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今朝、己でも理由の分からない思いから、古びているが愛情だけは精一杯掛けている自転車を恋人の家に置いてきたリオンは、朝と同じように雪が降り始めた道を肩を落としながら歩いていた。
昨夜、ウーヴェのアパートを飛び出した後は自宅に帰ったのだが、ムシャクシャした気持ちと自己嫌悪から寝る事が出来ず、結局ホームのドアを叩いたのだ。
いついかなる時も黙って笑顔で受け入れてくれるマザー・カタリーナに謝罪をしたリオンは、何事も許してくれそうな声音に誘われて事の顛末を話したのだが、当然ながら自分が二人の若いカップルを叩きのめした事に対しては、彼女に余計な心配を掛けさせたくないという一心から控え目に事情を話した。
だが悪い事というのはあっという間に何処からか耳に入るものらしく、時間で言えば数時間前の出来事なのに、リオンが若い二人をちょっと痛い目に遭わせたと告げた直後にマザー・カタリーナの眉が寄せられ、事情を話し終えた時にはその目はきつく閉ざされて痛ましそうな表情を浮かべてしまっていた。
母親代わりの女性のその表情に息を呑んだリオンが何かに気付いた様に目を瞠ると同時にキッチンから逃げ出そうと立ち上がるが、その背中に沈痛な、だがいつも優しさに満ちた声が掛けられ、出て行こうとした足を止めさせる。
『どれ程悲しくても腹立たしくても手を出しては駄目だと、今まであなたに伝えましたね?』
マザー・カタリーナの声に背中を向けたまま無言で頷いたリオンは、大きな溜息を吐かれて目を瞠ったまま振り返り、視線の先で手を組んで一心に祈る彼女の姿を発見すると、床の上に胡座をかいてふて腐れたように座り込んでしまう。
『・・・だってさ・・・あいつ、オーヴェの事をバカにした』
深く傷付いた心が生きたい思いを遺したものをからかった事だけは許せないと、足首を掴んで身体を揺さ振りながら口を尖らせる姿は子供の時と全く変わらないもので、マザー・カタリーナが思わず懐かしさに目元を緩めるが、あんなに怯えるまでする必要はないでしょうと諭すように告げられてリオンがぽかんと口を開ける。
『マザー、それ、誰から聞いた!?』
『泣きながら二人でここにやって来ました。傷の手当てをして、今はビルギッタが傍についています』
『何であいつらがここに来るんだよ!!』
『一月程前でしょうか。あの子が彼氏と一緒に来るようになったのですよ』
どちらの親も放任主義という名の下の育児放棄をしていて、物心着いた頃から彼方此方の施設の世話になっていたが、問題を起こして飛び出したところが多くて今更帰ることなど出来ない為に縋る思いでここにやってきたと教えられて頭を抱えこむ。
『シャイセ!!』
ぎりぎりと歯を噛みしめながら悔しさに拳を握ったリオンの前、マザー・カタリーナが静かにしゃがみ込んで顔を上げさせる。
『どうしてあのような事をしたのです?』
『さっきも言っただろ!?オーヴェをバカにした!!』
自分と似たような境遇の二人だが、それだからこそ人を外見で判断して嘲笑する事など許せないと叫んだリオンにゆっくりと首を振ったマザー・カタリーナは、仕方がないと言いたげな溜息を零してその場に膝を着く。
『あなたは昔から自分の為よりもゼップの為、他の兄弟たちの為に手を挙げていましたが・・・』
自分と比べれば弱い所を持つ友人を、姉のような少女を蔑み貶した存在を許せるはずが無く、そうと気付いた瞬間に相手に拳を振り上げてきたのだ。
リオンが自ら手を挙げるのは、己の大切な友人や家族同然のものの為だった。
それを他の誰よりも知っている彼女は、安堵の溜息を零して立ち上がる。
『その頃から本当に変わっていないのですね、リオン』
それが悲しくもありまた嬉しくもあると複雑な思いを込めて笑みを湛え、俯くくすんだ金髪をさらりと撫でて顔を上げさせる。
『リオン・フーベルト。顔を上げなさい。あなたは信じた道を行けばいいのですよ』
あなたの優しさを私はよく知っているが、あなたが愛する人もどうかあなたの心を理解してくれますように。そして、例え愛する人に恐れられたとしても、その人と分かり合う努力を忘れないようにしなさい。
暴力はいけない事だが、その事で愛する人と喧嘩をしたままでは駄目ですよと、いつも変わらない優しさで受け止めて見守ってくれる彼女の言葉にリオンの頭がもう一度下がるが、次いで上がった時には己の腕の中にすっぽりと収まる様な小さな身体を抱きしめていた。
『・・・・・・ごめん、マザー。あの二人に対して・・・やり過ぎた』
漸く己の行動を反省したリオンの言葉に安堵の溜息を零したマザー・カタリーナは、私にではなく二人に直接謝りなさいと、幼い頃から比べれば遙かに広く大きくなった背中を何度も撫でて大きな息子を優しく諭すと、今日は泊まって帰りなさいとも告げた。
だがその優しい言葉と温もりを緩く首を振って辞退し、家に帰る事をキスと共に伝えたリオンは、心配に顔を曇らせる母親のような彼女の肩を抱いてもう一度キスをし、心配を掛けて悪いと詫びると、なるべく早い内にオーヴェと仲直りもすると言い残して深夜の街へと自転車を漕ぎ出した。
その時は確かにそのつもりだった。
だが雪が降った後の冷え込みの厳しい夜道を走っていると身体の冷えが心の裡にまで忍び込んでくる。
力を見せつけた結果嫌われてしまったのなら、いっそのことこっちから別れるだけだと頭の何処かで誰かが囁き、これぐらいで別れるなど冗談ではないと反論するが、己を守るために今すぐ別れてしまえと、嫌われた相手に頭を下げる必要など無いと嘲るが、心の奥底に潜んでる声が小さいながらもはっきりと否定をする。
確かにいつもならば些細な喧嘩であれ多少激しい口論であれ、必ず着信がある携帯がいつまで経っても静かなことから、やはり嫌われたのだという思いが頭を擡げ、それに呼応するように嘲る声が強くなり、ついつい自嘲の形として口から零してしまう。
外気の冷たさと心の中にぽっかりと空いた穴がもたらす冷たさが鼻の奥に忍び込んで痛みを産み落とした為、堪えるように顔を上げて自宅へと自転車を運び、冷え切っているベッドに飛び乗って眠れない夜を過ごしたのだった。
そして今朝、気が付けば朝を迎えていたと言うのが相応しいリオンだったが、うつらうつらとしか出来ない頭がやけに奇妙なことを思いついた。
自転車をウーヴェの家に置いていくことにしたのだ。
彼に嫌われたという思いこみによって一晩中迷走した頭が思いついたのは、自転車を彼の家に置いておけば、それを取りに行くためにどうしても彼と顔を合わせなければならなくなる。そうなれば何らかのアクションが期待できるだろうというものだった。
他の者からすれば何という理屈だと呆れられるだろうが、ただただ恋人に嫌われたという思いに縛られ、出来ることならばそれを確認などしたくないと実は無意識に脅えているリオンの心と頭が弾きだした、現時点での最良にして最高のものに思えたのだ。
その思いつきを実行するために支度をし、自転車を担いで自宅を出た彼は、僅かに軽くなった足取りで恋人の家の玄関横に自転車を立て掛けたが、その時、何となく人の気配を察して慌てて背後で待ち構えていたエレベーターに駆け込み、早くドアが閉まる事を必至に祈る。
開くボタンがあるのだから閉めるボタンがあっても良いだろうとエレベーターの壁を踵で蹴り付けた時、その不満を聞き入れたようにドアが閉まって箱が下り始める。
思わず座り込んでしまいそうになるのを何とか堪え、フロアに辿り着くと同時にドアに身体を押し込むようにエレベーターから下りると、後ろを振り返る事無く雪が降り出した道を逃げるように歩き出す。
その時、背後で名前を呼ばれたような気がしたが、確かめるために足を止めることも振り返る事も出来ず、アパートが見えなくなる辺りまで走った頃に漸く足を止め、今日も一日元気に働くか、空元気も元気の内という、誰が聞いても強がりにしか聞こえない言葉を呟いて出勤したのだった。
己の昨夜から今朝の行動を思い返したリオンは、気が付けば足が向いていたクリニックが入居する建物を見上げて深々と溜息を吐く。
今から思えばどうして自転車を彼の家に置くようなことをしたのか。
今朝は最高の考えだと思ったのだが、ふと冷静になれば何やら最悪の考えだった様に思えてくる。
彼に顔を合わせるように自分を追い込む為にあのようなことをしたリオンだが、心の奥底で眠っている想いはもう一つあり、自分を追い込むだの何だのはその想いを叶えたいが為の言い訳に過ぎなかった。
それは、嫌われていようがいまいが、昨日の事を謝りたいという素直な思いだった。
今までの人生、素直に謝りたいと思った相手は片手で数えるほどしかいないが、恋人が最も苦手とする暴力を、いくら守るためとはいえ見せつけてしまった事だけはやはり素直に詫びたかった。
その思いから自転車を置き、引き取りに来た事を口実にして謝ろうとしていたのだと、心の奥底でひっそりと誰かが囁いた事に舌打ちをし、クリニックの窓を見上げればまだ人がいる気配がしたため、心の葛藤を表すようにのろのろと階段を昇っていく。
嫌われたのならばそのままにしてしまえと、今までの恋人達と同じようにさようならをすればいいと笑う声と、嫌われたのだとしても己の行為を謝るべきだという声と更に小さな小さな、どうか嫌わないでくれ、自分を理解してくれと絞り出すような声が混ざり合い、階段を昇る足を重くさせるが、それでも惰性に従うように一歩ずつ階段を昇ってフロアに辿り着いた時、エレベーターを待つ女性の姿に気付いて慌てて階段を駆け下りる。
荷物を手に溜息を吐きながらエレベーターを待っていたのは、恋人の右腕でもあり大切な友人でもある女性だった。
彼女がそこにいるのならばまだ彼はクリニックにいる事に気付き、エレベーターが下降した事を確認すると、何故だか分からないが足音を忍ばせて廊下を進み、いつもならば豪快に開け放つ扉をそっとそっと開いて身体を滑り込ませる。
控え目な照明がもたらす柔らかな空間はやはりいつ来ても落ち着けるもので、壁際の本棚の空いたスペースや、アンティーク調のカウチソファの前にあるローテーブルにさり気なく飾られている一輪だけの花は今の季節に最も美しく咲く花で、心に不安を抱えてやって来る患者に少しでも安心して貰おうという心配りを感じることが出来る。
自分は良くこの場所に騒々しいまでの足音で飛び込んでくるが、この静かな空間は何処よりも居心地が良かった。
ここの主である彼の気性や好みが反映されている結果なのだが、穏やかさと心から安堵できる不思議な空気に包まれていると、心の裡で大きくなった不安や過度に力が入って疲れている身体から余分な力が抜けていくような気持ちにもなる。
いつもの癖で診察室と書かれたドアを開けようとした時、いつかのように冷たい目で出迎えられればどうしようと、ドアノブを掴もうとしていた手を押し止める。
やっと認めた謝りたい気持ちと嫌わないでくれという思いは溢れるほどあるが、やはりどうしても勇気が出ない為に問題を先延ばしにするようなことを思いつき、取りだした携帯からメールを送信すると、結果の画面も見ずにポケットに突っ込む。
嫌われたかも知れない事実を知る日を先延ばしにし、当面の恐怖から逃れられた安堵の溜息を零して踵を返した時、再度尻ポケットに突っ込んだ携帯がピアノ曲を流し始めた。
「っ!!」
着信音を消していなかったことを思い出して慌てて引っ張り出したリオンだが、いつものようにボタンを押して答えることも出来なければ着信を止めるボタンを押すことも出来なかった。
いつまでも鳴り続けるピアノ曲にどうすればいいのか心底分からず、掌に携帯を載せて困惑の表情で見下ろし、大好きなそれをただ聴き続けるのだった。
秘書兼受付嬢であり、仕事を離れたプライベートでは貴重な異性の友人であるオルガから何かを問いかけようとして止めた様な顔で何度も見つめられるが、その事に気付きながらもついつい黙殺していたウーヴェは、今日も一日お疲れさまでしたと労いの言葉を掛け合い、仕事が終わったことを示すように表情豊かになった彼女が発した言葉に眼鏡の下の目を細めてしまう。
「リオンと何かあったの?」
その問いかけに自嘲の笑みを零してしまったウーヴェは、その笑みが違う意味で捉えられたことに気付き、やや慌てたようにそうじゃないと否定をする。
「リアを笑った訳じゃない・・・すまない」
「ねぇ、本当にどうしたの?」
今日は患者から頼まれていた筈の診断書を何カ所も書き損じたり、初診の患者から必要な書類を受け取るのを忘れたりと、日頃のウーヴェからすれば信じられないようなミスを多発し、その度に彼女がフォローに回っていたのだが、本当にどうしたとただウーヴェを気遣う気持ちで問いかけられ、肘を掴んで眼鏡を押し上げる。
「・・・何でもない」
「そう?・・・私が口を挟む事じゃないかも知れないけど、私で良ければ話して?」
あなたのように聞き上手ではないが、話を聞くことだけならば何とかなると控え目に告げられ軽く目を瞠ったウーヴェは、その言葉をしっかりと受け止めた事を伝えるように目を閉じた後、ありがとうとぽつりと呟く。
「なあ、リア」
「なに?」
「・・・・・・人を殴った時、殴った人も痛い思いをしているのだろうか」
今まで人を殴った事など無い為に実感出来ないのだが、殴った人も痛いものなのだろうかと、己の拳を見下ろしながら呟くウーヴェにオルガは咄嗟に返事が出来なかったが、そうかも知れないと小さく返し、二重窓の外へと視線を向ける。
「確かに・・・人を叩いた手が痛い時もあるわね」
「例えば?」
それはどんな時だと、デスクの端に尻を乗せて足の間で手を組んだウーヴェがオルガの背中を見つめて先を促せば、くるりと振り返った彼女の顔に微かな笑みが浮かぶ。
「昔ね、弟が随分とひどい悪戯をしたことがあったの」
その時に当然のように姉弟げんかに発展したが、いつもは優しい母が二人の喧嘩を止めるために手を挙げたと肩を竦めて教えられ、その後母が部屋で泣いている自分たちを慰めるためにやって来た時、本当は叩いた母も痛かったのだと気付いたとも告げられて軽く目を瞠る。
「どんな状況で人を叩いたのかは分からないけれど・・・確かに何も感じない人もいれば、痛みを感じる人もいるわ」
だから、もしもあなたが言ったその人が己のその時の感情のみで拳を振り上げたのでなければきっと痛かったはずと、ウーヴェの心を思って優しく伝えた彼女は、偉そうなことを言ってごめんなさいと小さく謝罪をする。
「謝ることはない。こっちこそ、今日一日不愉快な思いをさせて悪かった」
漸く己の今日の仕事ぶりを冷静に振り返ることが出来たウーヴェが謝罪をすると、ゆっくりと彼女の長い髪が左右に揺れる。
「不愉快なことなんて無かったわ。ただ心配になっただけ」
だから謝るのならば、心配を掛けて悪かったと言う言葉にしてと、今日の不安を今日中に解消できた安堵に顔の前で指先を重ね合わせる彼女に心底感謝し、ありがとうと目を細める。
「明日もよろしく頼む」
「ええ。出来れば今日のようなミスは遠慮してね、ドクター・ウーヴェ」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じてじゃあまた明日と手を振る彼女にただ苦笑した彼は、その一言で許してくれる秘書でもあり友人でもある彼女にもう一度感謝の言葉を告げて溜息を吐き、デスクに手を付いて窓の外を見る。
マルクトの屋台に灯が灯り、昨夜と同じ光景を見せ始めた広場を見下ろしていると、メールが届いたことを報せる音が携帯から流れ出す。
送り主の名を見た彼は僅かに息を飲んで携帯を操作し、届いたメールの文面を細めた視界でじっと見つめる。
そこに書かれていたのは、自転車をしばらくの間預かっていてくれと言う短いメッセージだった。
どのくらいの間預かっていればいいのかと疑問を投げ掛けようとしたウーヴェは、左足の指に力を込めてリザードの存在を感じ取って力に変えると、メールではなく電話を掛けるために携帯を操作し、耳に宛ってコールを数える。
その時、呼び出し音とは別の音楽が微かに聞こえた気がし、首を巡らせて音の発生源を探して目を細めつつ携帯を耳から離す。
片耳を塞いでいたものがなくなったためにより一層聞こえるようになったそれは、恋人が自分を連想させる音楽だと言って設定した有名なピアノ曲だった。
それが微かに聞こえることの意味を理解したウーヴェは、診察室のドアを開け放って躊躇うことなく叫ぶ。
「リオン!!」
己の想像通り、開け放ったドアの向こうでは、鳴りやまない携帯を片手に眉尻を下げてドアを見つめて佇むリオンがいた。
「ハロ、オーヴェ」
小さく笑みを浮かべる恋人を抱き寄せようとするが、腕が身体に触れた瞬間にびくりと竦んだことに気付き、拳を作って腕を引き戻す。
触れられたくないと思うほど呆れさせてしまったのだろうか。
自嘲に肩を揺らしたウーヴェの前ではリオンが心底困惑した顔で立っているが、いつも驚くほど澄んでいる蒼い目に悲しみに似た思いがたゆたっている事に気付き、自分を嘲る心をグッと抑えてリオンの顔を真正面から見つめ、昨夜伝えることの出来なかった言葉を小さな声で口にすると蒼い目がみるみるうちに見開かれていく。
「本当は真っ先に言うべきだった─────ありがとう、リオン」
心身に与えられた暴力から守ってくれてありがとうと、腿の横で携帯を握ったままの手を少しだけ見つめた後、驚きに彩られる相貌に微かな笑みを浮かべてもう一度、昨日抱えていた思いを教えるようにありがとうと告げると携帯がその手から滑り落ちる。
「・・・自転車・・・また取りに来ようって・・・・・・」
ウーヴェの前で爪をかりかりと引っ掻きながら言い訳じみたリオンの言葉をただ黙って聞いていたウーヴェは、言葉が途切れたのを見計らってそっとその名を呼ぶ。
「リオン」
「・・・っ電話しようとしたけど・・・落ち着いて話が出来るか・・・分からなかった」
久しぶりに喧嘩をした心と身体はいつまでも興奮したままだった為、何かとんでも無い事を口走るのがイヤで黙ったまま出て行った事を教えられ、ゆっくりと頭を振って気にすることはないと告げる。
「自転車を置きに来たのは朝か?」
「・・・・・・オーヴェが出勤する前」
やはりあの時下りていったエレベーターにはリオンが乗っていたのだと、今朝の出来事を脳裏に描いて苦く笑ったウーヴェは、呼んだ事に気付かなかったのかと疑問をぶつけ、金髪がぱさりと左右に揺れたことに目を細める。
「どうして待ってくれなかった?」
随分と恥ずかしいところを通行人や警備員に見られてしまった為、当分の間彼らと顔を合わせるのが気恥ずかしいと冗談交じりに告げると、びくりと肩を揺らすリオンが悲しくて、爪を引っ掻く手をそっと掴んで口付ける。
「オーヴェ・・・」
「・・・もう痛くないか?」
慈しむように手に頬を寄せてもう一度キスをし、痛くないと首を振って否定する恋人に目を細める。
「この手が俺とお前を守ってくれた。ありがとう、リーオ」
俺を守るとの約束をちゃんと果たしてくれていると、言い表しようのない感謝の思いを込めて囁き、驚いたように目を瞠る恋人に苦笑する。
「どうした?」
「俺・・・お前が一番嫌ってる事をしたから・・・嫌われたと・・・」
愛する人が最も嫌悪する暴力行為を見せつけ、しかもお前が誰かを罵るのを見たくないといつも言われているにも関わらず、抑えきれずにあんな言葉を吐いてしまったと、それだけを悔やむような声に首を振って否定をし、確かに暴力は嫌いだし見るのも辛いが、最も辛かったのはお前の笑顔だと告げ、青い眼を更に見開かせてしまう。
その様子に小さな溜息を吐いた後、右手に浮かんだ痣に目を閉じる。
人を殴った時、殴った本人は痛くないのかとの疑問をオルガにぶつけたが、当然ながら痛みはあるわけで、その証でもある痣を頬に軽く押し当てるように引き寄せると、自分と恋人の心身を守ってくれた手に感謝の思いを伝えるように胸に抱え込む。
あの時、狂暴性を身に纏わなければならなかった小さなリオンを垣間見た気がしたが、その彼にも届くように大きな背中に腕を回す。
「もうあんな顔で人を殴る必要は無い。もう良いんだ、リオン」
感情の総てを笑顔で押し隠す事で心の中にいるもう一人の自分を守る必要はないと、見抜いた悲しみや苦しみから来る痛みを感じたように顔を歪め、しっかりと抱き寄せるように腕を回したウーヴェは、震える腕が背中に回ったことに安堵の溜息を零して顎を肩に預ける。
「痛かったな」
傷つけた相手を殴るために手を挙げたが、その手も痛かっただろうと背中を撫でながら囁き、頷かれた気配を感じて目を閉じる。
「許してくれ、リオン」
お前に暴力をふるわせた事も、お前を責めるようなことを言った事も悪かった。
「オーヴェは・・・悪くない」
背中をきつく抱かれ、見境無くやってしまった自分が悪いのだからと謝られたウーヴェは、力を緩められたのを察して僅かに離れると、今度は額と額を触れあわせる。
お互いが悪いと思ったことを素直に伝えあい、それを受け容れられる関係でいられる事に、遠い昔に止めてしまった神に感謝する気持ちを思い出しそうになったウーヴェだが、神に感謝するよりもまず今その感謝の思いを伝えたい相手が目の前にいる事を思い出して目を閉じる。
「ダンケ・・・リーオ」
過ちを犯す自分を許してくれてありがとうと有りっ丈の思いを込めて囁くと、頬を両手で挟まれて短い言葉で受け止め、同じ思いを同じ言葉で返される。
その時、頬を包む温もりと額に重なるその奥で膝を抱えるように小さく丸まる幼いリオンの姿を見た気がした彼は、その子どもにも伝わるようにもう一度感謝の言葉を告げ、その子供が顔を上げて笑ってくれるように祈りながら一緒に出掛けようと笑顔で誘う。
「オーナメントを買いに行かないか?」
「・・・壊れちゃったか?」
「何度も落としてしまったからな」
昨日と同じようにもう一度オーナメントを見に行こうとキスの後に誘い、少しだけ浮上したような声が疑問を投げ掛けたために苦笑しつつ詫びると、頬を包んでいた手に眼鏡を取り上げられ、条件反射のように目を閉じる。
「・・・・・・ん」
最初は触れるだけのキスだったが、次第に角度を変えて深くなっていき、気付けばどちらも離れがたいほどのキスを交わしていた。
「用意をするから待ってくれ」
離れていく唇に名残惜しさを伝えるように小さなキスをし、帰る支度をするために診察室へと戻ったウーヴェを頷いて見送ったリオンは、嫌われてしまったわけではない事に安堵の溜息を零し、いつも座るカウチソファに腰掛けて彼が出てくるのを、ここにやって来た時とは雲泥の差の気分で待っているのだった。
そんなリオンの気持ちを表すように、降っていた雪はいつしか止み、雲の切れ間からは冬の星座が瞬き始め、広場のライトアップが地上の星のように窓の外で煌めいているのだった。