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Side 健治
「菅生さん、辞めちゃうなんてもったいないですよ。今回の緑原総合病院の件だって大金星じゃないですか」
引継ぎの挨拶周りで同行している|栢浜《かやはま》市緑原区担当の小坂に言われ、苦笑しながら返す。
「もう少し、のんびりと暮らしたくなってな」
「そうですよね。この仕事、忙し過ぎですよ。僕なんて休みの日に娘をあやそうと思って抱いたら、大泣きされて切なくなっちゃいましたよ。我が子に人見知りされるなんて思わないじゃないですか」
小坂は、愚痴を言いながらとても幸せそうに笑っていた。
赤信号に引っ掛かり車が停車すると、歩道をベビーカーを押しながら歩く親子連れの姿が目に入る。
我が子か……。
美緒とそろそろ子供でも、と思った時もあった。
だが、勝手な振る舞いをして美緒を酷く傷付けてしまった。
そして、離婚……。
今は、我が子なんて、夢のまた夢の存在。
「菅生さん、辞めた後、何処に行くか決まっているんですか?」
辞めれるどうかはっきりしていない状態で、次の仕事先を探す事なんてしていなかった。大学の同期や先輩に声を掛ければ、どうにかなるとは思うが、
今は、目先の問題で精一杯だった。
「実は、まだ、決めていないんだ」
「俺ら、国試取っているから何とでもなりますしね。給料落ちるかもしれないけど、喰いぱぐれはありませんから焦らなくても平気ですよね。同期に声をかけると何処も人手不足で引っ張りだこですよ」
「仕事を辞めて、この先どうするか考えないとな……」
ウインカーを立て、左折をすると裏門に辿り着く、その門を過ぎると緑原総合病院の従業員駐車場になる。
入口から少し離れた所の駐車場に車を停めた。
ここに来る度に、緊張する。
ましてや、先日の謝罪から始めての訪れた。
今日は、横にいる小坂への担当引継ぎの挨拶が、目的なのだ。
午後の診察が始まる少し手前時間。
数人の患者さんが受付待ちで、待合室の椅子に腰を下ろしていた。
受付カウンターに立ち寄り、挨拶をしてから廊下の奥にある医院長室へと足を進めた。
先日の重則の剣幕を思い出すと気が重いが、仕事なのだからと自分に言い聞かせた。
ドアをノックすると短い返事が聞こえ、「失礼します」とドアを開ける。
重厚なオーク材の一枚板の机の向こうに、重則ではなく成明が座っていた。
「菅生さん、先日はお世話になりました」
開口一番切り出され、少し焦った。
「こちらこそお世話になりました。先に退席して申し訳ございませんでした。その後、ご配慮くださりありがとうございます。本日、医院長は?」
「医院長は、体調不良で長期療養に入りました」
「体調不良ですか……」
「ええ、年齢も年齢ですしね」
そう言って、成明は薄く微笑んだ。
その含みのある笑みに、俺は何かを察した。
「医院長の一日も早いご回復をお祈りいたします」と挨拶をした後、小坂を紹介し、引継ぎは終了した。
これで、緑原総合病院は自分の手から離れた事に安堵する。
「では、失礼いたします」と帰ろうとしたした所で成明から声が掛かる。
「菅生さん、話があるので、少し時間よろしいですか?」
野々宮成明に呼び止められ、小坂には先に車へ戻ってもらった。
改めて、2人で対峙して何を言われるのか、緊張する。
不貞行為の損害賠償請求を野々宮成明にされても仕方がない立場だ。
医院長室の重厚なオーク材の机を挟んだ向こうから回り込む様にして、成明が神妙な面持ちで近づいてきた。
広い部屋だというのに成明は隣に立ち、声をひそめて話し出した。
「果歩に離婚を申し入れました。義父には、果歩を自宅に引き取るように伝えたのですが、あの通りの人なので……」
「じゃあ、果歩さんは……」
誰の目も行き届いていない状態だなんて……。
ザワリと背中に悪寒が走る。
思い返せば、俺のマンションに現れた時も、少し様子がおかしかったように気がする。
果歩は、あんな縋るような目をする女じゃなかった。
「果歩さんは、美緒……うちの妻を逆恨みしています。彼女が再び狙われるような事にならないようにしてください。お願いします」
美緒は、すでに俺と暮らしていたマンションを出て、独り暮らしを始めている。
俺と一緒に居るよりも、安全なのか、それとも……。
「わかりました。果歩の様子を見に行ってみます」
成明はそう言ってくれたが、不安が胸を覆い尽くす。
「思ったより早く終わりましたね。菅生さん、この後飲みに行きましょうよ」
仕事の終わりに声に小坂に声をかけられた。
思わず、左腕に嵌めた時計に視線を落とす。
時刻は6時42分。
今からでも急げば、美緒の退勤時間に間に合うかもしれない。
「悪い、また今度!」
「えー!」という小坂へ軽く手を振り、足早に会社のエントランスホールを抜ける。
車に乗ると、すぐさまアクセルを踏み込んだ。
不安感が、増していく。
赤信号に引っかかる事さえももどかしい。
早く、早くと気が急いだ。
角を曲がり、少し走ると蒔田医院が見えてくる。
すると、蒔田医院の駐車場へ小走りに駆けて来る美緒の姿を見つけた。
車を路肩に停め、声をかけようと思った。
だが、美緒は蒔田医院の駐車場にあるSUV車に乗り込んだ。
運転席には、三崎医師が居る。
その三崎医師に美緒が笑顔で話し掛けている。
「あ……」
離婚届にサインをした。
慰謝料の支払いにも応じた。
美緒とは、もう夫婦でなくなるんだと、腑に落ちた。
「俺じゃなくても、美緒を守る人は居るんだ……。これじゃ、ただのストーカーじゃないか……」
それこそ、果歩が美緒に何かをする確証もないのに、美緒を連れて帰ろうとするなんて、どうかしていた。
美緒にしてみれば、離婚をする夫に迎えに来られても、迷惑なだけだ。
「はぁ」と大きく息を吐き出し、気持ちをと落ち着かせ、蒔田医院の方へ視線を向けた。駐車場に停まる車の中で、三崎医師と美緒は楽しそうに笑っている。
ギュッとハンドルを握りしめ、アクセルを踏み込んだ。
いたずらに美緒を怖がらせる必要はない。
後で、メッセージを送り、それとなく野々宮成明と果歩の離婚が確実になったと伝えればいい。
車のスピードが上がるにつれ、街の景色が後ろへと流れて行く。
ふいに、自分自身が、無価値になってしまったような虚無感に襲われ、胸がたまらなく苦しい。
スピードを落とし、車を路肩に停めると、景色が歪む。
ハンドルにうつ伏せると、ぽたぽたと雫が落ちる。
泣いているんだと思った。
大切な人が、自分以外の誰かを見つめていることがこんなにも苦しいだなんて……。
美緒の泣き顔が脳裏を過る。
俺は、美緒を何度も傷つけていたんだ。
どうしようない自分に辟易する。
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