを浮かべると、何事かを気にしつつも仕事だと言い聞かせるように口を閉ざす警備員には目もくれずにドアを潜り、さっきは駆け下りた非常階段を一段ずつゆっくりと登っていく。

 やはりもう顔も見たくないのだろうか。それ程許せないのだろうか。

 こんな姿を他人に見せてまでもその背中を追い掛けてしまったが、感じたのは羞恥から来る悔しさなどではなく、もう逢えないかも知れないと言う計り知れない喪失感だった。

 恋人の存在が無くてはならないものだという事に改めて気付き、奥歯を噛みしめる。

 その掛け替えのない恋人に、昨夜己は何と言ったのか。

 自分といる時は多弁な恋人が弁解らしい事を一言も告げずに姿を消し、今またいつ訪れたのかは不明だが、大切に乗っているはずの自転車を玄関先に残して行ったのだ。

 自転車を残して行った理由は推測するしかないが、やはり顔を見たくないのだろうと自嘲を深めつつ脱ぎ捨てたサボサンダルを力なく拾い上げ、そろそろ出勤の支度をしなければ遅刻をする時間だと気付き、気分を切り替えるように家に戻って身支度を整える。

 再度姿を見せた彼の顔には自嘲の色も恋人を思う表情も浮かんではいなかったが、眼鏡の下のターコイズだけは悲しみに沈んでいるのだった。

 

 降り出した雪はどうやら本格的なものになりそうで、愛車で出勤する彼の視界を白く染め始めていた。



Über das glückliche Leben.

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